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*いろいろな出来事*

 



世界一貧乏な大統領

2015年10月12日

フィンランドに行った


南米ウルグアイ、ホセ・ムヒカ元大統領

ムヒカ大統領のリオ会議スピーチ: (訳:打村明)

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会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。

ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。

しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。私たちの本音は何なのでしょうか?現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?

質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。

息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?可能ですか?それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?

なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?

マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。

私たちがグローバリゼーションをコントロールしていますか?あるいはグローバリゼーションが私たちをコントロールしているのではないでしょうか?

このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で「みんなの世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?

このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。その逆です。我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、政治的な危機問題なのです。

現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。幸せになるためにこの地球にやってきたのです。人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。

ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。

このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。人がもっと働くため、もっと売るために「使い捨ての社会」を続けなければならないのです。悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。

石器時代に戻れとは言っていません。マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。

昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」

これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。

国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。

根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。

私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。私の国には300万人ほどの国民しかいません。でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。ヤギも800万から1000万頭ほどいます。私の国は食べ物の輸出国です。こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。

私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。なぜか?バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。

そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。これらをもたらすべきなのです。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。

ありがとうございました。

 

 

 

 

 

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UNASUR(南米諸国連合)のムヒカ大統領の就任スピーチ

 

翻訳:打村明

 

国民のみなさま、ここにお集まりの大統領様、仲間の皆様、大使の皆様、多いに感謝いたします。

私はちょっとイカれた一般市民です。

私の唯一の功績は品がなく、頑固で、熱心で、継続的な性格で耐えることができたことです。私は決して偉人ではありません。刑務所に入ってしまった理由はスピードが足りなく捕まってしまったからです。(笑)

ヒーローの資質はありません。しかし、内なる炎のようなものは持っています。社会の階級、社会的な不公平差が我慢なりません。人間は社交的な動物なのだと思います。地球での人間の歴史の90%を家族や家族集団で生活してきました。一人では生きていけず、みんなの助けが必要な変わった猿なのです。そのことがハードディスクにインプットされ、そのハードディスクは社交的なのです。

だから「人間は政治的な動物だ」と断言するアリストテレスは正しいのです。そうなんですよ、猫ではないのです、社会に認められたいのです。

しかし歴史の様々な出来事が、後の1割の人類の歴史の責任者なのです。9割がそうではないのです。美しいものを与えてくれたのです。気づいてみたら私たちは100年前と比べ、40年も寿命が延びました。

結局のところ、世界には飢餓があると知っている、人口も倍あります。食料も倍ありますが生産したものの30%を私たちは捨てています。この残り物を犬にもあげませんし、ましては貧しい人にも与えません。それがこの文明のむき出しのクリアで悪性的な矛盾点なのです。そしてその矛盾に充電し戦い続けているのです。

こんなにものが溢れている現代のような時代はいまだかつてない!

こんなにたくさんの知識もいままで決してない。

世界の1分間に消費される軍事費は2兆米ドルですよ。

私はこの衝撃的な事実を伝え続ける事を私はやめませんよ。

「世界の何百万人もの貧しい人たちに目を向け、人間味のある生活ができ、世界の需要を大きくできるような地球規模のプランのためのお金がない、リソースがない」と言える人は恥知らずです。

世界のもっともお金持ちな人が毎日100万ドルを使ったら、財産を使い果たすのに220年もかかると言っていますが、2%から4%の利率がありますから1日400万ドルのお金も入ってくるので、もっとかかります。

私たちが「世界にお金がたりない」なんて言えるのは、お金を出して解決できる人に要求ができず、その人のポケットに手を突っ込めず、そうさせることができない政治的意気地なしだからなのです。だから私は政治にいるのです!

だから政治の世界で戦うのです。結局のところ、簡単に言うと貧困者のためにベーコンをもう少し太く切らなければならないということです。政治というのは自分には好都合で別の人には不公平な選択肢を決めなければいけないものだからです。マジョリティーにいるか、マイノリティーにいるのか、中立でいられず、どちら側かを選択しなければいけないのが政治です。

みなさん、これの他に別のこともあります。正義より大事なこと。

私たちは生きている世界は涙の谷で、死んだらパラダイスにたどり着くという思想にはめ込まれて育ってきました。天国はいまここなのです!或いは地獄は今なのです!人がより良い暮らしをするには、いま人生のために戦わなければならないのです。中立な立場なんてないのです。ですので、忘れられがちな中立で基礎となる価値観について話すのであれば、意味があります。

私は尊敬されても自分の指なんてしゃぶりませんよ。老人のまま私はここを出て行きます。そんなことより考えなくてはならないのが、ここには沢山の若者がいること。そしてあなたが若ければ次のことを知っとかなければならない。

人生というのは1分1分とあなたから逃げていきます。足りないからといってスーパーで追加で買うことができないのです。ですので人生を活きるために戦ってください。人生に中身をあげてください。他の生物の生き方と人間の生き方の違いというのは、あなたには自分の人生の方向性をある程度決められるというところにあります。あなたが自分の人生の道の創設者になれるのです。

生まれたままに生きる植物と違い、あなたは生まれたあと自分の人生に中身を詰めるか詰めないかを選択できるのです。

マーケットに自分の命を売り、必要でもないものを買いあさり、ローンを支払いながら人生を過ごしていたらあっという間に私のような老人になってしまいますよ。リューマチまみれのね。あなたはこんな世界に生まれたのです。ぶち当たってこそ、世の中に何をしたのかが分かります。

でも、あなたには夢があり、その夢のために戦い、希望を残ったものに伝えようとしたのならば、あなたのその活気が丘の上や広い海に少し残っているのかもしれない。その一瞬の記憶がどんなにすごい記念碑よりも、伝記よりも、賛歌よりも、詩よりも価値あるものなのです。

人類の希望は新しい世代で具現化するのです!

