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*  中国古典研究  *

2015/00/00 荘子の第三弾
2015/00/00 ■墨翟
■抱朴子(1)
■抱朴子(2)
■抱朴子(3)
■荀子
■近思録
■えびすは海から 上
■えびすは海から 下
   漢民族の源流を探る 第七章 大雑居、大融合の時代

2013年10月28日


 

 

秦が壊れて漢が成立していた過程は、司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を読む限りなんの必然性もない。劉邦はただのごろつきだったし、中国の歴史上もっとも長く続いた政権を作る展望もなければ、作った自覚もなかった。漢という名称もかれの出身地の漢水からとったものにすぎなかった。ほとんど、あの男は頼りない、何とかしてやらなくちゃ、という男たちが盛り立てていった。それでも、秦で整備された官僚制度は発展的に継承された。

夏は東夷であり、殷は北狄、周は西戎と言ってきた。秦は西戎の出身だが、全国規模の官僚制を作り、その意味で「始皇帝」を名乗った。ここまでの民族的なミクスチュアでのちに「中華民族」といわれる諸民族の統合の中心が形成された。それが漢にも継承されたわけだが、その狭義の漢族は実際には羌族その他の遊牧民を中心としていた。その「漢族になった羌族」とそれをはずれた羌族の間で対立もあれば、雑居、融合もあった。五胡十六国の五胡とは、匈奴、羯、鮮卑、氏(祗の右側のように下に_がつく)そして羌である。

三国時代になると、魏と蜀がそれぞれ羌族を味方につけようと考える。勇敢で知られる羌族を味方につけ、敵に回すまいとした。

蜀は雲南青羌人7~8万人を四川に移住させた。蜀の馮超将軍は祖母が羌族で、その軍には多くの氏、羌の出身者が参加した。魏軍で活躍していた姜維を孔明は口説いて蜀の将軍に迎えている。また曹操は投降した羌族のために西平郡を設置しその後もたくさんの羌族を受け入れている。当時「関中の百万の人口中で戎狄が半分を占めている」という記述がある。

三世紀から四世紀にかけて、ユーラシア全体の寒冷化と乾燥化が進んだ。この時期に漢民族の前涼、西涼があったが、その領域は北方に限定され、中原の地帯は空白になり、ここに先に列挙したような五胡が交互に流入して順に政権を作った。

匈奴は長年漢と対立しまた屈服もしたが、その後前趙、北涼、北燕、夏を樹立している。

羯は内蒙古の遊牧民族で東胡の一部だったが、匈奴の治下になった。

鮮卑は前燕、後燕、南燕、西燕、西秦、南涼、北魏、北斉、北周を作った。

氏はチベット系とも羌の一部とも言われるが、成漢、前秦、後涼を作った。

羌は後漢を作っているが、学者によっては氏と羯は羌の一部とし、成漢、前漢、後漢、後涼、夏、後趙は羌が作ったとする説もある。

江南に逃れた漢もいたが、多くの場合、古くからの「漢族」とこれらの諸民族が溶け合っていく方向を選択した。

前漢と後漢を中心に動きを見たい。後趙のころ、陝西、甘粛の氏族、羌族が河南省に強制移住させられていた。後趙の崩壊とともに、氏族と羌族はそれぞれ西に帰り始めた。氏族は符洪のもとに集まったが、間もなく符洪は死に,子の符健が中心になって長安に入り、そこを都として大秦(自分ではこう言っていた。歴史家が前秦と呼んだ)を建てた。符健が病死、息子の符萇も戦死して三男の符生が継いだが、悪政をしき、符健の甥の符堅が後を追って第三代宣昭帝を名乗った。宣昭帝は漢民族の学問に通じていて、漢族から王猛を招いて宰相にした。王猛は農業をさかんにし学校を興し、道路の整備などして、五胡でももっとも栄えた国を作った。対外的には前燕、前涼を滅ぼして、江南の東晋だけが残ったところで王猛が病没した。王猛は晋まで広げないでいいと言い残したが、宣昭帝は「民衆を苦しみから救うために晋まで解放したい」という思いに駆られ、歩兵六十万、騎兵二十五万を動員したが、敗退して逃げ帰った。

前漢に降伏してその傘下に入って闘っていた羌族の姚萇は敗退した宣昭帝を捕えて殺し、新しい大秦(後秦)を興した。一時は華北の大半を支配したが、三代、三四年で後秦は匈奴に滅ぼされる。

漢民族はすでに夏、殷、周、秦を通じて雑多な人種、文化と言語のひとつのスタイルとして出来上がっていた。この時代漢民族の支配的な国はできなかったが、成功する支配者は皆漢民族の教養を身に着け、姓が二文字の人は一文字に変え、劉姓などを名乗り、衣服や言語を漢スタイルにして、漢民族が少しずつ増えていくような感じはずっと続いたのである。

 

 

 

   墨翟  老子とは別の、積極的気功的態度について

2013年8月27日


 

⒈ ブレヒトの墨子像

 

 

ドイツの劇作家ブレヒトには『メ・ティ』というタイトルの著書がある。墨翟の中国語読みである。実際の墨子のテキストからとったと思われるのはNO.157だけで、「歩いて行っても到達できない場所をめざして歩く習慣はやめなければなりません。話しても決められないことについて話すのはやめなければなりません。考えても解決できない問題について考えるのはやめなければいけません」とメ・ティはいった」だけである。あとはメ・ティは言ったと書いているところでも虚構で、昔の人の語録のスタイルをとって現代の批評をしている。   原著編集者が明らかにしているものから引用すると、インティン先生=アインシュタイン、エー・フ=フリードリヒ・エンゲルス、カー・メ=カール・マルクス、コー=カール・コルシュ、ザ=ローザ・ルクセンブルク、ティ・ヒ=ヒトラー、ビュ・イェー先生=ヘーゲル、ミ・エン・レー=レーニン、クン=孔子などである。バウハウスの芸術家たちをム・ジンという一人にまとめて...いたり、ヒトラー治下のドイツ人のことをゲー・エルと表現したりしている。ソヴィエト連邦はズー、ワイマール共和国はヒーマである。ブレヒト自身はキエン・レーなどいくつかの名前を使っている。   ほんの二つ三つからこの内容を紹介しようと思ったが、とてもむずかしいことが分かった。数行のものもあれば数ページにわたるものもあるが、語録の形をとっているのに、孤立させて理解するのは難しい。これに比べると、同じようなスタイルで書かれた『コイナさん談義』(長谷川四郎訳)のほうがまだ引用しやすい。コイナさんのほうは「身振りを引用可能なものとするひとつの試み」だからだ。むしろ、墨子の基本思想をベースに自由な形で状況批評をしたかったのだろう。    墨子の基本思想として伝えられるのは以下のようなものだ。  「明鬼」後の道教と同様鬼神信仰の立場に立ち、この意味では儒家、道家、法家と先鋭に対立した。  「節用」人民の生活は苦しいのだから、儀式に金をかけず、葬式も簡単にしようと主張した。  「非楽」儒家が悟りの最高段階として重視した音楽を重視するのをやめ、音楽の素養がないと知識人でないような風潮をやめようと提案した。  「尚賢」人を登用するには、家柄でなく、賢いかどうかを基準にする。  「非命」宿命を信じない。だれもが自由な人生を歩める。  「非攻」自分から攻めない。防御の技術を極限まで開発する。 「兼愛」自己愛の延長で世界を見ていくことをやめ、あなたにとって異質なものを愛そうとすべきだ。 日本国憲法の理想主義に通ずるこの哲学は、ブレヒトだけでなく、トルストイなどに大きな影響を与えた。ただ、これは非武装中立でなく、武装・防御優先・大国批判の態度だった。魯迅の『故事新編』には「非攻」の一章があり、単身大国に乗り込んで戦争を阻止してきた墨子が雨に打たれて風邪をひいている様子を愛情深く描いている。 墨家は常に集団で行動したため、始皇帝も武装解除しやすく、ほかの思想流派が様々な手段で隠れて生き延びたのに、正面対決して、完全に消滅してしまった。儒墨と並べ称せられたのに、一瞬に消滅して、あとにはテキストだけが残った。この系譜は「侠客」の思想として残った。

