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シャマニズム

 

■『フィンランド語は猫の言葉』
■「二人のとびきりのシャマンとの出会い(シャマンとは)」
■「二人のとびきりのシャマンとの出会い(ヘルヴィのこと)」
■「すべてがつながっている」
■「森という薬箱を歩くための道具」
■「サーメのシャマンドラム」
■「国を作らなかった人々」
■「妖精たちとムーミン」

 


  

《メディシンバッグ、シャマンドラム、そしてラップランドとフィンランドの精神生活について》

  


『フィンランド語は猫の言葉』

2014年3月15日


フィンランド語は猫の言葉

 

『フィンランド語は猫の言葉』をひさびさに読んだ。
稲垣美晴さんの処女作品である。昭和56年というから、けっこう昔の本だ。
文化出版局から出ている。
彼女が芸大でフィンランドの画家ガッレンカッレラを卒論に選び、フィンランド留学をすることになる。留学は前後四回、三年余に及ぶ。苦労してフィンランド語を身に着けるが、複雑な文法を間違えずに書くのは大変で、相当慣れてきてもフィンランド人の仲間や先生を笑いの渦に引き込んだりする。数字まで変化するからおそろしい。YMCAもこちらではNMKYで、やたらに多い略号がむずかしい。
生活面でもいろいろ「冒険」をした。学生寮は男女とりまぜての三人部屋で、そのほうがちゃんと掃除をするというだけの理由らしい。サウナも最初は戸惑ったが、やがて大好きになりやみつきになった。誕生日のサウナパーティもした。学校にもサウナがあるし、アパートを借りてからもそこにサウナがあった。
あ...るとき出ようと思ったら内開きのドアの取っ手が抜けてしまった。どんどん熱くなり、出られない。誰も来ない。悪戦苦闘のあげく抜けた穴に指を入れてやっと開いた。サウナに閉じ込められる恐ろしさを知った。
全体として彼女がフィンランド語を身に着けるまでの苦労話といっていいが、その中での友達付き合いや体調を崩しての病院の話などとりまぜてある。総じて、フィンランドっていいな、というのが伝わってくる。
タイトルの「猫の言葉」というのは、フィンランド人が電話でたえまなく使う「うん、うん」という表現、「ニーン、ニーン」から来ている。猫みたいと思ってタイトルにまでしたのである。
彼女はこのあと『サンタさん分析します』を書いたり、フィンランド人の書いたシベリウスの伝記を訳したり、マウリ・クンナスの絵本を訳したり、いろいろしている。この処女作からして、達意の文章で、しかもユーモアを忘れない。この本は文庫に入って広く読まれる価値があると思うが、もうどこかに入ってるかな。

 






二人のとびきりのシャマンとの出会い (1)

20??年?月?日

日常意識と違う別の世界に

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お釈迦さん

  

日常意識と違う別の世界に人を連れて行く力のある導き手のことです。シベリアのある部族で使われている言葉が、それを研究した学者の影響で世界中の類似した文化を表すようになりました。そういうことが必要だとされて、普通にやられている文化のことをシャマニズムといいます。シャマニズムが一番盛んで日常的にやられている社会に韓国がありますが、韓国のシャマンは本当に特別の意識状態に入ったり、人をその状態に誘導したりすることは稀で、ほとんどの場合はその「ふり」をして踊り、声色を使ったりして霊を呼び出したふりをします。でもその中には本当かも知れないという人もいます。

  

シャマン現象は大きく分けて、「憑依」と「脱魂」のふたつのパターンがあります。憑依とは「とりつく」という意味で,神が、あるいはその人でない死んだ人や別の生きている人の霊魂がそのシャマンにとりついて、人格変容が起こり、その人が知っているはずのないことを話したりする場合です。脱魂は肉体をその場所においたまま、魂が遠くに抜け出して、必要なことを見たり聞いたり学んだりしてくることです。それはシャマンがそうなることもあり、参加した人なりクライアントがそうなる場合もあり、本当に不思議なことに一緒にひとつの夢を見るという場合もあります。

  