みなさま、命より大切なものはありません。幸せのために戦ってください。そして幸せといのものは人生に内容を詰めるということなのです。道を作り、襲われてはいけないのです。そのためのレシピなんてありません。ここにあります、あなたの良心に。使われるか、それとも奇跡的に生まれたこの機会を使うか。

また戻りますが、若者にもうひとつアドバイスをさせてください。

不可能なことを可能にするには更なる努力が必要です。そして本当に負けてしまうのは腕を下げ自分を渡し、諦めるときのみです。

人生では何千回といろんなことで転びます。愛で転び、仕事で転び、いま考えているその冒険でも転び、実現しようとしている夢でも転びます。でも、それには千と一回立ち上がり、一からやり直す力があなたにはあります。

その道が実は一番大事だからなのです!

ゴールなんてありません。勝利のアークも、私たちを待ち受けている楽園も、戦争で死んだからって待ち受けている側女なんていうのもありません。そこで終わった、それだけなのです。あるのは別のものです。それはどんな状況にいてもこの短い人生をフルに活き、人生を愛し、そのために戦い、人に伝えようとする美しさです。人生はもらうだけではだめなのです。まずは自分の何かをあげることなのです。どんなにボロクソな状態でも、必ず自分よりも悲惨な状態の人に何かを与えられます。

みなさま、私は若かった。1940年代、南米のスイスと呼ばれる国で勉強をしました。英国帝国にとって私たちは特権を持ったやっかい者でアルゼンチンのみなさんと同じくとてもうまく行き、世界の権力ある国々の間にいても誇り高くいられました。ラ・プラータ川は南米の中でも特殊な場所でした。

ヨーロッパ人のようにも見られ、一時期自分たちもそう思ってしまうほどでした。しかしそれは妄想に過ぎませんでした。戦争の後に世界は変わり自体は変わりました。IMFに借金をしはじめてしまったのです。それが私の青春時代でした。とても美しく高いところから世界を見ていた現実が崩れ落ちました。高いところから落ちるのが一番痛いのです。もともと下にいるのに慣れている人は断念できるのですが、上に行ってしまったら落ちるのは痛い。

ですので私はそういった上から落ち、顎を打ってしまった人たちで世界を変えようとしたムーブメントに参加していましたがフクロ叩きにされました。

夢を宥め、無産階級の独裁政権が階級の戦いの大事な解決になると思っていました。各世代でのそういった過ちをしてしまいます。しかしその昔の内なる火がとても強かったからこそ今に至るのです。自分たちの犯した過ちを受け入れながら命という恵みと寛大さにも気づきます。そして世界が物とお金と資源で溢れている中、人に車を貸すことも惜しみ、貧乏人に手を差し伸べず、野良犬にご飯も家も上げないような、こんなにもセコイ世界は他にあるのでしょうか。神様に謝りたい。心を開き、間違ってでも人に世界に自分のすべてを捧げる青年達が恋しい。

若者たちよ、私はあなたたちに伝えたいのは昔の葛藤や昔の過ちの愚痴ではありません。人生はずっと続く学びの場で、間違った道やお互いの足を踏んでしまう道です。

しかし私たちを押した昔の要因がいまの時代にも存在し、資源と可能性に満ちた地球にいままでにない富の集中、いままでにない貧富の差が見られます。人間は無限に良くなっていく社会を作れるのだと信じています。歴史の深くに閉ざされた古来の社会を勇気を持って見てみてください。

石器時代の人になれとは言っているのではなく、人間社会を守る為の寛大な精神から学んでほしいのです。幸せになるための根本的なこと一番シンプルなところを理解し実行するには他の人の命が必要なのです。個人は無です。

個人は社会依存していて、その社会の歩みこそが私たちの生活を永続的に豊かにしていくのです。ですのでこの共同の動機をいまのこの歴史に立たせなくてはならないのです。このラテンアメリカではこの動きに名前が付いています。お互いが寄り添って、統合し、多様性を尊重する文化を活気付けるムーブメントです。それをしながら私たちの隠された深い歴史も見せていかなければなりません。

これはしなければいけないことだし、政治的要求と次世代の若者の真剣な関わりが、幸せに暮らしたければできることです。そのような、人生をかけられる活きたアイディアを提起してください。マーケットの奴隷になんて絶対にならないでください。

