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気功とは何か |
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2015年5月15日
これは2010年段階の提案である。もう少し状況は進んでいるが、基本的な枠組みは変わらない。
ある流派に属してからでないと気功の常識が持てないというのではなく、どこの流派に入るにも役立つ「共通入門領域」というものがあって、誰でもそれを最初に学ぶという風になっていれば、その共通入門領域にいる間に、自分に必要な気功体系を探すことができる。それを各流派から智慧を出し合って形成して行く必要がある。流派に属さない気功指導者も自分の学習経験と指導経験に照らして、この入門段階の内容についてしっかりとした考えを持つ必要がある。
入門段階で必要な情報内し体験とは
1. 基礎身法、基礎息法、基礎心法を身につける
2. 浅いレベルにせよ入静の体験
3. さまざまな功法を見分ける基本的パターンの知識
4. 自分の体質を知るための最小限の中医診断学の基礎理論
5. 功法という作品を「演奏」する楽しみを知り、まずひとつかふたつお好みの功法を以て毎日のように親しんでみる
といったところだろう。これによって「築基」できた人は気功の世界で大幅な自由度を獲得することが出来、ずっと続けて行く基礎条件ができる。そこまで行かないでやめてしまう人が多いのは残念なことである。指導者は気功の入門段階の全貌を入門者に伝えて、ここまでやれば自分で道を選んで行くことができると明確に伝える必要がある。
いまの段階で具体的には
■繰り返し運動を中心にしたリラックスと浅い入静、気持ちよくなる訓練
■グルーミングによって自分と仲良くなる訓練
■健身気功のうち少なくとも一つを味わう
■伝統気功からいくつかを体験して「当面のお気に入り」を決める。
■すこしずつ背景となる中医学の知識、思考方法を学ぶ。
[2015年段階の注。共通入門領域を作ろうというよびかけは北京で開かれた会議でも繰り返し主張したし、日本でも各方面に提案したが、ほとんど興味と関心を引き起さなかった。それで背骨ゆらし、スワイショウ、グルーミング、站椿、リラクセーションの5つを選んでこれを基本技法として普及することを始めた。上記の内容に加えて5つの基本技法をプラスしたものが現在私が共通入門領域として提案しているものである]HOMEに返る
2015年5月15日
「不信の停止」という考え方をしっかりと確立する
気功の学習過程での混乱を避けるためにもっとも大切なことは、「信」の問題を正しく解決することである。なぜなら、上記のような気功偏差は無自覚に気功指導者を信ずることに由来するからである。
気功指導者をあなたは信じているのか。それとも信ずるのは嫌で精神的自立を保ちたいのか。安易に信ずるとどこに連れて行かれるかわからない。信じないと自分がもう知っていること以上の体験は出来ないかも知れない。どうしたらいいのか。
たとえば郭林新気功では「三心を樹立しないと気功の効果はない」という。三心とは、「信心、決心、恒心」である。この気功を信じ、やるぞと決心し、それをずっと保てないようでは気功でガンを治すことは出来ないという。それは当然のことである。しかし治す前にどうやって信じたらいいのだろうか。その場合信ずるとは何か。妄信した者にだけ救いがあるのか。
フランスの古典演劇の理論に「不信の停止」という言葉がある。それは舞台を見る時の観客の姿勢についての言葉である。舞台の上で起っていることが「うそ」であり、「絵空事」であることはわかっている。しかし「あれはうそだよ」と行っているだけなら、わざわざ入場料を払って見に来た意味がない。舞台で起っていることを「仮に本当としてみる」と自分はその仮構現実の中に入り込み、ふだんの自分にない悲劇的な体験をしたり、英雄的な体験をしたりできる。その意識の切り替えを「不信の停止」と表現する。それは信じているのでもなく、信じていないのでもな死に、ただ一時的に理性的批判をていししてみるのである。そうすると体験が始まる。批評だけしている人は決して何事も体験できずに生涯を終えて行くのだ。