⒉ すべてが引用から成る書物


2014年2月20日

荘子の第三弾



その名も叔山無趾という男がいる。無趾とは、刑罰で足の指を全部切られたという意味である。うまく歩けない。杖をついて、びっこを引いている。
孔子のところに行って、教えてくださいと言った。孔子はことわった。あなたは身のおこないをつつしまず、罪を犯して、こんなふうになってしまった。今更私のところで学ぼうと言っても遅いよ。
無趾は「わたしはただ世の務めをわきまえなかったばかりに軽卒に振る舞って、足を切られました。しかしこうしてやってきたのは、足よりも大事なものが残っていると思うからです。いったい天は一切万物を覆い、地は一切万物をことごとく乗せ育むものですが、私は先生をそのような、天地のような広大な徳を持った方とばかり思っていました。こんなケチな了見の肩とは心外です」
孔子は深く恥じて言葉を改めた。
「私の考えが浅かった。どうぞ奥に入ってください。私が学んだことをお伝えしよう」
無趾は「いいえ、けっこうです」と言って、立ち去った。孔子は弟子たちにむ言った。「彼はかたわの前科者だが、一生懸命勉強しようとしている。お前たちのような五体の揃った人はもっと頑張らなくちゃいけないね」

無趾は老子を訪ねていた。「孔子と言う人はたいしたことはないですね。私を理解しようとしても世間の評判を出ることはない。いったい先生に何を教わりに来たのですか」「万物斉同ということを誰かわからせてやれればいいのだがな」「だめですよ。彼の世俗性は宿命的なもののようですね」
孔子の「道」と老子の「道」は交わるところがない。かたわ者が鏡のように映しだしたしまうのだ。

 

 


墨翟

2013年8月27日 11:58

墨翟  老子とは別の、積極的気功的態度について


⒈ ブレヒトの墨子像

ドイツの劇作家ブレヒトには『メ・ティ』というタイトルの著書がある。墨翟の中国語読みである。実際の墨子のテキストからとったと思われるのはNO.157だけで、「歩いて行っても到達できない場所をめざして歩く習慣はやめなければなりません。話しても決められないことについて話すのはやめなければなりません。考えても解決できない問題について考えるのはやめなければいけません」とメ・ティはいった」だけである。あとはメ・ティは言ったと書いているところでも虚構で、昔の人の語録のスタイルをとって現代の批評をしている。


原著編集者が明らかにしているものから引用すると、インティン先生=アインシュタイン、エー・フ=フリードリヒ・エンゲルス、カー・メ=カール・マルクス、コー=カール・コルシュ、ザ=ローザ・ルクセンブルク、ティ・ヒ=ヒトラー、ビュ・イェー先生=ヘーゲル、ミ・エン・レー=レーニン、クン=孔子などである。バウハウスの芸術家たちをム・ジンという一人にまとめて...いたり、ヒトラー治下のドイツ人のことをゲー・エルと表現したりしている。ソヴィエト連邦はズー、ワイマール共和国はヒーマである。ブレヒト自身はキエン・レーなどいくつかの名前を使っている。


ほんの二つ三つからこの内容を紹介しようと思ったが、とてもむずかしいことが分かった。数行のものもあれば数ページにわたるものもあるが、語録の形をとっているのに、孤立させて理解するのは難しい。これに比べると、同じようなスタイルで書かれた『コイナさん談義』(長谷川四郎訳)のほうがまだ引用しやすい。コイナさんのほうは「身振りを引用可能なものとするひとつの試み」だからだ。むしろ、墨子の基本思想をベースに自由な形で状況批評をしたかったのだろう。 墨子の基本思想として伝えられるのは以下のようなものだ。


「明鬼」後の道教と同様鬼神信仰の立場に立ち、この意味では儒家、道家、法家と先鋭に対立した。 「節用」人民の生活は苦しいのだから、儀式に金をかけず、葬式も簡単にしようと主張した。 「非楽」儒家が悟りの最高段階として重視した音楽を重視するのをやめ、音楽の素養がないと知識人でないような風潮をやめようと提案した。 「尚賢」人を登用するには、家柄でなく、賢いかどうかを基準にする。 「非命」宿命を信じない。だれもが自由な人生を歩める。 「非攻」自分から攻めない。防御の技術を極限開発する。


「兼愛」自己愛の延長で世界を見ていくことをやめ、あなたにとって異質なものを愛そうとすべきだ。 日本国憲法の理想主義に通ずるこの哲学は、ブレヒトだけでなく、トルストイなどに大きな影響を与えた。ただ、これは非武装中立でなく、武装・防御優先・大国批判の態度だった。魯迅の『故事新編』には「非攻」の一章があり、単身大国に乗り込んで戦争を阻止してきた墨子が雨に打たれて風邪をひいている様子を愛情深く描いている。 墨家は常に集団で行動したため、始皇帝も武装解除しやすく、ほかの思想流派が様々な手段で隠れて生き延びたのに、正面対決して、完全に消滅してしまった。儒墨と並べ称せられたのに、一瞬に消滅して、あとにはテキストだけが残った。この系譜は「侠客」の思想として残った。


  ⒉ すべてが引用から成る書物

メ・ティの続きである。ブレヒトが老子の出関について長い詩を書いているのをご存じだろうか。梅蘭芳のモスクワ公演に出かけてかなり熱中して見た。中国の伝統文化にはひどく惹かれていた。「セチュアンの善人」のセチュアンは四川(Sechuan)である。 『コイナさん談義』のような表現スタイルを非常に重視していた。これは論語のような「語録」ということである。『毛主席語録』をもちろんブレヒトは知らなかったが、大いに興味をそそられたはずである。毛沢東の「神格化」のために林彪が考え付いたものだが、現実には毛沢東の文章にそってでなく、紅衛兵たちの勝手な解釈を許し、「活学活用」するために使われた。


そして大字報という形で、「街という街がメディアとなる」(マヤコフスキー)メディアの爆発現象があった。これは毛の意図も林の意図もこえたものだった。 ブレヒトとベンヤミンは、「すべてが引用集からなる書物」をずっと探求して...いた。それはミシェル・ビュトールのような古代文書の引用集ではなく、現実に歴史の中で生きて動いている身振りの引用集だった。ベンヤミンにとってはベルリンやパリの引用集を作ることに関心があったが、ブレヒトにとっては芝居の中に、たとえばどんな気づかない身振りがヒトラーの台頭を許したのかを暴露することに最大の関心があった。 ブレヒトの「異化」について日本のブレヒト読みたちはきちんと伝えてきたと思えない。


人をぎょっとさせる演出効果のことだと吉本隆明などはみじめにも思い込んできた。だがEntfremdungseffekt とはVerfremdung(疎外)と一体の言葉なので、自分が疎外された存在であることをわかるように示す効果という意味である。Fremdとは「外国人のよう」という意味である。自分が外国人のようにふるまっていることの自覚が異化なのだ。亡命を続けたブレヒトこそが生み出せた言葉だった。 平凡社ライブラリーの『毛沢東語録』に私が書いた解説を見てほしい。 「ヒトラーは間違っているとかの誰でも知っているつもりのことを宣伝するよりも、みんなが無意識にとっている差別と暴力の身振り、ヒトラーを無意識に支援している行動様式を舞台に挙げて鏡をつきつけるようにしたほうが効果的だと考えたのだ。


引用というのはもともとの文脈から切り離して、別の文脈に移すこと、自分の文脈で使うことである。それは19世紀的な真理システムの崩壊の後で、なお言葉を生き生きと使っていくための細い道だった」 つまり安倍はヒトラーだというだけでは十分ではない。 われわれの日々の身振りが安倍を押し上げてはいないかの洞察がなければ、われわれはヒトラーについて何も学ばなかったのだ。

  ⒊ 自分で運命を切り開く

墨家は墨子が率いていたからというとおかしなことになる。それなら儒家は孔家というべきだし、道家は老家というべきだ。民国初期の江泉が初めてこのことを問題にした。 「墨というのは個人の姓ではなく、学風に対して名づけられたものである。墨子の学は倹約を第一とする。飲食をつましくして体を酷使するから顔色が青黒くなる。荀子が墨家の学風をあざけって"瘠墨"と呼んだのは、痩せて青黒いという意味である。それに墨子のほうでも、自分の学風を墨という文字で表現した可能性がある。荘子は墨子の学風を評して「縄墨を以て自ら矯む」という。厳しい規律で自分を正す意味である。墨子は世の腐敗を嘆いて、縄墨で身を正し、天下を正すことを自らの任務とした」 本田済の墨子解説(中公版)から引いている。