〔私は国際シャマニズム学会の創立メンバーでした。本部はハンガリーにありました。その第一回の総会が韓国で開かれ、日本からは修験道の専門家である三宅準先生と私が参加しました。私は当時さかんに交流のあった韓国の学者たちから招かれていきました。そのときにハワイイの最高のシャマンの一人であるサージ・キングを自費で招きたいと思い、それに参加してから日本に来て高野山でワークショップをしてその費用を作りました。サージと非公開で天河神社でやった宮司との交流はわすれることができません。学会には途中で会費を払えなくなって、一時脱退しました。毎年ハンガリーやボリビアやカメルーンで開かれる面白そうな学会に参加できる見込みもなかったものですから(これは19年後の付け加えです。〕

  

私は過去に二人の女性シャマンと深い精神的つながりを持って、大きな影響を受けました。一人は「憑依型」のアイヌの青木愛子であり、もう一人は「脱魂型」のフィンランドのヘルヴィです。二人とも70代のときに知り合いました。


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二人のとびきりのシャマンとの出会い(2)

20??年?月?日

トゥルクの養老院に住んでいたヘルヴィ・ヴュルクルント

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魔女

もうひとりは、フィンランドの南西端トゥルクの養老院に住んでいたヘルヴィ・ヴュルクルントでした。養老院といっても一戸建てで、立派なものでした。お茶を淹れてくれて、カップを弄びながらの手の表情は、長い指の先に更に7,8センチほどのマニキュアをした爪が伸びていて、いかにも「魔女」していました。「昔の魔女は洞窟に隠れたんだけど、今はそれじゃかえって目立つからね、養老院に隠れるのさ」とわらっていました。

  

「それに、いつお呼びがかかるかわからないから、一人でいたほうがいいし」 この「お呼び」というのは天に召されることではなく、突然脱魂して意識だけ遠くに行ってしまうことです。そのとき近くに誰かがいたら、失神して危険な状態にあると誤解して病院に運ばれたりします。一度など気がついたら死体置き場にいたことがあるそうです。多くの場合は、何かを認識するというだけでなく、何かの役割を果たすように言われるといいます。なりたくてなったわけではなく、迷惑に思っていたのですが、あるとき孫の男の子を救助するということがありました。

 

鳥のペンダント
南の海

海の上を滑っていったら、なんと自分の孫が溺れてもがいているのです。あんたどうしたのと抱き上げてそのまま海岸のほうに連れて行った。子供が溺れているということで何人もの人が海の中を走ってきたのだが、その中の一人は私を見てびっくりした顔をしている。見えたんだね、その人にだけは。はい、助けて頂戴と孫を渡して私は消えた。まもなく意識が私の体にかえってきた。しばらくして電話があって、「孫が溺れたけど奇跡的に助かったのよ」と娘からだった。「ふむふむ、よかったねえ」と言ったのだけどさ。まあこういうことがあるのならこの奇妙な癖もしかたないねと思ったのさ。

  

ババジ
ババジ

ある朝起きたらキッチンのそこにさ、見知らぬ人が坐っているんだよ。びっくりしてさ、まだネグリジェだったから前をかき合わせたよ。自分はチベットからきた。なぜここにきたのかわからないが、あなたに七つのチャクラについて教えるように言われた。お茶飲みます? と聞くといや私は幽体で現実の体ではないからと断った。で私は着替えてきてチャクラについて習ったのさ。

カウコはそれを体験している。初めて会った時に試してみようかと胸のチャクラから気を放出すると、彼は椅子に叩きつけられたようになったという。

あとになって、チベットから偉い坊さんが来たからミーティングをやるわよと友達から連絡があって、行ってみたらうちのキッチンに来た坊さんがいるの。あれ、あなたフィンランド語を話したわよね、と聞くと、幽体の時には相手に合わせた言葉を話せるが現実にはできないのですと頭をかきました。長年体験だけしてきたのが東洋の理論に出会って、いろいろなことがわかったわ。

  