肝腎な点は、その「舞台」での体験からまた「我に返って」いまのがどんな体験だったのかを振り返ることである。その時もまだ酔っているとしたら、映画の帰り道で作中人物になっている気がして事件を起こすようなものである。
映画が伝わって来たばかりの時には列車が走ってくると総立ちになって逃げたり、殺人を止めようとして舞台に駆け上がる人もいた。つまり「収功」をしていないのである。収功は「夢の終わり」である。むろんその「夢とも言える、夢でないとも言える」体験は日常の中にも生き続けるが、位相が変わっている。気功をしている時に日常性を持ち込んでたら練功にならないし、練功が終わってから夢見心地では危険な状態である。HOMEに返る
2015年5月14日
精神的依存をともなわない気功の普及について(マインドコントロール)
気功の偏差(副作用)はさまざまだが、初心者の場合、一般的に言えば、指導者から受ける偏差が最大のものである。それは、気功態ではヨロイを脱いで無防備になるために、指導者への一体化が起りやすいということだ。心理学では分析家とクライアントの間に特殊なつながりの感情ができることをラポールと呼んでいるが、異性同士の場合それは容易に偽りの恋愛感情に転化しやすく、そうした危険を自覚することが指導者になる最低条件のひとつである。同性であっても事情は変わらない。気功教室の場合、指導者が小さな「お山の大将」になり、自分の言うことは何でも信ずるように仕向け、できるだけ他の指導者にふれさせないようにする。中国の先生が来ても「きみはまだ本物を習うにはちょっと早いかもね」と、自分が習いに行って自分を通じて情報を伝える図式を変えたがらない。ほかの指導者のところに行っていることがわかれば正面から嫌みを言われない場合でもなんとなく溝が出来て居づらくなる。とにかく自分から気功を習う人を支配したいのである。
これは意識的にそうしている場合もあるが、まったく無意識に絶えず依存を深める操作をしている場合もあり、このほうがさらに始末に負えない。
無防備になった気功状態の空間で精神的に人を支配することは一種の快感があり、また支配される方も快感がある。継続的な気功教室でなく、治療の場でも同様のことは起こりうる。指導者は「自分がただ気功という技術を伝えているのに、新興宗教の教主のように自分を神秘化したり依存を生み出そうとしていないか」ということをたえずセルフチェックすべきである。支配する以外に顧客を長続きさせる方法はあるはずだし、小さな権力を振るわなくても人生の喜びはあるはずである。また気功を習う者も、「自分がいつしか気功を学ぶことを通じて依存心を育て、支配されることが快感になっていないだろうか」と振り返ってみるべきである。HOMEに返る
2015年5月14日
古典研究なしに気功の質的発展はない
『中医気功学』では、「気功は古典哲学思想の指導のもとに、調身、調息、調心を一体とした操作を内容として、人体の潜在能力を開発することを目的とした心身鍛錬の技能である」と定義されている。気という概念自体が「古典哲学思想」の産物であるから古典哲学に導かれているのは当然のことだが、一般には日本で気功を学びまた教える者には、この方面の研究が著しく立ち後れている。そのことが、日本で行なわれている気功の大部分がなかなか入門段階から抜け出していかない原因のひとつになっている。
こうした古典には、直接気功の源流にかかわる老子、荘子だけでなく、その関連と差異を正しくつかむために、孔子や孟子、荀子、管子あるいは墨子などの諸子百家の思想、黄帝内経、養性延命録、備急千金要方、諸病源候論などの医学思想、気功全般と初期の内丹仙術の総合ガイドというべき抱朴子、存思系気功の源となる黄庭経、内丹気功を確立した周易参同契、悟真篇と鐘呂伝導集、霊宝畢宝、そして仏教気功の基本文献であり三調などの方法を整理確立した天台小止観などの古典文献は、少し学んでみればすぐに自分の気功と気功理解の質的向上に役立つことがわかる。そしてある意味では、気功を学ぶからには生涯にわたって学んで行くべきものである。
気功がこうした思想の系統的な蓄積の上に成り立っていることを軽視すべきではない。日本の気功を発展させるには、こうした古典分野と現代の科学的研究を結びつけ、また文献研究と心身の経験を結びつけて行かねばならない。HOMEに返る