本田は「墨は大体入れ墨の刑の意味なので、この字をみずから姓に名乗る者があるはずがない。おそらく墨翟は入れ墨者の翟というあだなで、墨翟はお...そらく刑徒・奴隷の出身であろう」と書いている。しかし墨家が全部入れ墨をしているとみるのもおかしいので、これは江泉のいうように「栄養失調で顔色の青黒い連中といったところが無難」だと結論づけている。左伝には「肉食者は墨なし」とあるのは上流階級のものは肉を食べているから顔色の悪いものはいないと言っているのだ。 墨翟は貧しい家柄に生まれて、非常に努力をして高度の教養を身につけた。孔子や老子よりもずっと体系的で整然とした理論である。天命とは孔子にとって「うまくいかないもの」の象徴であり、「仁と考えた。


「兼愛に非攻に、頭からかかとまで、全身がすりきれるまで走り回るためには、人間の努力に水をさすような天命の存在を信ずるわけにいかなかった。それに人間に兼愛を、非攻を要求し、努力には幸福を、怠惰には不幸を与える天が、努力の果てに不幸を与えるはずがないと考えた。 富む人は富み、貧しい人は貧しいからしかたがない、治まるべき国は治まり、乱れるのは乱れて仕方ないと説く孔子に対して、湯王や武王は努力で太平を招いたので天命に頼ったわけではない。民衆も自分の耳や目で天命を見たわけではない。天命論で政治をしたら、国が亡びるのも天命だと言って誰も努力しないだろう、と墨子は説いたのである。


  ⒋ 墨子の兼愛について

孔子は人は自分を愛し、家を愛し、郷土を愛し、だんだんに天下を愛せるとした。だが墨子は自分から遠い人を愛せと主張する。自分の家族だけを愛するのではなく、遠くの人を愛せ。敵だとされている人を愛せ。そうでなければ敵が私や私の家族を愛してくれるわけがない。孔子の考えは敵を作る考えなのだ。「天下の害」のうちもっとも目に余るものは何か。大国が小国を攻める、強いものが弱いものをいじめる、多数が小数をないがしろにする、貴族が平民をさげすむ、などである。 君主が横暴であること、臣下が不忠であること、親が愛情に欠けること、子が孝養を尽くさぬこと。これは別愛、愛に差別を設け、自分に近いものから愛していくことによっておこる。


その根本的な治療法は、兼愛、つまり愛に差別を設けないとにある。 もし諸侯が自国同様に他国のために尽くすならば、戦争は起こるわけがない。天下の利をもたらすのは兼愛に...あり、天下の害は別愛から生ずるのである。 兼愛にしたがえば、身寄りのない老人も、救いの手がしのべられて寿命をまっとうすることができ、孤児も保護されて成人することができる。兼愛は立派な考えだが実用には向かないという人がいる。 そういう人は自分が戦争に行かなくてはならず、家族の面倒を見てもらおうとするときに、別愛の人にあとを頼むだろうか。やはり兼愛の人に頼むのではないか。 トルストイが墨子にほれたのは、「汝の敵を愛せ」というキリストの教えをもっと徹底的に説いたからにほかならない。


キリストが敵とよんだのは、「あなたが敵とされているものの立場に立て」という意味だった。それは具体的に相手のいるものだった。今で言えば「パレスチナ人を愛せ。敵だという思い込みから抜け出しなさい」ということだ。墨子はそれをもっとひろげて、自分に近いものがあつまろうとするかぎり、はてしのない差別に落ち込んでいくと主張した。


  ⒌ 節葬・虚偽をあばく

墨子は儒者の葬式の度に偉そうに振る舞って食事にありついている様を痛烈に批判する。 「だが実際、かれらは、夏は穀物を乞い歩き、取入れが終わればすかさず葬儀屋に早変わりする。それも一族郎党がゾロゾロつきしたがってたらふく飲み食いする。こうしていくつかの葬儀を請け負えば、それで十分やっていける。つまり、彼らは他人に寄生して飲み食いし、他人の畑を当てにして威張りかえっているのだ。金持ちの家に不幸があれば、メシのタネができたといって小躍りするわけである」手厳しいが、実際にそうだった。孔子のいる間だけでも、葬儀のスタイルはどんどん複雑になり、四九日にも死者が帰ってくるとかいろいろな理屈をつけて長く、繰り返し出費させて儒者が飯にありつけるようにした。


墨子と激しく論争している荀子だが、孔子の二代目の弟子を批判する論調は墨子と同じである。子張派は上品なものの言い方と歩き方にこって滑稽の極みだ、子夏派は衣冠や顔色を荘重にして一日黙っている、子游派は怠惰で仕事をせず、他人からのご馳走をひたすら期待し「知識人は肉体労働者から養われる権利がある」といつも請求していた。同じ儒者の目から見ても、こうである。日本の坊さんの葬式の仕方は、儒教式である。宣長とか篤胤とかが葬儀屋をするなど信じがたいが、その分日本のお寺は葬式をするようになった。本来仏教にとっては魂は再生するが遺体はただのゴミだから、チベット式に鳥に食わせるのが正しい。古代中国ではそれを金のあるやつから手数料をとって代行したら巨大産業になると思いついたのが儒者だった。


日本では死者を裏庭に勝手に埋めてはいけないということになったのが七世紀である。それまで死者は家のものでしかなかったが、ある時「すべての死者は天皇に属する」と決められたときに、天皇が死んだ親を代表しており、墓地に埋めなければならなくなった。やがて儒教式の葬式が、仏教に代行されてやられるようになって、お寺にはいい食い扶持ができた。田舎のお墓はそういう意識がなかったが、明治以降逃れられなくなって、急造された靖国の強迫観念に行きついた。あれは儒教の死の観念が仏教に処理されたものを神道の紛い物が管理しているのである。沖縄の墓はその影響は受けているが、まだ天皇家に関係のない埋め場所を持っている。本土では、散骨葬しかないので、私は散骨にしてくれと言っているのだ。私は天皇を憎んではいない。


それなりに愛しくも哀れにも思っているが、この七世紀以来続いた伝統をなくさない限り、天皇を解放できないと思っている。とりあえずは、その関係を断って死ぬものが増えることでしか事態は進まない。「棺は二重構造のものを用いる。埋葬する際地下深く掘る。死者には必ず何枚も衣装を着せたうえ、模様や刺繍を施した服飾品で飾り、埋葬場所はうずたかく土を盛って丘陵のようにする。身分が高い人でこうだから、平民や賎民は厚葬の風習によって財産は何一つ残らないようになる」「諸侯が死んだら、蓄えは死者を飾る金銀のたぐい、死者とともに財宝が埋められる」「哭泣の礼は声の出し方が普通でなく、服喪者は喪服を身に着けてとめどなく涙を流し、忌小屋にとじこもる。寝具を用いることは許されず、土塊を枕にむしろに寝なければならない。


事もとらぬといった状態がよしとされ、衣服も薄着にして悲しみにたえなければならない」こういったいっさいは、儒者が自分の都合のために「周の正式の習慣だ」などといって設定したのだ。儒教が何度弾圧されても生き延びたのは、誰も葬式産業という神話から逃れられなかったからだ。それは墨子がひろく読まれて脱=神話を推し進める人がいなかったためだ。酒見賢一の『墨攻』を久々に読み返した。墨子の三代あとの指導者が秦に着こうとしている。革離はそれに反対していてけむったいので、ある小国に一人で派遣される。普通は集団で行くので、死んで来いという意味である。革離は限られた条件の中で城の守りを理想的に作り上げて城攻めの大軍を何度も撃退するが、自分の恋人まで処刑してしまう彼の厳しい軍律を嫌った城の王の裏切りであっさり死んでしまう。


本物の墨家が消えていき、秦に身を売った側は秦とともに滅びていく。実際、戦国時代儒教と天下を二分した墨家は痕跡も残さず、思想だけを残して消滅するのである






  抱朴子(1) 〔1/3  五回目まで.〕

2013年9月24日 16:21


  抱朴子
  • 第一回   どんな人だったか
  • 第二回   中も気、外も気
  • 第三回   和解療法
  • 第四回   胎児の呼吸
  • 第五回   房中
  • 第六回   脳の血液のコントロール
  • 第七回   断食の効能
  • 第八回   神明という言葉
  • 第九回   自分の健康は自分で作る
  • 第十回   一を知れば何もかもわかる
  • 第十一回  孔子批判
  • 第十二回  動けば調子がいい
  • 第十三回  有名な「亀の呼吸」
  • 第十四回  珍味美形を避け