彼女の能力はマスコミでも報道され、外国からもいろいろ依頼が来ました。とくに呪ったというのではないが、困ったなと思っただけで、その担当編集者が病気になってしまった。こんなふうに人目にさらすことはできないと、「とうとうおかしくなった」という噂を流して、養老院に隠れたという次第。それからはカレワラン・エソテリズムの研究をしたりしながらひっそり暮らしてきた。そうそうあんたたちを紹介してくれたのっぽのマッティはもともとカレワラの講義を聞きに来たんだよ。カレワラという叙事詩があってね(日本語でも全訳されていますよ)そこに隠された密教的な教えを発掘して整理するという作業をしてきた。

  

プルヴェシでやった日本、フィンランドの合同の合宿で(あれは50人くらいもいた)ヘルヴィにも来てもらったことがあるんです。何をしてもらうでなし、ただ一緒にいたいと。

鳥のペンダント
鳥のペンダント

彼女は気持ちよさそうに陽だまりに坐ってみんなの練習を見ていたのですが、「あんたが舞い始めるとすごく大きいダイヤ型の八面体ができて、あんたの動きにつれてまわっていたのが、すごくきれいだったよ」と言ってくれました。むろんこちらには見えもしないのですが。


半分冗談のようにして、ヘルヴィは

「飛行機が落ちそうになったらこのペンダントで私を呼ぶんだよ。なんとかするし」

と自分で彫金した鳥を描いたペンダントをくれました。

彼女はそれから間もなくなくなりましたが、

必要な時には彼女に助けられるに違いないとずっと思っています。

愛子ばばのようなタイプを憑依型シャマン、ヘルヴィのようなタイプを脱魂型シャマンといいます。もちろんまねができなくとも、二人に会えたことでどんなにか世界が広くなったことでしょう。


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すべてがつながっている

アメリカの人類学者マイケル・ハーナーが、中南米のシャマンについて勉強して、それを一種の精神療法として整理し、ネオ・シャマニズムとしてカリフォルニアでワークショップを始めました。それを習って帰国した藤見幸雄さんの指導で、天河で合宿をしたことがありました。私は誘導された通りに「穴」に入り、旅をしましたが、かえって来いよーのドラミングまでに自分の守護動物に出会うことはできませんでした。「きっと熊だよ」と藤見さんがいうので、「藤見さん蛙でしょ」といったら「あれえ、どうしてわかるの」と言っていました。とっさに顔を見て言っただけなのですが。その時はたぶんナヴァホ族の、模様のないドラムを使っていました。

そんなに特別のことを期待しなくても、ドラミングによって自然の波動に自分を合わせると...いう比較的気楽な、しかしとても味わいのある使い方をすることもできます。以下は『フィンランドの森の友だち』の中一節です。

「水車小屋から一時間ほどハイキングをして、セイタキキヴィに行きました。セイタはシャマン、キヴィは岩なので、昔はその上で神々を招く儀式をしたらしい。小さな、異様なほどの透明度の湖のほとりに、天にせり出すテラスのような岩がありました。シャマンズ・ロックと聞いていたので、ドラムを持ってきていました。苦労してよじのぼって、少しだけドラムを叩きました。

明るい陽光の中ですが、トントントントンと単調に叩いていると、目の前の水面や周囲の木々が皆同調して波動を発しはじめ、世界全体がゆれているようでした。全部食べ物、という感覚と同じで、波動としてはいっさいがつながっていて、自分と大地、湖、森、鳥たちの間に何も違いがない、という実感を味わいました」

見える者を見るのとまた違った、存在の背後の波動を共有して行くことが「音で見る」ことであるという感覚とでもいいましょうか。「全部食べ物、という感覚」というのはその前の文章で、低い山頂まで何キロにわたって全部ブルーベリーという風景をその前に見て、天から与えられたマナが地上に満ち満ちているという究極のぜいたくな感覚をあじわったことを指します。世界全体が食べ゜られる、という「エディブルな風景はまた荘子の言う「万斉同」の実感でもあります。食べるという行為を通じて「他者」であったいのちが私のいのちに変わっていくことを実感するとき、耳元で無音のシャマンドラムがやっぱり鳴り続けているのです。 HOMEに返る


  

  

  

  

* 森という薬箱を歩くための道具 *

  