これからの世界は私たち次第です。そして我々ラテンアメリカ人はこの現実に遅れてそして後ろからスタートしたからこそ、文明の最高の一面を見せなければなりません。平和な南米大陸、公平な南米大陸、団結する南米大陸、生めれて死んでいくのが美しい南米大陸、公平さにイエスという南米大陸、憎しみのない南米大陸、復讐を望まない南米大陸、命の泉であるこの地球という惑星の創造性を守り人間という動物を尊重する南米大陸でなければなりません。

あなたの存在にコンテンツを与えてください。このことを意識的にしないと、その内容はまた新しいゴミを買うための月末の支払い金に変化してしまい、その悪循環にはまり、あなたの人生の最後の日まで続き、気づけば骨ひとつ上がらず記憶と生命力と共にサヨウナラです。

コレアさん(コレア大統領)違います。若いのは一度きりですがそれは外観です。若さだけでなく、鏡を見て現実に責任をもつ不遜さ、それは若くても、年取ってても、中年でもできることです。世界を男、女、黒、黄色に分けてはいけません。いいえ!2つのカテゴリーに分けます: やり通す人とそうでない人です。やり通すというのは大義を抱きしめることです。

ですので私は出口の時間に近づいているとわかっています。どのようなときに死のうともうやることはやったのです。私はまだ死後の世界も神も信じることができていませんが、すべての宗教を尊敬します。なぜ様々な宗教を尊敬するか?病院で死に際にいたる人たちに良質な死ぬプロセスを与える偉大なサービスを与えるからです。その宗教を信じなくてもバカにすることはできません。尊敬しています。

宗教の正当性について考えさせられます。どの時代でもどの世代でもすべての歴史のなかにもそして世界の隅々で人間はいつも何かを信じています。

人類ほど非現実的なものはありません。だからこそ死後の世界をも創造することができるのです。人類が好きですし感嘆しています。宗教を尊敬しています。私もいつかは土に還るか、みなさまの頭の上に飛ぶハトになっているといいですね。

エクアドルよありがとう!みなさまお元気で

ペペ・ムヒカ

参照元 Read the original here: http://hana.bi/2015/05/mujica-unasur-new-speech/#ixzz3oJwJgqET
Under Creative Commons License: Attribution Non-Commercial
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自転車の行動範囲が広がった。

2015年6月10日


薬というか、塗り薬としてや飲み薬として使っているオリーブの粉末をとりに、鈴木医院の近くの健ライトに行った。鈴木医院ではずっとこのオリーブの粉末がOリングでいいと出ており、使っている。それがときどき切れる。今回も危ない所で、ちょうど昨日切れた所に「入荷しました」と電話があった。
注文してあったのは700円四袋だが、フィンンドに行くことも考えたら十袋くらいは7月末までに要りそうだと余分に買った。ティートリーを使わなくてよくなったので、それくらいの余裕はできたのである。
自転車で行ったのだが、帰りに出町の商店街によることにして、まず行きつけの肉屋に行った。130円の羊のコマ肉を400g買った。明日あたりカレーを作って、四五日食べようと言う魂胆だ。カレーはなんといっても羊がうまい。羊と玉ねぎをヨーグルトと生クリームで煮て行く。あと肉屋の店頭の冷蔵庫をひっくりかえす。ここで鴨肉を買ったり、牛テールを買ったり、ラムの女王陛下風のカットを買ったりするのだが、今日はアイスパインが目についた。900円は一回の食事には高いが、二三日残りを食べられるし(これも余ったらカレーにしても良い)煮込んだスープは三四回は食べられるから決して高い買い物とは言えない。思い切って買った。
しかし本来はさいてい一週間は冷蔵庫に入れるものなのだが、一週間後ではなく今日食べたい。だから家に帰って超特急で漬け込みをした。これは典型的なドイツ料理で、ミュンヘンの郊外のレストランで独峰さんに何度かごちそうになったことがある。だが自分では大変荒っぽい作り方をしていて、スパイスに漬けて一時間程置き、いきなり三時間くらい煮てしまう略式でやってみた。一週間も待っていられない。もうひとつ買って来て、ひとつは一週間の本格派、もうひとつは津村流の略式ということにすれば気がすむかもしれない。
略式の方法は、豚の皮付き骨付きの塊を一度ゆでて、その湯を捨てる。
30分程ナツメグ、シナモン、クローブ、ローリエの歯に漬け、そこに醤油、ごま油、山東酢などで漬け込む。この三つはむろん原レシピにはない。
もう一度煮直して、こんどはある野菜、オニオン、黄色いピメント、にんじん、古いりんごなどを入れて一緒に煮る。最初強く、あと弱火で三時間煮る。これで出来上がり。深めの大きなスープ皿に肉を置き、まわりにりんごや野菜を並べる。今度は一週間かけるのとどう違うかをぜひ体験してみよう。
バインは足のこと。アイスは氷だが、皮やゼラチンが氷のように見えるという説や、昔豚の骨をスケートに使っていたという説や岩塩が氷のようだという説があり、要するにドイツ人も知らない。ドイツを代表する料理なのに語源が曖昧なのはドイツらしくなくてまた興味深い。HOMEに返る

 



 