  第一回 どんな人だったか

抱朴子は葛洪のペンネームであり、著作の名前でもある。葛洪は248年に生まれて364年に死んでいる。今の江蘇省の土地で生まれた。役人としても出世し、東晋の司馬蓉が宰相の時に時にスタッフとなって、諮議、参軍、内候などの職に就いた。晩年、ベトナムにいい丹砂が出ると聞いてそこの知事となり、専ら丹岳を研究した。官吏としてまっとうな道を歩む一方、若い時から仙人修行をして、気功と道教の修行を自ら体験し、その理論も生み出した。ふたつの人生を送った人であり、『抱朴子』(『 』をつけたのは著作としての抱朴子を指す)の前半はじっさいのやり方を含めた仙人の道であり、後半は儒者・官僚としての心得を書いたものになっている。彼の祖父は有名な仙人葛玄で、直接に師事することはなかったが、その弟子の鄭隠について学んだ。


彼は⑴政治家であり、研究者であり、実践者であった。⑵古代道家思想と儒家思想を両立させ、...ある意味で総合し、神仙の道を包摂する一大思想体系を作った。⑶薬を作って飲み、また練功することで、自分の肉体を実験場として研究した。⑷のちの内丹派の始祖となった。 「丹薬を飲むことは不老長生の根本であるが、もし兼ねて呼吸法を実行したら、効果はますます早くなる。たとえ丹薬が得られず、呼吸法だけ行ったとしても、その極意をつかんでいれば、それだけでも数百歳の寿命は得られる」というのは本田済先生の訳だが、ここで「呼吸法」と訳している言葉は原文では「行気」である。それでこの訳文はひどく難解になっている。行気とはもちろん呼吸にも関係があるけれども、呼吸法のことではなく、「気をめぐらせる」という意念のことである。


呼吸法だけでそのような効果が得られるはずはなく、呼吸も含めて意識とイメージのコントロール下においてこそ、具体的な身体の変容があるのである。 有名な一句である「人在気中、気在人中」についても本田先生はこう解釈する。「大体、人は気の中にいる(空気をいう)。また気は人の中にもある(気息をいう)。天地から万物に到るまで、気によって生じないものはない。だから上手に気を呼吸する法を実施すれば、内に向かってはわが身を養い、外に向かっては悪鬼を退けることができる。ただ世人はふだんそれを用いていながら心づかないのである」 人が空気の中にいるし空気を吸ったら体内に入るのは当たり前のことで、わざわざ抱朴子が言うとは考えられない。これも原文は「善行気者、内以養身外以却悪」であるから、よく気を巡らす者は安心だといっているのである。本田先生は大先生だが、気功についての知識はあまりないようだ。それで「気」と出てくればみな呼吸法と誤解してしまったのだ。


  第二回 中も気、外も気

「人在気中、気在人中」とはそれではどんな意味なのか。人が空気の中にいてそれを吸っているなどということではない。 人は環境という気の海を泳ぐ存在であり、しかも気はまた体内環境を満たしているのだ、という意味である。だから心の中や身体内部で起こることは環境に影響するし、環境の気の変化は体内にも心の中にも入ってくる。人体と環境は波動に置いて相対的に区別されながら統一されている、ということである。気功をしていると、そのみことはたえず感ずる。そのもっとも端的な連勝方法が外丹功だが、太極拳も同じことである。 麦谷邦夫さんが、『気の思想』という論集の中で、こう書いている。


「ここにおいて『抱朴子』は稽康の『養生論』に提示された理論にのっとり、 体内の気を消耗しないための呼吸法(胎息)、外部の新鮮な気を体内に導入してくまなく循環させる法(行気導引)、自然のすぐれた気を含む食物の摂取と、体内の気を汚辱する食物を摂取しない法(服食僻穀)、体内の精気を外に泄さず、しかも陰陽の気の調和をもたらす法(還精補脳や房中術)といったおびただしい方術を詳細に述べる」という用語法だと、普通の気功の本である。 行気というのは「イメージで気をめぐらせる」ことである。「気はイメージしたところに行く」というのが気功の大原則なのだが、それは体内を巡らせる気も対外・環境を巡らせるのも区別はない。気には体内で動く真気、営気などと同時に、環境と人体の中間に位置してイメージによって広がったり縮小したり する「衛気」(えき、と読む)というものがあり、これを運用することなしには気功というものは成り立たない。


  第三回 和解療法

体内に気を巡らせることで気血の運航をよくし、気血の停滞または過剰としての病を調整することはいかにもできそうに思えるが、その気を外に及ぼして、鬼神を寄せ付けないとか、病原菌からガードするとか、刀傷もすぐ治せるとか、刀を踏んでも大丈夫いうのはちょっといかがわしいことのようだ。しかし気功の外気によって病原菌を衰弱させ後退させた実験は報告されているし、外気によってやけどや切り傷をある程度治していく、治りを早くしていくことはたくさんの人が体験していることだろう。誰でもひとさすりで傷跡がなくなるということはないが、すぐに気を送ったために傷跡が残らないですんだというようなことは絶えず経験していることだろう。 私自身はナイフで切ろうとしても切れないというような怖い体験はしたことがない。


だが、韓国でシャマニズム学会を開いたとき、女性のシャマンが一種の憑依状態で刀の刃を上に向けたブランコに裸足...で乗って元気にこいでいるのを間近に見たことがある。山伏が火渡りをするのも同様のことだろう。こちらは燃えカスの上だが体験したことはある。 フィンランドの『カレワラ』には、斧で足を切った時には「鉄はなぜこの世にあって役に立っているか」という唄を歌うと、血が止まってしまうと書いてある。鉄は私を傷つけるために存在しているのではないから、その本来の役割をはっきりすれば、不幸な出会いの結果起きたことは修復されていく。 同様に、蛇にかまれた時は、こんちくしょうと思わないで、蛇はなぜこの世にいて、尊敬できる生き物かを歌う。だって私を噛むために待ち伏せしていたのではないからだ。そうするとそれだけで蛇の毒は薄まり、ほとんど無害なものになる。 これは精神医学で言う「和解療法」である。単なる心理療法ではなく、もっと深い次元での癒し、つまり世界との関係性を変える癒し。そこで何でも解決してしまうというところもその通りに受け取る必要もないが、迷信だと決めつけることでもない。


  第四回 胎児の呼吸

本文からの抜き書き。 「行気の方法はさまざまな病気を治すことができる。ある場合には伝染病の蔓延する土地でも大丈夫だし、毒蛇や猛獣の傷も治せる。傷の出血を止めることもできるし、水中で息を止めていたり、水の上を歩いたりもできる」 毒蛇の傷を治せるというのは『カレワラ』の世界に通ずるが、なぜここで「水中で息を止めたり、水の上を歩いたり」がでてくるのかが分からない。これは癒しにはつながらない。水中で息を止めていた話はお祖父さんの葛玄のエピソードに残っている。身体的限界を突破する事例として水に入ったのだろうか。80年代の終わりに北戴河で表演会をやったとき、舞台に水槽を上げて海パン姿の痩せた男が五分くらい潜って見せていたが、大変だろうと思ったが私は何も感動しなかった。


水の上を歩く女性がいて、私は見たことがなかったが、やがて逮捕されてしまって消息を聞かなくなった。なぜこうしたことをしたいの...かが分からない。『抱朴子』の時代からそういうのが好きなのだろうか。ただ、出血を止めることはありうることだ。水の上を歩くことと同列のことではない。 「胎息を掌握した人は口や鼻を使わないで呼吸することができる。母体の胎胞の中と同じようにできれば完成である」 胎息は現代の気功教科書でも同様に出てくる。だがなぜそうしたいのかということについて、誰も説明してくれない。内丹のように、外気の呼吸に依存しない内呼吸の話としてなら明解である。 葛洪は胎息で若返れると考えているようだ。「小さな鳥の羽を鼻のところにつけて、吐く時に羽が動かないようにすればよい」これはとても有名な方法だが、『抱朴子』の中に出てくるのがオリジナルだと知らない人も多い。


「だんだん練習して(息を止めているのを)1000まで数えれば、老人も少年のようになり、日一日と若くなる」 若返りのために息を止めるのだという。なぜ?◆荘子のいうとおり真人は「かかとで呼吸する」。でももちろんかかとに呼吸器はない。唯一考えられるのは、これはかかとから空気を吸う意味ではなく、大地から気を吸うように息を(肺で)吸い、(肺で)息を吐く時に足裏から気を出して大地と通じていくという意味ではないのか。◆へそは呼吸器である。実際胎児のときは使っている。それを復活させるだけだ。と書いている本もある。それならへその緒ももう一度ほどかないといけない。 「任脈は呼吸器である」 と書いてある本もありますが、それも 「気のる道」 であって、酸素を吸う道ではないはずである。◆肺を使わずに皮膚呼吸だけで済ませるのが胎息だ。これも何冊かの本に書いている。