深い自然の中を歩くことは、どこかに行くために仕方なく歩くというのとはずいぶん質の違う行為です。ティク・ナット・ハンというベトナム出身のお坊さん(今はフランスにいます)と一緒に比叡山の山道をゆっくりゆっくり歩いたことがあります。彼はわかりやすく「ウォーキング・メディテーション」と言っていました。仏教の修行には「経行(きんひん)」といって、お堂の廻り廊下とかをえんえんと、ゆっくりゆっくり歩く方法があります。それを自然の中でもやってみたら、というワークショップです。

  

歩く瞑想なのですが、自分の中で余計な想念を捨てていくということだけでなしに、自然に対して「全開」状態になっていくことが、安全な森の中を歩いていくということで可能になります。それは周囲「見る=見られる」の自然と関係を超えた強い結びつきを作ります。私の身体は拡張して、落ち葉も木々も石ころも雲も私の不可欠の一部だという実感がしてきます。それは坐禅堂で坐ったり、教室で気功をしているときにはなかなか得られない、独特の境地です。

フィンランド

シャマンドラムが「先住民文化」だと言いましたが、このように歩くこともまた「先住民文化」のひとつです。それを象徴する道具が「メディシンバッグ」です。

  

メディシンバッグは私が知らないだけで、もっと世界の至る所にあるのかも知れませんが、私の持っているのはサーメのものだけです。でも、グァテマラのインディオの物だというのを一度見せてもらって、似ているのにびっくりしたことがあります。サーメのメディシンバッグはトナカイの皮でできています。小さな袋と、口を縛る紐がついていて、首から下げる下げ紐もついていることがあります。土産物屋にあるのはかなり高額です。サーメ博物館にあるのはやや安いですが、下げ紐は自分でつけてね、という感じです。土産物としてはあまり実用価値はなく、一種の装飾品として売られています。文字通りのバッグにするには小さすぎますし。

もともとこれは、山や森を歩く時に首から下げていきます。そして、歩いていて「あ、これが私を呼び止めているのかな」と思う気にかかるものがあったら、拾ってメディシン・バッグに入れるのです。それは小石かも知れないし、珍しい虫の死骸かも知れないし、特別の色をした落ち葉かも知れない。この苔の塊りはどうしても身に着けておきたいと思うかもしれない。使用価値も交換価値もない、ただ私にとってだけ意味のありそうな、「世界の断片」をコレクションするためのバッグなのです。それはとても個人的な、「世界と私の割れ目をふさいでくれる何ものか」なのです。それを携帯することで、私はまた力にあふれてきます。私の肌につけておけば、力を与えてくれるもの、それがメディシンです。

  

これは実際にメディシンの起源であった、と私は思っています。

そのうちに、私はどうもこの木のそばにいるときに元気だ、この石と共にいると調子がいい、等々と気づいてくる人がいます。持ち帰れないならばこの木に寄りかかってみようか、向き合ってみようか、というのが樹林気功です。こんなに気持ちいいものならこの木の皮をすこしだけもらっていって、私の枕に置いてみようか、とたとえば胃の悪い人が黄檗の木の前で考えたとします。本来薬は飲むものではなく、それとどうにかして「気を共有する」ことで癒される何ものかのことでした。
メディシンバッグを誰もが使っていた文化の前提にあるのは、「森は私の薬箱である」という意識です。森に行けば、必ず私を癒してくれるものに出会う、と確信をもって考える事が出来れば、私の病や悩みとのつきあい方も変わってくるでしょう。サーメだけでなく、フィンランド人はみんな森に自分の癒しの木をもっています。だからこの話の通じない人はいません。でももうほとんどの人は実際にはメディシンバッグを持ち歩かなくなっています。


  

漢方薬屋さんは、そんなふうに見えませんが、実のところ「森の出張所」です。そこにはさまざまなタイプの、人を癒してくれる木の実や木の皮や葉っぱや根っこや、はてはトカゲや虫の死体から石ころまでのコレクションが用意されています。神農さんという人がいろんなものを自分の体で試してそのコレクションを作ったことになっていますが、それはおそらく何世代もの無数の人々が、自分流のメディシンバッグを作り、樹林気功をし、その樹木や石の一部を自宅に置いてみる経験をだんだんにまとめて行って、次第に精密な漢方薬の体系ができたはずなのです。