露伴2
露伴の生活文化2  はたきと箒

2014年3月22日


露伴は家の中で作業するための小道具を揃えていて、それを桐の三段の小さなひきだしにきちんと入れていた。「おとうさんのおもちゃ箱と称する桐の三ッひきだしの箱があって、父専用の小道具類が詰まってい,何かするときはきっとこれを持ち出すのである」
もってきた「はたき」と「ほうき」を直している。その間に水がぬるむように日向水を作る。「鋏を出して和紙の原稿反古を剪る、折る」「団子の串に鑢をかけて竹釘にする、釣綸(つりいと)の切れ端らしい渋引の糸屑で締めて出来上がり。さっきのはたきとは房の長さも違っている」
箒も洗って歪みを直す。第1日はまだ掃除が出来るところまでいかない。こういう作業をしながら露伴は弘法筆を選ばずなどというのは愚説で、その器を選んでこその名工だと聞かされる。

二日目には何からやるのかねと聞かれて、「はたきをかけます」というと、まず整頓をしなければ掃除は始まらないといわれる。次ははたくよりないと文は思う。だが、その前に天井の煤から落とさないとまた障子も汚れると言われればその通りである。箒で天井のゴミを取るには天井板にさわってはいけない。その箒を縁側ではたいていたら、しかられる。
「煤の箒で縁側の横腹をなぐる定石はない。そういうしぐさをしている自分の姿を思い描いて見なさい。みっともない格好だ。女はどんなときでも見よいほうがいいんだ。働いている時に未熟な形をするようなやつは、気取ったって澄ましたって見る人が見りゃもんだいにならん」こういう露伴の言葉が実に深い。
「ばたばたとはたき始めると,待ったとやられた」こういうときの娘を叱ることばが実にいい。またよくぞ文さんが覚えていた物だと思う。
「はたきの房を短くしたのは何の為だ、軽いのは何の為だ。第一おまえの目はどこを見ている。埃はどこにある。はたきのどこが障子のどこへあたるのだ。それにあの音はなんだ。学校には音楽の時間があるだろう。いい声で歌うばかりが能じゃない、いやな音をなくすことも大事なのだ。あんなにばたばたやって見ろ、維持の悪い姑さんなら敵討ちがはじまったよって駆け出すかも知れない。はたきをかけるのに広告はいらない。物事は何でもいつの間にこの仕事ができたかというように際立たないのがいい」
悔しいが反論のしようがない。叱る言葉にも愛と優しさがあり、同時にイガのような厳しさと意地悪さがある。片言隻句が「文学」している。
「おれがやって見せるから見ていなさい」
「房のさきは的確に障子の桟に触れて軽快なリズミカルな音を立てた。何十年も前にしたであろう習練は、さすがであった。技法と道理の正しさは、まっ直ぐに心に通じる大道であった。かなわなかった」
文がやってみると、ぴしりびしりと音を立ててしまう。父は「お嬢さん痛いよお」とからかって、紙が泣いているといった。
そう、紙も泣くしはたきも泣く。
代々の女中はみな唐紙をぶっ叩いていたが、それでもいつも埃を残していた。
「唐紙は毎日はたくほど埃がたまるものではない。しかし埃はたまる。たまるからその時は羽根の塵払いをつかえ、羽根のないときにはやつれ絹をつかえ、絹の無いときはしら紙はたきをつかえ、それもないときはむしろ埃のまんま置いとけ」と言われる。文は「唐紙というものは大事な物なんだなあ」と深く印象づけられるのだ。

 

 

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/幸田露伴 より
「幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年8月22日(慶応3年7月23日) - 1947年(昭和22年)7月30日)は、日本の小説家。本名は成行(しげゆき)。別号には、蝸牛庵(かぎゅうあん)、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都)下谷生れ。帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章。娘の幸田文も随筆家・小説家。『風流仏』で評価され、『五重塔』『運命』などの文語体作品で文壇での地位を確立。・・・擬古典主義の代表的作家で、また漢文学・日本古典や諸宗教にも通じ、多くの随筆や史伝のほか、『芭蕉七部集評釈』などの古典研究などを残した。・・・同世代の尾崎紅葉ととも「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。「写実主義の尾崎紅葉、理想主義の幸田露伴」と並び称され明治文学の一時代を築いた露伴は、近代文学の発展を方向づけたとされる。また尾崎紅葉・坪内逍遥・森鴎外と並んで、「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもある。・・・1907年(明治40年)、唐の伝奇小説遊仙窟が万葉集に深い影響を与えていることを論じた『遊仙窟』を発表。1908年(明治41年)には京都帝國大学文科大学初代学長の旧友・狩野亨吉に請われて、国文学講座の講師となった。同時期に内藤湖南も東洋史講座の講師に招聘されている。この両名はそれぞれ小説家として、ジャーナリストとして当時から有名であったが学者としての力量は未知数であり、狩野の招聘は破天荒とさえいわれた。
露伴の指導を仰いだ青木正児によると、日本文脈論(日本文体の発達史)・『曽我物語』と『和讃』についての文学論・近松世話浄瑠璃などの講義内容で、決して上手な話し手ではなかったが学生の評判は非常によかったという。ただし、黒板の文字は草書での走り書き、しかも体格ががっちりして頭が大きいのでその文字を覆ってしまい学生達はノートを取ることが難しかったという。露伴は学者としても充分な素養があったのだが、何かの事情により夏季休暇で東京に戻ったまま、僅か一年足らず(京都へ移り住んだのは当年初めだった)で大学を辞してしまった。露伴自身は冗談めかして、京都は山ばかりで釣りが出来ないから、と述べているが、官僚的で窮屈な大学に肌が合わなかったようだ。また、妻の幾美子が病気がちであったことも理由に考えられる(幾美子は翌1910年に亡くなっている)。皮肉なことに、大学を辞めた翌年の1911年(明治44年)に文学博士の学位を授与されている(『遊仙窟』が主要業績)。
しばらく作品を発表しなかった時期の後、『幽情記』(1915年から1917年の作品をまとめた短編集)『運命』(1919年)を発表、大好評を博して文壇に復活する。これらは中国の古典を踏まえた作品であり、これ以降も中国から素材をとった作品を多く発表している。小説を書くだけではなく、道教研究でもパイオニアの一人であり、世界的にまだほとんど道教が研究されていない時期に幾つかの先駆的な論文を表している。これらの評価については、『運命』は谷崎潤一郎らの絶賛を博したが、高島俊男は中国の史書の丸写しに過ぎないと批判している。道教研究に関しては南條竹則が「道教の本を色々漁ったが、最も感銘を受けたものは露伴とマスペロのものだった」と述べており、アンリ・マスペロの「道教」と並んで未だに道教研究の古典として名高い。・・・」