2015年5月14日
「くりかえし運動」は日本の気功界が見いだした宝物である
気功の入門段階の功法はさまざまあるが、単調な繰り返しの運動にまさるものはない。
ある坐禅の指導者は「一万人に一人が脱落せずに目的に到達できる」と書いているが、それでは道元の言う「脱落心身」どころか「脱落禅道」である。大部分の人を導くことのできる入門システムがないということを意味している。ただ坐って入静に達することができるには、ていねいなガイドとカウンセリングが必要だが、坐禅にはそれが欠けている面がある。
太極拳やそれに類する複雑な動作をもった動功は、気功入静に近づくという意味ではやはり回り道である。
覚えるまでもない単純な動作を繰り返して行くという方法が、比較的初心者の段階からまず浅い入静に接近でき、次第に入静の質を深めて行き、ほかのタイプの気功でも次第に入静に近づくことの出来る最善の方法である。
日本の気功の伝統の中では、立ってやる場合の「スワイショウ」と坐ってやる「背骨ゆらし」がその最も代表的なものである。背骨ゆらしの起源は「臨在の七支坐」でもともと坐禅のサポートとして生まれたものである。また初心者に入静に近づく体験をしてもらうには発声気功の効果は大きい。站椿功でも、適当に変化しながらやれば坐禅よりずっと浅い入静に接近しやすい。浅い入静でなどの気功の一般の体操とは違う深い快感と、そこから来る心身への効果をできるだけ早い時期にある程度体験してもらうことが、その人が気功の道を歩んで行こうと決心させるきっかけになるとすれば、そのための場を提供しないのは不親切というものである。中国の各流派でも単純な繰り返しを重視している所はないわけではないが、一般にスワイショウなどの簡単な方法は軽視され、質の高い気功ではないと誤解されている。HOMEに返る
2015年5月14日
気功の定義をしてみると。
世間の気功治療というのは80年代90年代の気功ブームの時に流行したもので、大量の素人がまねをして稼いだ。気は見えないので、パフォーマンスの能力だけが問題だったのだ。中国では医師でない人が「気功治療」をすることを厳重に取締り、その結果ニセ気功師たちは米国や日本に亡命して新たな市場を開拓した。日本で中国整体などと言って開業している人の中で本当に実力のある人はごくわずかである。
中国の医師たちも外気についてはまだ研究段階と見なしており、各地に研究会があるだけで、営業に使っている人はほとんど見かけない。
気功
言葉の意味としては「気のトレーニング」の意味である。功という言葉は気についての体験を積み重ねて行くことを意味する。それは習えば出来るというものではなく、長い時間をかけて自ら体得するというニュアンスを含んでいる。気功は自分で学び、自分で納得していくもので、医師や気功師にやってもらって、自分は何もしないというものではない。鍼や灸と同様に専門家に「施術」してもらうというのは、心身障害者や心神喪失者または赤ん坊の場合だけで、すべての気功は自分がするものであり、せいぜい医師や気功指導者は手伝うことが出来るだけである。自ら気功状態になるためには、姿勢を調え、呼吸を調え、心を調えるという三つのことを一致させなければならない。そうしてこそ脳の潜在力が発揮されてくる。気功の目的は脳の潜在力を解放し実現させて行くことで、その目的のための心身鍛錬技術を習得する。それを病気治療や保健体育、あるいはスポーツや芸術に息して行くというのは気功の応用で、気功の目的はその前提としての脳の使い方を日常と切り替えることだけである。HOMEに返る
2014年9月15日
還精補脳という内丹学の用語をご存じだろうか。
内丹学は気功の五大部門である「導引」「行気」「静功」「存思」「内丹」のひとつで、気功をする人の中でもとてもマイナーな流派である。ところが、実際にやれる人は少ないのに、書物だけは導引に匹敵するほどの本が出され、論議のみが空中でやられてきたところがある。