石ころ

それが、風邪を引いたら葛根湯とか、病院に行ってツムラの何番を処方されて受け取ってくるというだけになってしまうと、からだと大自然の出会う場所はどこにもなくなってしまいます。ましてそれが化学製剤に置き換えられてしまえば、もうどんな意味でもメディシンとはいえません。

  

薬について見直すことは、私たちの病気観を原点までもどって再建しようということです。私はその最善の道は、メディシンバッグをもって森に行くことだと思っています。私が癒されるとはどういうことか、という問いかけからもう一度してみる必要があるのです。

森の教会まで、四キロというにはずいぶん長い道のりを歩きました。ラップランドのとても平坦な森です。その間ずっと私は「何かよびかけてくるものがあったらメディシンバッグに入れてあげるのに」と思いながら歩きました。前日イナリの店で見つけた小さなメディシンバッグがまだ空のままだったのです。

赤い葉

小さな石に緑の苔が分厚くついているのを拾いました。帰り道で名も知れぬ小さな赤い葉っぱを入れたくなりました。それは「私の薬」とよぶほど切実な関係ではなさそうですが、でものぞきこむたびに、こうして「引用」されたラップランドの大自然の一部のかすかな香りをかぎ、

この木の葉のついていた木や、この苔の貼り付いていた岩が何も言わずに私を待っていると思うだけで、私の気がどこまでも広がっていく実感を持つことができます。 HOMEに返る

  

  

  

  

サーメのシャマンドラム

2014年1月24日

  

伝統的なサーメは、ラーヴとかコタとかいう大きなテントに住んできました。ラッパを伏せたような、円錐状の布のテントです。丸太を組み合わせて、かぶせるだけで、アメリカインディアンの一部でティピなどと言われて使われているものとよく似ています。中にトナカイの皮を敷き詰め、真ん中にファイアプレースがあります

現在では、ほとんど誰でも自分の家を持ったりアパートを借りたりしているので、コタだけで暮らしている人はほとんどいません。でも都会から遠いところで仮のねぐらが必要だったりすれば作るほかに、庭や空き地に作って、一種の祈りの場として、精神的な癒しの場として使っています。火を囲んで昔ながらの白樺のこぶをくりぬいてトナカイのなめし皮を張ったドラムをならして、特別の祈りの状態を作り出すのです。そ...れは人々の心に及ぼす悪い妖精の影響を排除し、良い妖精たちとのつながりを強めます。

シャマンドラムを描いたメルヤ・アレッタ・ランッティラの絵がどこでも売られている絵葉書になっています。大きさはさまざまですが、片手で持って打ち鳴らすことができないといけません。よく使われるのは白樺にできるこぶをとってくり貫くことですが、それだとそんなに大きいものはできません。いずれにしても、もとの木を切り倒すことをせず、そのドラムに必要な部分だけを取ってきます。そしてたいていはその切り口にさまざまな葉っぱや苔を巻き付けて枯れないようにします。というのも、どれだけ離れたところでそのドラムを叩いても、もとの木がそれと共振し、そこから天にメッセージが届くのだと考えられているからです。ドラムは孤立して存在しているのではなく、森=天のネットワークの一部としてのみ生きているのです。

ドラムのスティックはトナカイの角でできています。皮もトナカイですからある意味では「トナカイの声」そのものです。トナカイというそれなしに暮らしが成り立たない第一の資源を、食べ、着、敷物などにするだけでなく、この聖なる道具にもするのです。そして特徴的なのが、このデザインです。世界中のほとんどの地域のシャマン・ドラムの表面は無地ですが、サーメのものはどこでもこの模様が入っています。それは絵文字のようなもので、この文字自体は雲南の古代のデザインや、アリゾナの石文字と驚くほど似ています。お互い伝わるはずのない遠い地域で、同じ教師が(つまり宇宙からの来訪者などが)おしえたと言われても信じてしまいそうになります。その絵は、狩りや遊牧をする人やトナカイはじめさまざまな動物、魚、住い、倉庫、舟などで構成されたもので、その部族の活動範囲の一種の地図をなしています。あるいは財産目録と言ってもいいでしょうか。F・テーケイは『中国の悲歌の誕生』で屈原が初めて自分の想いというものを文学にする以前の文学は、自分の生活範囲の財産目録を現していたので、「カタログ文学」であると表現しましたが、その意味では、シャマン・ドラムのデザインも「カタログ文学」であるかも知れません。その絵は上下左右非対称で、方向のあるものです。だから、音を出すためだけでなく、ドラムを水平してやれば石やコインなどを乗せて叩き、その動く方向を見て探し物がどの方角にあるかを占うこともあるといわれます。