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劇画では法輪功は金鵬来と呼ばれている。

2014年3月31日


王子の帰りに古本屋で100円で何冊か買ったゴルゴ13の中に法綸功の話があった。中国の反体制気功の話だから、一言書いておきたくなった。この劇画では法輪功は金鵬来と呼ばれている。その金鵬来の信者たちの天安門前でのデモの場面から始まる。警官隊に弾圧されるが、実は弾圧されるのはだいぶ後のことだ。最初江沢民は法綸功の存在を知らず、何度かのデモを放置していた。各地の共産党本部の包囲が始まってからやっと腰を上げ、取締を始めた。彼らは共産党の一部の新聞が一連の派手な気功をやり玉に上げた事に対して、宇宙語をしゃべったりする人だましの気功と一緒にするなと声を上げたのだ。それでいうと法輪功の人々に罪はなさそうだが、教祖の李洪志自身はニューヨークに邸宅を建て、中国に一波乱起こしたい意思があって、この時はインドネシアまで来て争乱の指揮をとっていた。一人ではなく何人かのアメリカ人の顧問(むろんCIA)と一緒だった。だからこそ中南海(政府要人の自宅のあった)を包囲するという強気に出たのだ。
劇画では趙紫陽首相らしい人物が法輪功を「単なる宗教団体」として擁護し、江沢民に叱られる。しかし趙は十数年前の天安門事件で失脚しており、常務委の中で江をいさめることができたのは朱鎔基だけだったが、むろん法綸功は宗教ではなく気功団体であり、これはとんちんかんな対話になっている。とにかく江が「内乱になるぞ。数年で一億にふくれあがった教団がこのまま増え続ければ」と叱責するのだが、一億は法輪功の自称であり、実質はやめた人も含めて400万くらいだったとされている。人民解放軍の副参謀長の龍東民(架空の人物)がその場を引き取って「全権を任せてくれたらニューヨークから拉致するか殺す」といってその任務を引き受ける。