還精補脳というのも、文字通りには「セックスエナジーを質的に転換して脳で使えるようにする」意味である。そんなことができるのだろうか。老化は脳細胞の退化・死滅が進むことである。脳には新しい脳神経細胞を作っていく力があることが1980年代から論議され始めた。その速度が脳細胞の退化を上回れば、人はずっと老化しない。しかし生理的にはむろん限界がある。仙学では、本当に仙人になった人は死体も残らず、二度と現世の人間と交流しないことになっているので、誰も生きたままでそれを確かめられる人はいない。だが脳神経細胞の新たな成長を促進して老化に抵抗することは、ある程度はできそうだ。
わたしが辞典に書いたことをここに部分公開する。これも辞典を買ってもらいたいからである。
「内丹学の術語。腎間の動気が発動した後、気を下の鵲橋に引き、督脈に沿って上丹田に上げる。古代の丹家は下鵲橋の真気を元精の場所と見なしていた。黄庭外景経の梁丘子の注に「還精補脳は不老の道である」とかかれている」というのが『中国伝統気功学詞典』の説明だが、この説明自体たくさんの注釈がいる。」
「腎間の動気というのは、内丹では最初にへその奥の気を命門(臍の裏)にひき寄せて前後に動く自発動を誘導するのだが、これを腎間の動気という。だからこれは腎間の動気が出てこないうちはできないことなのである。
鵲橋は牽牛織女を通して年に一度逢瀬を保証してくれるものなのだが、転じて「めったに通じないもの」の譬えとなり、ここでは背中を走る督脈と前側を通る任脈がつながって通るかどうかが問題になっている。鵲橋には上と下の二つがあり、上あごと舌先が上の鵲橋、会陰と肛門の長強の間が下の鵲橋とされる。古代の内丹の研究者はこの会陰と長強の間を真気、つまり経絡の気より深い場所を流れる気のひとつのセンターと見なしていて、ここに元精、つまり生まれる前から保持されている精気蓄積されていると考えた。このエネルギーを督脈に沿って上丹田に引き上げることを課題とすることで、脳の老化を防げるように新しい脳神経細胞を育てられると直感していた。上丹田とは両目の奥の祖竅である。
古代の練功家たちは「本来蓄えられている父母の性的エネルギーが脳神経細胞を積極的に補ってくれるときに、老化を大幅に遅らせることができる」と考えてそれを具体化しようとしたのである。」
これは『気功を始めるにあたっての基本データ』に入っている。800円。九月中に注文すると720円で国内は送料はいらない。基本データにしては難しいんじゃないの、と言われそうだが、中途半端な理解が流通するのを防ぎたいことがある。要するにこれは「腎間の動気が動く訓練を受けた人の課題である」ということなのだ。HOMEに返る
2014年3月11日
2014年2月8日
亀蛇気功をほとんど静功としてやってみる
というのが幸村さんに受けていたようなので、その話を少し書きます。
亀蛇気功は天津中医薬大学の周稔豊先生の主な功法の一つです。
亀のまねをするというのは、気功にとって一番の始まり、最初の行為です。
歴史的にも、それは5500年前の青海省から出土した壺に描かれていて、しゃがんで顎を突き出して、息を吸っています。男性と女性の両方の性器が描いてあって、お乳もあります。男女両性具有の人が亀のまねをしています。これが今のところ一番古い気功の記述です。
おなかを圧迫しながら息を吐いて行って、これで骨盤内の血液を入れ替えます。あごを前に出して上がってくることで、後頭部を圧迫し、それを急にゆるめることで、後頭部、視床下部の血液を増量します。骨盤の中というのは、ヒトにとって最も根源的な場所で、生命の泉につながります。視床下部は爬虫類の脳と言われ、事実両生類から進化し...て地球の水系から独立した時に形成された脳で、闘争・逃走本能と深く関わり快・不快の中枢神経に関わっています。
気功はさまざまな瞑想法とともに、前頭葉の休止を主題にしていますが、一般の瞑想と違って、前頭葉の血液を視床下部に送ったり、大脳基底核に送ったりします。視床下部を活性化するのが亀蛇系統の爬虫類の気功であり、大脳基底核を活性化するのが五禽戯などの動物気功です。鳥の気功は小脳を活性化します。
亀蛇気功は静功から始まって、静功に終わります。その間に、蛇の系統の運動と、亀の系統の運動が入ります。蛇の運動は背骨を左右に揺らしたり、前後に揺らしたり、回転させたりひねったりします。背骨を蛇に見立てているのですが、