その意味では、ドラムには「世界のひな型」が書き込まれています。探しものよりもっと大事なことは、人がそのドラムに導かれてシャマン的な変性意識状態になった時に、またドラムに導かれて帰ってくることができるということです。
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国を作らなかった人々

2014年1月23日

  

ラップランドという時に二通りのフィンランド語があります。ラッピライネンというともともとラップランドに住んでいるラップランド人のことです。ラッパライネンというと、フィンランド人なんだがラップランドに移住した人のことです。そしてラッピライネンは自分たちのことをそう呼ばずにサーメとよんでいます。ラップランド語ではなくサーメ語というわけです。

サーメ語を話して自分たちをサーメという民族だと思っている人たちは、フィンランドだけにいるわけけではありません。スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ロシアの四か国にまたがっています。アイヌ人が知らないうちに日本国民ということらされてしまったのと同様に、サーメ人たちはいつのまにかフィンランド人になったりロシア人になったりして...きました。こういう、国をつくるつもりがなかったのに、ほかの国に勝手に入れられてしまった人たちを「先住民」とよびます。その意味では、サーメの人々はこの四つの国にとって先住民であるわけです。広域にわたってトナカイの遊牧をして歩くことが彼らの主な生活手段なので、いつのまにか国境線を引かれてしまったのはずいぶん困ったことだろうと思います。むろん国境を越えて放牧することが実質上できないわけではないでしょうが、自然にそれぞれの地域でするようになりました。そして、もとの言葉は同じなのに、それぞれの地域でずいぶん違った方言に分化発展してしまいました。フィンランドに住むサーメはフィンランド・サーメということになり、その中でも湖のサーメ、山のサーメなど少しずつ文化の差異が定着してきました。先住民文化を再発見して主体性を取り戻そうという動きがここ10年ほど活発になってきていますが、それをリードしているのが日本のアイヌとこのサーメのひとびとです。北米のイヌイットやインディアン、中南米のインディオ、オーストラリアのアボリジニやニュージーランドのマオリとの交流も出てきています。

サーメの人々には日本人によく似ている人もいます。黒髪の東洋人という感じです。アイヌの人達ともよく似ています。地球の「上のほう」、つまり北極圏のサーメやイヌイットやアイヌやカナダ・インデアンは、ほんとうはもともとひとつの種族だったのでは、という考えもあるようです。

アイヌの人々は自分たちのことを人間という意味のアイヌと呼んで、よそから来る不思議な文化を持った押し付けがましい人たちをシャモ(主として日本人)とよび、それ以外の万物をカムイとよびます。すべての存在が「神」なのです。タバコ一本吸うにも火の神様に挨拶し、いろりの神様に挨拶して、万物への祈りとしてタバコを吸います。動物もすべて神です。だから動物が歌った歌を集めたものは「神謡集」といって本になっています。そういうあらゆるものが神という意識状態をアニミズムといったりします。西洋の人は自分たちの一神教が一番すぐれた神だと思っているので、こういうのは原始宗教だと表現します。しかしそうでしょうか。どちらが遅れている進んでいるということではなく、自分が作り上げた幻影を神と思っている宗教と、自然のすべてを神と思っている宗教のふたつがあるということにすぎないのではないでしょうか。そして前者の方が思い込みが強いので、神の名のもとに悪い奴をこらしめるんだといって遠い他国まで戦争をしにいったり、いつのまにか普遍的な神を普遍的な貨幣や金融商品に置き換えて世界中をせいあつしようとしたり、余計なことをする人たちを生み出してしまったのではないでしょうか。国を作ったり軍隊を作ったりすることを考えもしなかったたくさんの民族のやり方のほうが、自然や他の人々とうまくやってきたし、これからもそうなのではないでしょうか。そうした様々な意味で、世界中の人々が先住民という名前の「弱いけれど、一番本質的な生き方をしてきた人たち」に学ばないといけないのではないでしょうか。
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妖精たちとムーミン