中国のニュースが言っている。金鵬来は「病気が治ると治療を拒否して死んだ者があとを絶ちません」「人類は81回も滅んでいるなどと現代科学を否定する反動分子が」というようなことは事実だがこういう批判が出るのはだいぶ後、少なくとも半年以降である。また「日本のカルト教団と同じ邪教カルト金鵬来」という認識はなかった。
共産党幹部の夫人たちを龍が脅迫に行くのだが、こういうことはあったかも知れない。李洪志の『中国法輪功』の口絵写真には張聞天夫人の頭に手を当てて「治療」している写真なども載っている。教祖柴洪史は眉の間に点があって人民服を着ている。李洪志はこんな点もないし、人民服など来た事はない。ピンクの練功服かふだんの治療パフォーマンスは背広ネクタイだ。心禅仁の三原則だとか、天目についての話は法輪功の教本からとってきたものだ。彼を守ろうとするケイン・チャンはまだ少年だが、第一段階の悟りを開いてもらう。第五段階まであるのだ。柴はワシントンで天目祭をやろうと提案する。龍は絶好の機会と、ゴルゴに狙撃を依頼する。それは金鵬来サイドにも漏れ、防弾ガラスのケースを作ってその中でバフォーマンスをするように柴は言われる。ゴルゴは説教の途中でそのケースに空気を送るパイプを狙撃し、そのパイプから毒ガスが出るようにする。柴は立ち上がって外に出て「私は昇天する」と叫んで、ゴルゴの弾は第三の眼のところを貫く。だが同時に柴自身がダイナマイトを仕込んで行き、劇的に自爆する。それを見届けた集まった信者たちは動揺せず、祈り続ける。
江沢民自身が龍東民の処分をゴルゴに依頼したので、龍の方も殺される。江としては一件落着のつもりだったが、教祖の居ない金鵬来は二億人まで増えて行く。
劇画は功終わっているが、残念ながら、李洪志は自殺するどころではなかった。ニューヨークの豪邸に立てこもって、どこへも出ない。二億人どころか、国内ではほぼ根絶され、世界に数百人が残った。とにかく本人は九層ある天の一番下の地球に派遣されたので、いつでももどれるというが、自殺を禁じているので、劇画のように散れない。まあ凄い金の集め方をしたので自分の家族だけなら一生困る事はない。法輪功のバレエ団など作って稼ごうとしているが、反中国ならなんでもいい人にもいいかげん飽きられている。
李洪志は1952年に吉林省で生まれている。少年時代に老僧に出会い、などというのは香功の田瑞生と同じありきたりの伝説で、新聞記者をしていたが気功は80年代に劉漢文や張宇のクラスに出て始めて学んだ。既成の功法をするより、目新しい功法をでっち上げて早く師匠になった方がいいという判断のもとに、最初の法輪功を簡単なものとして作った。80年代には気功を悪用する事が出世の早道だったのだ。仏教に詳しい先輩にもっともらしい教科書を書いてくれるよう依頼した。最初はほとんど金をとらずに教えて広めた。段々にステップを上がるごとに多くの金をとるようになった。文革の時の毛語録をみんなで読んだのを懐かしむ風潮があるのを知って、道ばたでそのスタイルをまね、共産党の建物を借りて、一般大衆よりも不満を持つ共産党幹部に働きかけた。このマーケティング方針は当たって、けっこう共産党と軍に浸透した。いつまでも騙し続けられない事を知っていたので、収入をかきあつめてニューヨークに逃げた。イギリス情報部がまず接近して来た。それからCIAがらみで、自分は犠牲にならずに、法輪功信者を「自爆」させる工作をしたのである。

多くの人を集めた気功の大部分は急ごしらえのインチキ気功で、日本なら新興宗教を開いたところだったろう。多くは共産党幹部を顧問に迎え、荒稼ぎした。80年代末から90年代にもてはやされたこうした気功団体は99年で禁止されるか自ら解散した。それからあとは政府が乗り出しての健身気功と、医師による治療気功、まじめな研究者による伝統気功のみが残ったのである。HOMEに返る

 

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卒業の名簿が送られて来た

2015年2月27日



東大原小学校の昭和36年3月卒業の名簿が送られて来た。
東大原小学校は井の頭線の下北沢と京王線の笹塚の中間、少し下北沢よりにある小学校で、六年間私はここに通った。それが来年には守山小学校と北沢小学校と統合されて、校舎が消滅する事になったらしい。その前にという事で、四月に同窓会をしようという呼びかけである。一組から四組まで、それぞれの組に56名の生徒がいたから、賑やかなものだった。私の属する六年三組は宮川英子先生だった。
幹事は大岡雅子、旧姓細谷雅子が中心で、斉藤耕一、漆畑光一の名前も並んでいる。大岡の事は鮮烈に覚えている。砂場に坐っていた彼女にふざけて遠くから縄跳びのロープを輪にして投げたら、ちょうどすっぽり首がはまってしまって、首に縄をつけて引っ張った。彼女は泣いた。それでこちらに少し好きな気持ちがあるのがわかった。何日かして向こうから笑いかけてくれたのが嬉しかった。その後の関係は発展しなかったが、小説のひとこまにしたいようなことはたくさんあった。
もうほとんど忘却の彼方だ。でもさすがに名簿をじっと見ていると、昔の姿で動き出す映像がひとつ、またひとつと増えてくる。
四つの組の名簿を見ると、六年三組だけが物故者がおおいのが不思議だ。七人も死んでるって、この時代に多すぎないか。あとは六年一組で二人だけである。生田克己のことはよく覚えている。家へも行ったし、割と立ち入った話もした記憶がある。この50数年間になんどか思い返している。後の人は写真を見れば思い出すだろうが、すぐにはわからない。結婚で名前の変わった人というのが、各組25、6人はいる女子のうち六年一組では一人、二組では四人、四組では三人なのに、うちの三組では十九人である。これはほかの組は調べがついていないということかも知れない。塩見正男とか堺沢京子とは、母親同士のつきあいもあって、家で一緒に勉強したり、近所に親ぐるみで小旅行に行ったりしたから、よく覚えている。堺沢とはもっと仲良くなってもよかったが、大人の付き合いにはならなかった。広瀬真一とか細谷正広、中村要、などもよく覚えている。栃倉って銭湯の息子だったっけ。島村には休んだ時に給食のパンをとどけたこともある。
女の子たちも三分の一くらいとは個人的なつきあいの記憶がある。福田待子は家がそこの角を曲がったところにあり、私が路地でバンドベースをするのをよく見に来ていた。菊池純子は手足の長い子でバレエをしていた。みんなちゃんとした奥さんになっているのだろう。名簿を見ていたら短編集ができそうだ。私のウィタ・セクスアリスである。でも子供の頃の経験はみな断片的で、ストーリーになっていかない。
同窓会のお知らせがとんでもない事になった。この日はもう予定を発表してしまっているから、京都から東京へはたぶん行けない。手紙でも出しておこうか 。HOMEに返る