たしかに気の通りがよくなると、皮膚呼吸が活発になり、毛穴が閉じたり開いたりする。しかしそれで肺呼吸はいらなくなるのか。どうも実際にやってみて書いたものではない。 ◆そうすると残るは、 「呼吸をしていないのではなく、していないかのように見えるほどゆったりした呼吸をする」 という解釈になる。これならばありうる。呼吸法で要求される 「ゆっくり、静かに、コンスタントに、均等に」 に熟練してくると、呼吸をしていないかに見えることがある。その状態と 「能く嬰児たらんか」 「朴に帰る」 考えが結びついて、胎息の表現を生んだのだと思う。 脳の酸素摂取量を減らすことで、脳の機能を変化させる。このことならば神秘は何もない。気功は人体のさまざまな可能性を開拓していくものだ。だから 「こんなことができたらいいのに」 とか「こうだったらどんなにおもしろいだろう」 ということがどんどん流通してしまう場合がある。この抱朴子は愛すべき本だが、文字通り受け取らないという態度が必要だ。


  第五回 房中

このあとに房中術について言及がある。 原文はこうだ。 「房中術は十数種類あって、あるものは損傷を補い、あるものは各種の疾病を治療し、またあるものは陰を取って陽を補い、あるものは延年益寿に役立つ。とくに大事なのは還精補脳のことである。こうした方法は真人から口伝で伝わるもので、本に書くことではない。各種の名薬を飲んでも房中を知らないと寿命を伸ばし老化を遅らせることはできない」 「セックスをまったくやめてしまうというのもよくない。それは気のつまりを起こすからだ。孤立して性的に充足しないでいると精神的にもいいことはないし、病気短命になりやすい。逆に欲望に任せてやりすぎては寿命を損ねてしまう。節度をもってすれば損なうことはない」  本来の性的結合は、 「いいものを、少し」 と提案している。そしてもっと大事なのは、房中といわれている大部分が、男女の性的結合なしに進行するということだ。

何度...も女をイカセる術とか、はてしない勃起とかいう男中心の発想は、何人もの女性と交わるのが当然とされた貴族社会に生じたもので、この抱朴子からすれば千年以上あとに出てきたことである。この時代の房中は服を脱がずに、向き合って瞑想するものが多い。陰陽の気を交流することが大切なのだが、性的な結合がそれを邪魔すると考えられる場合があった。医者が患者に接触せず離れた所から患者の気を見て治療したり、仏像とやや離れた所から交流して行くときにも、接触は邪魔になる。それでなければどうして「損傷を補い」「各種疾病を治療し」「陰陽相補い」「老化を遅らせる」ことができるだろうか。 周稔豊先生は「そのうち機会があれば房中の公開講座をやろう」と言って私を驚かせた。 「全員で気を通すこともするが、パートナーとすることが大事だから、必ず二人で参加してもらう。夫婦でなくても愛人関係でもいい。恋人でもいい」 しかし、とためらっていると、 「もちろん服は脱がない。ペアで気を通していくのだ。チベット密教のやりかたでは肉体の接触はなしに声で響き合っていく」と教えてくれた。


まだそれは実現していない。 大切なことは「還精補脳」だといろいろな先生に教わった。性的エネルギーをそのままにしておかないで、脳で使える形にすれば、脳はすごく発達する。性器から脳へのチャネルを開くのだ。だから、年取ったら実際の接触や発射はできるだけ減らして、その力を脳で使っていくようにしなければならない。抱朴子はこの点でもひつの基準になる考えを整理した。 「現実のセックスは、いいものをすこしだけ」 「男女で気を巡らせるレッスンをしていくこと」 「荘子のいう"物と春をなす"、つまり宇宙万物とセックスしていくこと」



  抱朴子(2) 〔2/3  6から10.〕

2013年9月24日 16:24


  第六回 脳の血液のコントロール

胎息の補足である。 なぜこういう呼吸法がわざわざ研究されてきたのだろうか。 脳には通常血液が過剰な部分と不足の部分があって、それぞれにマイナスの効果を引き起こしている。一般に前頭葉は過剰であり、極端になると、ADHDつまり病的な注意欠陥障害が引き起こされる。また深部辺縁系の血行過剰は鬱傾向と関係がある。側頭葉の場合はてんかん体質になる。こうした部分的な血行過剰を解決するという課題がある一方で、自律神経中枢である視床下部や旧皮質の感情中枢は慢性的な血行不足に悩んでいる。 頸部大動脈からの血液供給が少なくなると、血行過剰の部分の血行量は減って正常に近づく。そしてただでさえ足りない部分は逆に危機感から普段よりもたくさんの酸素を吸収しようとする。ふだん使われていない血管も動員される。亀の呼吸のように、延髄をポンプとして使って、脳の古い部分、爬虫類の脳と言われる部分の血行をよくしてい...くものもある。


つまり、いったん酸素摂取量を意識的に減らすことによって、脳内バランスを大きく変化させる可能性がある。それが意識的に長い呼吸をする理由だ。 葛洪が書いている百も千も数えるほど息を長くするというのは明らかな誇張である。あなどってすぐに飽きてしまうのでなく、生涯の目標にしてほしいから、遠い目標を掲げたのだと思う。せかせかと呼吸しないための呼吸レッスンは必要なことで、精神的にも変化してくる。また抱朴子の言っている時から12時に呼吸を練習するのはいいが、12時から24時にはやらないほうがいいなども、自分勝手にしないで人体も環境の一部なのだという謙虚な気持ちでやったほうがいい、太陽や月とともに変化している自分の生理に目を向けろと言っているのである


  第七回 断食の効用

「雑応」に言う。 「草を食べるものは善良だが愚かであり 肉を食べるものは力強いが凶暴であり 五穀を食べるものは知恵があるが長寿にはなれず 気を食べるものは心が明るく死なない」 草食動物、肉食動物ということだが草食系の男子、女子という意味でもあるだろう。穀物を食べていると知恵はあるが長生きはできない。そのあとの行の原文はこうだ。...「食気者神明不死」 神とは七つある意識の一番高いレベルのこと。聡明という意味だが、どこか個人の資質を超えた、「その人の中の、その個人を超えた存在の意識」ということである。気を食べる者はその意識が明るいというのは目覚めて、死なないと断言している。といってもこれまでに死ななかった人は誰もいないのだから、気の世界にうまく帰っていけるというような意味だろうか。

では気を食べるとは何か。これは気という実体的な食べ物のことではなく、「断食を繰り返しながら気功をする」ということである。 断食がなぜいいのかということは現代医学では十分説明されていない。むしろ必ずコンスタントに三食食べないと健康に悪いと言ったことが普通は言われている。最近になって朝食は食べないほうがいいという説も広く知られてきた。朝食を食べないほうがいい理由は、朝は排泄の時間で、その時に食べてしまうと排泄が十分になされず、宿便を溜めこむことになるということのようだ。 現代人はほとんど誰もが食べすぎなので、プチ断食とか減食とかすればたいていの人は生き返ったように活力が出てくるのは事実である。

何より食べるのが好きそうなあなたはそういうことを真面目に言っているのかと言われそうだが、私は最長で11日間断食している。二十台だったが、断食道場とか行ったわけではなく、いろいろ本を参考にしながら、普通に書く仕事をしながらやった。断食の間体力的に参るということはなく、ただ退屈というか、気持ちが寂しいというだけだった。いろいろつきあいがあって11日で打ち切ったが、キリストみたいに40日やるのは平気そうに思えた。当時から100キロを超していたが、11日間で7キロしかやせなかった。 有名な気功指導者で厳新という人がいた。いまはアメリカにいるとか。この人とはいろいろな付き合いがあった。ある時北京のホテルに16歳の少女をつれてやってきた。


自分が気を送ることで、この子はもう三年食べていないと紹介した。胃がすっかり衰退しているとレントゲン写真まで用意してきた。日本の医療機関と提携して公開したいということらしい、もっと資金も欲しいしという話だった。 私は紹介だけはすると言ったが、厳新さん、あなたほどの力をもってして一人の少女を生きさせる事しかできないのか、中国にも一億人の食うや食わずの人があるではないか、全世界で六秒に一人飢えて死んでいるではないか、アフリカ機構に提案したらどうなのと言った。それは将来在りうるが、いまは独りで実験をしているのだと言っていた。 もっと前になるが、私の知り合いの文学者たちの何人かが、今の朴大統領のお父さんで朴正熙という悪い大統領がいたのだが、金詩河らの詩人を弾圧したのに抗議して銀座にテントを張り、ハンガーストライキを始めたことがあった。