2014年1月22日(水)

  



インターネットに「ムーミンはトントではない」というページがあります。間違っている人が多くて、国際的に恥ずかしい、と厳密に定義しなおしています。「家を守るトント」とかサンタクロースを助ける「クリスマスのトント」が一番一般的で、人間のためになるよいトントというかんじです。ペイッコには「山で住んでいると信じられている想像上の恐ろしい生き物」なのですが、辞書にも「現在では、毛むくじゃらで尻尾の生えた(しばしば、可愛らしい)童話に登場する生き物についてもいう」とわざわざ付け加えられているということです。もしかしたらペイッコ=トロールが恐ろしい存在というのはキリスト教の宣教師がひろめたデマかもしれず、それを劇的に意味転換させるためにヤンソンがあえてペイッコを主人公にし...た魅力的な形象を作り出したということなのかもしれません。ペイッコは「不況のペイッコ」とか「右傾化のペイッコ」とか使われるようで、また人がよくて間抜けな運転をしていると「トントな運転をする」といわれてしまうようです。

以前C・W・ニコルさんと代々木の森を歩きながら対談した時に、森に小人がいる民族はまだ森と生きた関係を結んでいるということを話し合いました。日本ではもうほぼ絶滅状態ですが、東北から北海道の森にはコロボックルがいました。奄美諸島にはケンムン、沖縄にはキジナ―がいました。ニコルさんはケルトの伝統を引く森の住人ですが、中西部ヨーロッパで妖精に出会うのはすでになかなか困難です。

フィンランドでは、アンケートをとればほぼ全員がトントは存在すると信じています。トントの姿を見たことはないがサウナやトイレで「トントの足音を聞いたことがある」という人はかなりの比率になります。森林省も、トントは存在するという立場から森の開発計画を策定したりしています。まれに、霊格の高い人はトントや各種の存在が見えて、津村がフィンランドに行くたびに会いに行くのが楽しみだったタピオ・カイタハルユはトントやペイッコといつも言葉を交わしていた人で、それについての本を何冊も残しました(残念ながら読めないし翻訳も手でいないけれど)。

つまりほとんどのフィンランド人は、フィンランドの森は人間と普通の動物たちで使っているわけではなく、さまざまな妖精たちと棲み分けていると思っているのです。そうすると、いわばいつも彼らに見られているわけですから、神に見られているというキリスト教文化とはまた異質の自己抑制が生ずるのは当然です。サウナに入っていたらおしっこをしたくなることはよくありますが、彼らは洗い場でおしっこをするとトントに叱られると思っていて、面倒でもトイレに行くか、外で立小便(これは田舎暮らしではまったく罪悪感がない)をします。家や納戸のくらがりにはトントがいるのは当然と思っています。

クリスマスというのも、もともと冬至の祭りのことでした。冬至のイヴにポリッジ(からす麦の粥)を玄関の外に出しておくのですが、それを食べに来てくれたら来年も無事に過ごせるという占いのようなことをしたのです。天河神社でたらいの水に鬼が来たしるしの泥が入っていたらいいという神事がありますが、よく似ています。あとからこの冬至の儀式の上にキリスト教の儀式がかぶさってきたのです。フィンランドの教会はルーテル派で、ラップランドの隅々までも教会がありますが、伝道者たちにとって最大の脅威はペイッコやトントでした。

フィンランドではどこでも、トント信仰は当たり前のこととして続いてきましたが、さまざまなペイッコやエンティアネン、ハルティア、ムルクについては、ラップランドに近づくほど濃厚に精神文化として残り、ラップランド特有のトナカイの毛を使った土産物の姿になって今でも飾られています。
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