 


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危険な覚せい剤と思われてきました

2015年2月17日


「ほんとうが一番」というサイトの「アメリカが「大麻」を100年間使用禁止にしてきた理由」という記事です。
以前にも何度かこの大麻解禁に関連して掲載して来た事と同じ事ですが、
一部を転載しておきます。
アメリカはやっと「大麻」の使用を認めた
 2012年12月、アメリカである画期的な法案が可決されました。
 それはカリフォルニア州とアラスカ州の2つの州で同時に行なわれたもので、個人的な利用目的に限り、マリファナの所持と使用を認める法律が成立したのです。
 マリファナとは、つまり日本で言えば「大麻」のことです。
 このマリファナ・大麻に関するものは意図的に間違った情報が流布されてきたこともあり、これまでは日本国内でもそれを用いた人間は精神を病み、身体を崩壊させ、廃人のようになって衰弱死するといった危険な覚せい剤と思われてきました。
 しかし実際には多くの研究で、マリファナの毒性はタバコよりも少なく、依存性はアルコールよりも低いことがわかっています。そのため他の多くの国々ではすでに取り締まりはしておらず、未だに厳しく取り締まっているのは日本とアメリカくらいのものです。
 ではなぜ、このマリファナ・大麻が他の薬物と一緒に100年も禁止されてきたのでしょうか? その理由は、大麻から良質な繊維と燃料が取れることと、第一次世界大戦後、アメリカではロックフェラーの勢力が、石油を使ったエネルギーと石油化学製品の台頭を狙っていたことから、それまで生活のすべてを賄ってきた大麻が邪魔になったことです。そしてもう1つの大きな理由が、大麻はあらゆる医薬品としての効能を持っていたことです。石油から作った医薬品を主流にするためには、大麻は徹底的に排除しておく必要があったのです。
 日本では、マリファナ・大麻は医薬品としても使用を禁止しているので、知らない人も多いのですが、マリファナ・大麻はれっきとした伝統的な医薬品なのです。現在のアメリカでは医師の処方箋があれば、薬局で合法的にマリファナを入手することができます。そしてアメリカでは慢性痛患者の約1割が大麻を使用しています。
 大麻・マリファナにはあらゆる効能があり、鎮痛作用や不眠症、抗がん作用だけでなく、HIV、うつ病、強迫性障害、てんかん、気管支喘息、クローン病、パーキンソン病、帯状疱疹、多発性硬化症、筋萎縮性側索硬化症など、他に有効な治療法のない約250種類の疾患に効果があるとされており、非常に有効な薬として古くから民間薬として用いられてきました。

 世界における薬物取締りに熱心なアメリカは、一方で麻薬の一大生産国でもあります。中国のミャンマー国境にある広大なケシ栽培、またアフガニスタンやメキシコにおけるコカインの製造などもすべて、CIAがやらせているものです。そして実際にマリファナ・大麻は、アメリカの一大産業になっており、国内での流通量は年間5000トンから6500トンと、流通価格にして日本円で約5兆円という規模です。
こうして危険性のない単なる嗜好品としてのマリファナが、他の薬物と一緒に100年も禁止されてきたのです。そのマリファナがアメリカで解禁になったということは、闇の支配の統制が緩み始めていることを示していると思われます。麻薬やタバコなどの嗜好品を管理しているのは表の政府ですが、それをやらせているのは裏の政府、つまり闇の支配者です。
実はアメリカの刑務所はすでにどこも満杯であり、もうこれ以上受刑者を抱える余裕がないという現実があります。しかし害のないマリファナであっても法律で禁止されている以上、使えば逮捕されます。そうした逮捕者が年間数十万人おり、2011年度では66万人に上りました。表の政府はそうした摘発に予算や人員を割いている余裕はなく、できればマリファナを合法化して解禁したいと考えてきましたが、そうした市民投票では常に僅差で否決されてきました。つまり、闇の支配者がそれを許さなかったのです。それが今回、2つの州で可決されたということは、闇の勢力がもう抑えきれなかったということでしょう。

 マリファナ・大麻をいまだにヒステリックなほどに過剰な規制をしている数少ない国、それが日本です。本来日本では全国的に大麻が栽培されており、それは主に産業用途としてでした。大麻の用途は広く、重宝する農作物として紅花、藍と並び、3草に数えられていました。大麻の葉の部分からは麻繊維がとれ、芯の部分は建築材料に、実からは油もとれ、食用にも燃料としても、また薬としても用いられました。しかも大麻は生長が非常に早く、害虫にも強く、栽培の手間が一切かからないこともあって、とても効率の良い植物であったのです。もちろん誤解されているような、乱用によって心身を蝕(むしば)んだり、精神錯乱を起こしたりしたような事例もありません。

ところが第二次世界大戦後、日本に来たGHQ(連合軍総司令部)の統制の下で、突然、大麻の禁止が言い渡されたのです。単なる農作物であるものをなぜ禁止しなければならないのか、当時の行政官は困惑したに違いありません。しかしGHQの指示は絶対です。大麻規制は他の薬物とともに国際規制として進めていたアメリカの方針の意味もありましたが、実はその裏には真の狙いがあったのです。というのは、日本においては大麻は単なる農作物ではなく、それは神社と結びついた神聖な植物だったからです。それはマニラ麻でもサルザイ麻でもなく、大麻でなければならなかったのです。