私はたずねていって、「表向きは抗議の苦行でいいけれど、これを機会に酒と過食を治してげんきになったら」と気持ちよく断食をするためのコピーを配ったりしたことがあった。悲壮感で高揚していた人も落ち着いてしまって、よかったのか悪かったのか。

  第八回 神明という言葉

「神明」という言葉を研究してみよう。 呂光栄主編の『気功大辞典』(人民衛星出版社)では五つの意味で説明している。⑴事物を発生させ、運動変化させる内在エネルギー。『黄帝内経素問・陰陽応象大論』には、「陰陽は天地の道なり。万物の綱紀、変化の父母、生殺の本始、神明の府なり」とある。[日本語の訳注には「変化のはかりがたいさまを"神"といい、変化の結果事物が現れて形をとることを"明"という。万物の形象を顕現させ変化させる巨大なはたらきを「神明」と称する、とある]⑵精神、意識、思惟活動。『黄帝内経素問・霊蘭秘典論』に「心は君主の官なり。神明が出ずる」とある。⑶日月星辰を指す。『黄帝内経素問・五運行大論』には「天地の動静を論じれば、神明を紀とし」(天地の動静の原理について、それが自然の力の統御によって一定の法則をそなえ)とある。⑷日神を指す。『史記・封禅書』に「東北は神明の舎」とあ...る。⑸精神身体の調和を指す。


『荘子・斉物編』に「神明を労(くる)しめて一つにせんとつとめて、しかもその同じことを知らざるなり」 簡単そうな二文字の五つの意味が全部出典付きで示されている。 ついでに付け加えると、荘子雑編の第33に老子のことを書いているところで「澹然獨輿神明居」というのがある。福永さんの解説では、「澹然は恬淡無欲なさま。神明はここでは道の霊妙なはたらきをいう。『易』繋辞伝上にも、"以て天地の撰(数)を体し、以て神明の特に通ず"とある。"神明と居る"とは老子22章にいう"一を抱く"ことである」ということだ。 この「食気者神明不死」に帰ると、これは「日月星辰」や「日神」とは思えない。断食の話だから「精神活動」だけとも思えない。精神は死なない、だけだったら普通すぎる。この「一を抱く」につなげてみて、「宇宙と一体になって亡びることがない」なら話は通ずる。神明が入っているために「気を食べていればいつまでも死なない」ということを単純にいっているのではないことがわかる。


  第九回 自分の健康は自分で作る

朝夕導引、以宣動栄衛 朝夕導引、これはわかりますね。栄は体内の気で経絡をめぐっているもの。栄気とか営気という。それに対して体を包んでいてオーラのように体外までひろがるのが衛気。 どうしたら病気になりませんか、とある人に聞かれた。抱朴子は、養生の道に通じた人は、いつも行気をおこたらず、朝夕導引して、栄気と衛気を動かし、房中の術を工夫し、飲食を節制して、風湿の外からの侵入をふせぎ、病気に打ち勝つ自信に満ち、すぐに達しないからと言ってがっかりせず、そうすれば予防・治療ができる。しかし熱心になったりやめたり、あれこれやることが変わったり、修練に恒常心がなかったりなまけたりしていると、病気になってもしかたがないね、と答えた。 これはとてもわかりやすい。ちゃんと努力すればそれなりの成果があがる。抱朴子で一番大切なことは「自分の健康は自分で作る」という決心、そして自分が選んだ道を信頼...してこつこつと続けていくということだ。


日本語訳はこの肝心なところを省略してしまっている。 こうしてみると、今の気功でいわれている実践の基礎的な枠組みが抱朴子の中にあることがわかる。並べてみよう。[行気]意念や呼吸を用いて気をめぐらせること。[吐納]呼吸を主とした気功法。[導引]身体運動によって気を導き動かす気功法。[存思]イメージによって心身を変化させる気功法。[内丹]周天功や丹田の観想を通じて「丹」を形成する気功法。[静定]前頭葉の働きを休めて脳の血液再配分を促す、動作を伴わない気功法。[僻穀]断食や穀物断ち。[房中]男女ペアで気を巡らす気功法。


  第十回 一を知れば何もかもわかる

災害を避ける方法やいろいろな能力を伸ばすほうほうは数千にも昇るが、けっきょくのところ「一を守る」に尽きる。つまりこれが気功状態である。「一を守る」のは書物で伝えられることではない。ただ実践あるのみだ。簡単に言えば、意識と身体が二つではなく、一つになるということだからだ。 翻訳を試みる。 「抱朴子はいう。私は老師がいうのを聞いた。道術の各種の本に紹介されている存想や意念を集めるなどの方法は、悪いものから身を守ることのできる法術だが、数千種類もある。あるイメージを保持したり、ある姿勢のままでいたり、九変十二化、二十四生など、存想して体内の神々を見たり、からだの中の内臓を見たりする方法は、たくさんありすぎて数えきれないほどだが、それぞれに実際の効果がある。ただ数千種類のものを存想するというのはあまりに煩雑で面倒である。もし"守一"の方法を理解すれば、それ...で他の方法をすべて捨て去ってもかまわない。


だから、もし"一"をつかんだら、万事万物を理解できたと言えるのである。」 気功の本質にかかわることなのに、なかなか気功教室で説明したりする機会がない。『中国気功辞典』から引いてみる。《守一》⑴精神意識を固守して身体と一体にする。神形(心身)合一のこと。荘子に「私はその一を守り、それによって調和する」⑵煉気功の根底的基礎。『太平経』に「守一の法は万神の根、あらゆる意識をつなぎとめる根底」とある。⑶自然な方法。『太平経』「もし一を知れば、多くを知ろうとしない。しかし一を守って退かなければ、何一つ知らないことはない。求めることすべてを知るのに、ただ坐っていればいい」⑷精神を内守し、意識思惟を安定した状態におくこと。『玄珠心鏡注』に「一を守る人はただ自分のからだを忘れ、その心をからっぽにし、何も見ず何も聞かず、言わず食べず、空虚無為のままでいる。内に思いを集中し、そうするとよく一を守ることができる」⑸意識思惟活動を一つに集中すること。『脈望』に言う。


「天谷で真一を守り、気は玄元から入れる。そうすれば真一を守り、息は往来しない」⑹陰陽協調、精神の癒し、身体の健康を指す。『黄帝内経・梁丘子注』に「一を守ってそこに意識をおいたままにしていれば調子が悪くなることはない」いろいろな辞典を比較対象してもいいのだが、かえって煩雑だろう。抱朴子のいう「守一」は「営魄を抱一して能く離さずにいられるか」(老子)の意味だから、この中の⑴である。



  抱朴子(3) 〔3/3  最後の四回.〕

2013年9月24日 16:28


  第十一回 孔子批判

孔子の話である。 孔子こそ「真理の人」ではなかったのか?「孔子は老子の道が玄妙不可思議なことを知りながら、清浄虚無の趣を汲み取り、自然の大道に帰り、俗世から無形の世界へ飛び出し、奥深い至上の道に入ることができなかった」 「孔子が学び受けたことは俗世間のことにとどまった」 「孔子は世間のことには全知全能だったが、静かに押し黙って無為の道を守ることのできる人ではなかった」そんなに大事な話ならどうして四書五経に書いてないのかと素朴に質問する人に、抱朴子は言った。...「周公・孔子が学ばなかったこと、言わなかったことはいくらもある。天文地理のことを孔子に聞いても知っているわけがない。雲気で吉凶を見ると言っても孔子には無理だろう。各地の面白い妖怪のことでも孔子は"語らない"と宣言しているし、語らないこと、語れないことは多い」みんなが仙人になったら政治はどうなるのか?「なりたい人はそんなに多くないし、実際なれる人は千年に一人かも」お供えをするのはだいじでしょう?「徳があれば福があり、憂いがなければ命が長いというのが自然の道である。


心配や不養生で病気・短命を招きながら鬼神に莫大なお供えをしても無益である」 世の中インチキがいっぱいなのですか?「張角の太平道も大いにあやしい。食いつめて神水やお札を販売することにした人が伝染病にかかって死んでしまった。桃の苗を桑の木に刺しておいたら、ご神体だと人が集まってきて新興宗教ができたこともある。農地を捨てて頼ってきた親戚にさせることがないので、万病を治せる道士に仕立てたら大儲けしてしまった。とかの怪しい話は掃いて捨てるほどある」じゃ、儒教と道教とどっちが偉いんですか?「儒家は小学校、道家は大学だ。儒家は名利を追い、道家は無欲を宝とする。儒家の研究対象は訴訟書類のようなものだ。道家の習うのは情欲を忘れる教えである。さればこそ道家は百家のかしら、仁義の本家である」ずっと儒教で稼いで道教研究につぎ込んでいたのに、よく言いますね。なぜ孔子は仙人をめざさなかったのでしょう。


「礼楽を修めて世の混乱を正し、滅びかけた国を助けるのに忙しくて、行気や存思どころではなかったのだよ。世を修めたいという聖人と、宇宙とのかかわりで自分を成長させたい聖人とはおのずから違うのだ」

  第十二回 動けば調子がいい

動則百関気暢。 動いていると、全部の関節の気をのびのびとさせる。 「導引はもともと名前や姿かたちによるものではないので、練功が一定の境地に達すれば、決まったやりかたということはなく、屈伸、俯仰、行臥、腰かける、立つ、動き回る、ゆっくり歩く、歌うなどこれすべて導引である。この種の観点はとても現実的な意義がある。やりすぎてもまたよくない。調息と閉気をうまく結び付けて、呼吸の回数とか必ずしも決めないで、慎重にやっていく。総じて導引はまだ発病の隠れている病気に有効である。運動は各関節機能を正常にし、気血を流暢にするが、このことは養生の基本規律といってよい」 明晰である。現代の気功教科書といっても通る。閉気は、昔の気功ほど息を止めたり、長く吸ったりということを重視した。今残っているのは、深い吸気と呼気の間に少し吸いも吐きもしない時間を持つことは普通にやられている。きまった導引の形が大事なのではなく、それを消化して、日常の起居振る舞いに生かしていったほうが良い。導引は予防か、病気になりたての時に効果がある。深刻な病気、慢性病には静功がよい。一を守る、である。


  第十三回 有名な「亀の呼吸」

今やられている亀の呼吸は、青海省で出土した5500年前の壺に描いてある。イラストだけあって、しゃがんであごを突き出している。3000年前に岷江というその河の少し下流の成都に近いところ、有名な三星堆遺跡に近いところの河岸に「鼈(すっぽん)」の名前を付けた王朝があったことが分かっている。亀のまねをすることが宗教儀式でもあったし、健康法でもあったと解釈されている。ほぼそれと同じやりかたが、抱朴子に紹介されている。 「戦乱の中でやむなく四歳の子供を岩穴において逃げた父親がいた。母親はもう死んでしまっている。岩の割れ目に隠して、かならず迎えに来るからなんとか頑張って生き延びろよと一人逃げた。ところが思いもよらず戦闘は長引き、子供のところにかえってやれなかった。かわいそうに、飢え死にさせてしまった、お骨だけでもひろいに行こうと行ったところ、なんと子供は生きていて、むしろ前より元気そうだった。お前食べ物を何とかして見つけたのかいと聞くと、同じ穴の中に亀がいて、首をのばしたりちぢめたりしているから、何か呼吸しているなと思ってまねをしていたんだ、そうするとちっともおなかがへらないで、なぜか安心していられたのだよと言った。これは亀が不死の法を知っていて、仙道は亀に習えばいいということなのである。息を吐いて首をたらし、閉気してしばしおき、吸いながらあごを出して上向いてくる。これが亀の呼吸である。


  第十四回 珍味美形を避け

至理というまとめの章から。 「無という一つのものを大切にして、すべてに消極的な処世態度を守る」おもしろいでしょう。消極の勧めなのである。 「元気を無駄に散らさぬよう、ひたすら嬰児のように柔らかく保ち、どっしりと生まれたままに恬淡無欲である。」 無欲でないということは、結局自己否定なのだ。ああしたい、こうなりたいというのは、今の私に満足しないということだ。せめて気功をしているときだけでも、私はすばらしいと思ってやらないと、立つ瀬がないではないか。 「喜びや悲しみなど、いらざる感情を忘れ、損得や名誉不名誉に心を煩わせない。体に毒になる珍味美形を避け、禍のもとになるおしゃべりを慎む。内心の声に耳を傾けることによってあらゆるかすかな物音も聞こえるようになり、心の中に見入ることによって形のないものも見えるようになる」...「蓮華の露を吸い、天界に心を洗い、外には五星の禍を避け、内には九臓の精を守る。


命の門に固く鍵をかけ、臍下丹田に北極星を結びつけ、日月星辰の光を脳中に引き入れ、魂を天上に飛ばして体を鍛錬する」 「日月の成都ともに逍遥し、おだやかにくつろいでいれば、魂魄は逃げ去ることはなく、骨は丈夫で身が軽くなる。だから風雲に鞭打って天に昇り、宇宙と等しい永遠の生命が得られるのである」 「そもそも人が死ぬ原因は、精力の消耗が第一、老いが第二、病気の害が第三、中毒が第四、邪気に傷つけられるのが第五、風や冷気に当てられるのが第六である。いま導引で気を全身にめぐらし、房中で精を漏らさずに体内に戻して脳を補い、飲食や起居に節度を守り、薬物を服用し、精神を統一し、生命を縮める珍味や美人などの一切を遠ざけるようにすれば、右の六つの害をすべて免れることができよう」 美人がとくにいけないのだ。飲食や起居に節度をまもって日々練功しても、美人一人で養生の大戦略は崩壊してしまう、と葛洪はぼやいているようである。





  荀子から 性悪説.

013年10月6日 11:15


孟子と並んで孔子の二人の継承者と言われるが、孟子の性善説に対して荀子は性悪説をとった。放置しておけば人はどんどん利己的になるので、礼をもって抑制しなければならないとした。諸橋轍次『中国古典名言辞典』より。学は以て已むべからず学問にはもうこれでいいということはない。日々、永遠に継承して発展させていかなければならないものだ。青は之を藍に取りて、藍よりも青しこれはよく知られた言葉。生徒のほうが先生よりもすぐれた修養ができてきたことを言う。高山に到らざれば、天の高さを知らず高い山に登らなければ山の高さはわからない。学問の境地もそこに達してみないとその偉大さがわからない。立つ所の者然ればなり自分の立場がそう考えさせている。ほかの立場になればちがったふうに考えているかもしれない。「併せ聞けば明るし」に通じる言葉。我を非として当たるものは、わが師なり。我に諂諛(てんゆ)するものは、わが賊なり。私を非難し、欠点を指摘してくれる人は誰でも私の先生だ。私にへつらい、おべっかをいう人は私を損なうものだ。


一なれば治まり、二なれば乱れる国でも家庭でも方針が統一しているときは治まるが、主要な方針が複数あるときはうまくいかない。楽は同を合わせ、礼は異を分かつ。音楽は地位や身分の差別なく全員を統一させる。礼はひとりひとりの差異に随って、行動パターンを差別する。両方あってこそ治まるのだ。富を欲するか、恥を忍べ。蓄財が目的なら恥知らずなことをすることもある。友人も義理もない。人の性は悪なり。その善なるは偽なり。「偽」とはニセの、とか嘘の、という意味ではなく、「人の為す」結果だということである。人が善になるのは「人為」による。荀子の根本思想を表現することば。





  近思録.

2013年10月8日 10:44


近思録 近思録は朱子が先輩たちの言葉を編集したものだ。「無極にして太極」は前に紹 介したが、太極思想を通じて儒教と道教を総合した面がある。いくつか語録を取り出してコメントする。 生之れを性という。 生まれながらの状態が人間の本性だ。程明道の言葉だが、生まれながらにして悪事を働くことはないので、性は善である、という立場だ。道教では南派と北派に分かれて「生、つまり健康問題を解決してから性、道徳的完成をめざすべきだ」という立場と、「性、つまり精神的な完成が進むに連れて生、身体も健康になるのでなければ意味がない」という立場で争っていた。儒教ではもともとそれを切り離して性の完成だけを言ってきたところがあり、宋学はそれを反省して、生と性は一致する、両方修行していかなければならないという立場を取った。 性はすなわち理なり。...人の本性はもともと天の理と対応している。これも孔子の時代と違って、自分を教養で完成させていくことよりも、曇った鏡を磨いて「性」(人の本性のこと)をあらわにしていけばいいという立場をとった。