 ではなぜ他の麻ではだめで、大麻でなければならないのでしょうか?
それは大麻だけが持っているカンナビノイドという薬理成分に、神経保護作用や脳細胞の新生を促す作用があると言われていることにそのヒントがあります。それがわかると、大麻を吸うとバカになるとか、神経がやられて頭がおかしくなるといった、政府広報のプロパガンダが「嘘」であることがわかります。実際にはその逆であり、大麻には神経を保護し、あるいは傷ついた神経を再生し、成長期後には増えないとされている脳細胞を新生させる作用があるのです。
そして実際に大麻は、麻薬患者の治療や、薬物依存症による離脱症状の緩和ケアに効果が認められています。つまりこれが何を意味しているかというと、精神を高揚させ、神経を保護、修復、再生し、非常に鋭敏な状態にさせる作用があるために、高次元との意思疎通を図る重要な意味があったのです。古来、人間の歴史において、神官や巫女、シャーマンといった人々は、高次元とつながるためにこうしたある種の植物を用いました。精神性を高め、高次の世界とつながるために、大麻は欠かせないものだったのです。

 GHQがどこまで日本文化に精通していたかはわかりませんが、闇の支配者の中には日本人もいるので、文化的な背景を理解していた彼らの謀略によって、日本人から大麻が奪われてしまったのです。しかし今、アメリカの一部の州で大麻・マリファナの使用が合法化されたことで、日本にも「大麻解禁」のチャンスが訪れようとしています。解禁されれば天皇の霊性も高まり、日本人が本来持っている眠っている力も解放されることでしょう。HOMEに返る


久々にまじめに掃除をした。

2014年3月19日


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久々にまじめに掃除をした。
えいっという元気が出ないとなかなか掃除をしない。このところなんで元気かと言うと、食事の三分の二はグリーンマグマと蓬龍宝ですませているからだ。グリーマグマは大麦の若葉のジュースを瞬間凍結で粉末にしたもの。時々飲んでいたが、集中して飲み始めた。何十年か前に萩原社長が生きていた時、その宣伝を手伝ったから、効能には詳しい。ほかは全部このグリーンマグマの模倣だから、いまだに本家本元がいいと思っている。何年か宣伝の雑誌を作り、手帳を作ったりした。
蓬龍宝はこの前かいたけれども、EM菌ともよく似ている。強力な乳酸菌だ。グリーンマグマに入れて飲むと、すぐ便通がつく。毛が薄くなってきたので髪にもちょんちょんとやったり、目をあらったり(本当に気持ちいい。目やにが出てくる人が多い。私はまだ出てこないが、これから出るのかはわからない)、おなかのゴムがきつかったのでできた腫れにつけたり、...鼻の粘膜に塗ったり、足の傷口にガーゼにしませて貼ったりしている。
それでなんか元気になってしまった。なんというか、ひとりなのだがひとりで生きていないという感じ。まずは途方もない「菌」たちとともに生きて、生活しているのだ。
ホコリとかもあるけれど、あちこちにごちゃごちゃ書類を置いたり、いらない広告とか郵便物とか置いている。それを片づけただけでちゃんとした部屋らしくなった。いちばんひどかったのは玄関だ。不要不急の郵便物が山になっている。30分ほどかけて中を見て、大部分は捨て、残りを分類した。知らない請求書がいくつもあって、ちゃんと処理しないといけない。床クリーナーで拭いて歩く。きたない。六枚も使ってしまった。まだ夏のアロハとか半そでシャツがでているので、押入れの抽斗にしまった。出てきたあれこれを洗濯した。冬のコートはまだしまわないが、ソファに脱ぎ捨ててあったのをきちんと掛けた。お皿も洗ったのをまたつかってばかりだが、ちゃんと食器棚に入れた。
息子が引っ越したもので、まだえんえんと置いてあった食器をいくつか送ってもらった。藍の中鉢を三つで、昔愛用していたのを思い出した。亀を描いたものと笠を差した人と柳などが描いてある。骨董屋で買えば何万円かするような時代物だ。それと一緒に佐藤雅子さんの『私の保存食ノート』とか暮らしの手帖で出した分厚い三冊の料理本とかも送ってくれた。辻留の本も手に入れがたいものがいくつかあったのだが、太一のお母さんが持って行ったか。タイムライフの世界の料理シリーズも「置いてって」といわれたから置いて出たら、まもなく琵琶湖のほとりの古本屋でもっと巻数のそろったのを一冊300円で売っていて、まとめ買いをしたのだった。
あれ、掃除の話だ。本当はいらない書類を抜本的に整理したい。それから、段ボールに入ったままの本当に貴重な資料を使えるように、あるいは保存版として整理したい。元気なうちにするかなあ。しかし明日からは潘先生の講習で東京に行かねばならない。グリーマグマと蓬龍宝は小さめのボトルに入れて持っていく。薄めてホテルの床とかにまくととても気持ちがいい。

 



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