程伊川の言葉。 虚にして人を受く。 自分の考えをまずかっこに入れて、人の言うことに学ぶべきことがないかを探して、それから総合的に判断する。我があっては対話そのものが成り立たない。 学ばざれば便(すなわ)ち老いて衰う。 老いというのは学ばなくなることだといってもいい。意欲的に何もかも学びたいのが精神的な若さである。私が一番賢いと思ったら老化だと思え。 胆は大ならんことを欲し、心は小ならんことを欲す。 大胆で小心なのが一番いい。唐の医師・気功家孫思貌が「もし肝が大きくなければ艱難に遭遇したり、思わぬ禍にあったばあいにすぐ挫けてしまう。だが細心でないと、物事に注意が行き届かないから、失敗することが多い」とコメントしている。胆経は肝気を下すのによく、心経はつい気が上がりすぎる。心気が上がりすぎないようにして腎臓の気と結び付け、肝気が上がりっぱなしにならないよう胆経をうまく使う、という実践体系でもある。 言語を慎みて以てその徳を養い飲食を節して以てその体を養う むだなおしゃべり、言っても言わなくてもいい会話をしていると、徳が養われることはない。


老子は道編と徳編に分かれているが、徳とは私の内部で働く道のことである。自分の体をコントロールすることは結局飲食をコントロールすることに尽きる。言語とは世界に対して自分をいかに表出するであり、飲食とは世界をいかに受け入れるか、である。私は入力過剰で、世界を受け入れ過ぎてきた。 嗜欲深き者は其の天機浅し。もともとは荘子のことば。欲の深い人はその深さに反比例して良心が浅い。天機とは天の与えてくれる本当のチャンスといってもいい。 和して流せず。 和して同ぜずは論語の言葉。こちらは中庸の言葉を朱子が引いている。相手と調和していくが、相手の思い通りになるわけではない。流されてしまわない。 胸中灑落(しゃらく)なること、光風霽月(せいげつ)の如し。 胸の中があっさりして、清らかで、美しい。周茂叔を讃えた程明道の言葉。灑落は超脱していて、心にひっかかることがないこと、光雲は風か吹いて草が光っているようす、霽月は晴れた月。自我がなくこだわりがないということに宋代の知識人がいかに憧れていたかを表している。





  えびすは海から 上.

2013年10月1日 2:05


(2007年に書いたもの。『洛北日記抄』としてパンフレットにまとめたが、何人の目にもふれていない。大黒について書いたのを上、えびすのほうを下として転載する)ご近所の松ヶ崎の大黒さん(当時は左京区の松ヶ崎近くに住んでいた)は暮に行ったきりで、甲子の大祭には行きそびれてしまった。大黒さんのついた熊手は暮の時に一応買ってきて、玄関に飾ってある。そういえば書斎のスタンドには、中国の先生を清水寺に案内したときに求めた小さな大黒天の人形が下がっている。もろに黒人の大黒天も珍しい。これはアフリカ原産というわけではなく、インドのマハ―カーラという神で、本来は戦闘の神である。破壊神シヴァの夜の姿ともいう。それがいつしか袋を以て食物や財宝を配るサンタさんのような姿になり、日本では蓄財、厨房守護、子孫繁栄の神様になってしまった。かぶっている帽子は実は男根を表していて、インドの男根崇拝の名残があるらしいが、お詣りする人にはほとんど意識されてはいまい。真っ黒になって働けと説明している寺もある。


いつしか音が重なるため大黒と一緒にされて打出の小槌を持つようになった。大黒に限らず七福神は、インドや中国から流れ着いた神々がさまざまな期待を負わされて変身していっているところが面白い。最初に恵比寿と大黒への信仰が関西で始まったのが平安時代だが、その時代は国家安泰五穀豊穣を祈るという共同体の行事で、個人の幸福を願うものではなかった。七福神を巡るというのは室町時代の京都で始まったらしい。その背景には、当時登場してきた流浪する経済人=商人が、自分を支える異邦人の神を求めたということがあったようにも思われる。のちに江戸幕府ができた時に、天海僧正が家康にリップサービスとして、関西にはこういうおめでたい神々がいるがあなたは一人で七福神の徳を具えていると言ったところ、乗せられて狩野探幽に七福神の絵を描かせ、それを各地の大名が真似をしてひろまった。江戸時代からは正月二日に七福神を乗せた宝船を売り歩いて、それを枕の下に敷いて縁起の良い初夢を見るということが大流行した。


本来中国には年末に小さな船を作って貧乏神を乗せて水に流す風習があり、日本でも節分などにやせこけた老人の人形を川に流す風習は各地にある。そのあとに七福神の乗った船が常世という海の彼方の財宝の国から気てほしいという願望とこの七福神がつながった。弁天もインドの水の神だし、寿老人は老子の化身ともいうし、いずれにせよ外来の神々なのであるが、黒人で男根の頭をしている大黒はまたことさらストレンジである。





  えびすは海から  下

2013年10月1日 3:47


それに比べれば、にこにこして釣竿と鯛を抱える恵比寿は穏やかなものである。しかし、その名前からして、恵比寿はもともと「夷」であり「戎」である。これはどちらも漢民族が四方の異邦人をよぶ時の文字だ。坂上田村麻呂から徳川末代まで、東国をまもる将軍は征夷大将軍という称号を宮廷からいただいてきたのだが、これは「ストレンジャーを制圧する将軍」という意味である。エビスの漢字には蝦夷も出てくるが、これは普通アイヌに投げかけられてきた蔑称である。同じ発音の「夷」も実は関東中部までをもともとの生息圏にしてきたアイヌ民族を指しているのだが、「夷」や「戎」はアイヌのことではない。京都奈良の近くにいながら決して精神的に従属することのなかった、瀬戸内海の海洋民族のことである。エビスで変換すると、もうひとつ「蛭子」で出てくる。これは「古事記」に出てくるようにイザナギとイザナミが最初に生んだ子である。


戈で海をかきまわして日本列島を作った後で、人間を生もうということになって、初めてセックスをする場面で、柱の周りをまわってイザナミが「あなたは素敵。セックスしましょう」という。イザナギは「ばかだな、お前、女から誘ったら不吉なんだぞ」というが、我慢できなくてそのままセックスしてしまう。ところが生まれた子は足のない、背骨もあるのか定かでない片輪の子だったので、葦の船に載せて海へ捨てようとなる。二度目にやってまた淡島という片輪の子ができ、これも捨てた。男上位でやり直してみて、やっとアマテラスが生まれるのである。「古事記」にはここまでしか書いていない。正史にあたる「日本書紀」ではこの部分は削除されている。実は足のない子が生まれて「葦船に乗せて」流すというのはポリネシア、ミクロネシアに広く分布する神話だ。おそらく瀬戸内の、もともとは潜り漁法=海女文化をもって、早い時期に日本列島にまでたどりついていた、イモ栽培狩猟民の文化に語り伝えられて来たに違いない。


この「生み損ない」神話の原型に近いものが、沖縄の波照間に残っている。兄と妹がセックスをすると、一度目には魚が生まれ、二度目はムカデが生まれ、最後には女の子が生まれるという話である。最初はクラゲという話もあり、蛭子のイメージにさらに近い。これは民族学者の間では、波照間から近畿に伝わったわけでなく、同起源の神話が各地に影響したと見られている。ポリネシアに広く分布する神話では、この足萎えの子を葦船に乗せて捨てたところ、海の神が憐れんで育て、立派な若者になって帰ってきて、兄たちの暴政を討って平和な世を作ったとされる。西宮の漁民たちは、蛭子を海に流しただけの古事記に対して、自分たちの遠い記憶にしたがってカウンター神話を作った。それが、蛭子が修行してエビスになって帰ってきた、エビスは無限の大漁と財宝をもたらす福の神である、という神話である。「古事記」もよく読むと、これまでの通念で見落としてきたことがいろいろ書いてある。


この「生み損ない」テーマは、女がでしゃばるとろくなことはないという考えと、小会社は身に流すしかないという考えを表現していて、女系家族が崩壊して日本の権力社会が形成されるときのイデオロギーを明確に示している。その時に勝手に瀬戸内海洋民の神話の一部をつかったので、彼らは残りをエビス信仰として完成させ、カウンターパンチを喰らわせた。エビスさんが常に坐っていて決して立たないのは、葦萎えの蛭子の成長した姿であるためなのだ。もう一人の障害者淡島がその後どうなったかというと、和歌山県は加太の淡島神社だ。ここでは少彦名命を祀っているのだが、名前の由来は「古事記」の淡島からで、少彦名も舟から立ち上がることがないのは共通している。少彦名は医薬、禁厭の神、つまり気功の先達である。西宮の十日戎に行ってみたい気持ちはあるが、三日で百万人が集まるという混雑を考えるとびびってしまう。いずれも四条から遠くない九日の祇園のえべっさんか、十日の恵比寿神社の初えびすに舞妓さんを見に行ったほうが賢いだろうか。




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