背骨は中枢神経の入れ物ですから、それをほぐすことで「脳とハラ」がつながりなおします。まず背骨を波打たせることになれなければなりませんが、なれてきたら運動としてはごく小さなものにしていって、髄液を通すことに主眼を置きます。そのあとに「霊亀戯水」と「神亀服気」の二つの静かな運動があります。霊亀戯水は空気中を泳ぐようにして体のまわりの気を確かめていきます。神亀服気が5500年前からの呼吸法の本体で、ゆったりと呼吸をしながら骨盤と視床下部を活性化していきます。上達につれて、全体が静功に近づいていきます。
気功の歴史の始まりに帰ることは、私の心身の根源に帰ることでもあります。この青海省から四川省にかけて、揚子江の源流のひとつである岷江が流れていますが、その成都の少し北の部分に「鱉(すっぽん)」を王の名前とする王朝が紀元前1600年から前1250年ころまで続きました。これも亀の呼吸と関係があるようです。実際に亀すっぽんは呼吸が長いことで古代人の尊敬を得ていたようなのです。
気功の大きなテーマは「時間遡行」です。
脳と体の中にはたくさんの過去が蓄積しています。適当な階段を作れば、そこに降りていくことができます。これはフロイト・ユングのテーマとも重なります。仏教気功には、意識を「識神」と「元神」に分ける考えがあり、これは最も早い無意識の理論とされています。「識神」のほうが自覚できる自意識のことであり、「元神」はそれを超える「もうひとりの私」です。これは天台小止観の具体的な瞑想法の中でも使われており、「瞑想を体験する私」と「それを遠くから見守っている私」に分離することで、意識を安定させるのです。
易筋経の中には「農作業をまねる」という動作だけでできたものがあります。農民が家に帰ってから農作業の前のついた体操をやるかというと、もちろんそれはないので、農作業から脱け出して都会に来た若者が、お父ちゃんの年になってきたら体のあちこちにガタが来たな、お父ちゃんの動作だけで...もまねようか、として生まれたものに違いありません。それは「都市から農村への時間遡行」の行為です。
気功の中には、老人が意識的に子どもをまねるものがたくさんあります。還童功、童子功の類です。極点まで行くと「胎息」があります。生まれてくる前にもどって肺呼吸でなく丹田呼吸をしようというのです。これはイメージの問題ですが、とくに道教は、人間はもともとまっさらな鏡なのに生長するにつれて汚れて真実を映さなくなる、それを磨かなければならないという考えがあります。これは人は加齢とともに成熟するという儒教の正反対の考えです。これも「大人から子供へ、赤ちゃんへの時間遡行」といえましょう。
そして動物になる五禽戯、鳥になる大雁功や鶴翔庄、爬虫類になる亀蛇気功などが、人類が人類以前をまねることで再活性化しようとする気功の例です。これは「人類から動植物への時間遡行」と言えるでしょう。
ただ都会人である、大人である、あるいは人間であるというのは見かけにすぎません。私たちのおなかには、腔腸動物であったころの最初の脳(内臓神経節)がまだ残って機能しています。それ以後の各時代の脳もどれひとつ廃物になってはいず、神経節や内分泌器官として残っています。その全部を使っていきたいというのが気功です。ちなみに中国古代の言葉では内臓神経節(最初の脳)のことを丹田と呼んでいます。HOMEに返る
2014年2月11日
88年8月6日 朝刊
クオピオに来た気功というエナジー訓練の指導者である津村喬はこ言いっている。脳の異常な使い方をやめないといけない。その余計な働きをセーブして、使っていないところをバランスよく使うようにする。そうすれば生命のエナジーを高めることができる。なぜなら、結局すべての存在はエナジーなのだから。気功は5000年以上前からの中国の生活術、人生のアートである。そこには身体運動、瞑想、哲学が一体のものとして含まれている。こういう東洋的な英知は、西洋人のきつすぎる某氏の頭(硬い考えのこと)にうまく入っていくものだうか。こういう静寂のレッスンは、時計ばかり見てがんばって仕事している日常になれた忍に受けいれられるのだろうか。 気は空虚な器を満たすか--気功は頭でっちの文化をゆるがす
この記事で伝えたいことを書いたり、読んだりというのは実際むずかしい。書いたり読んだりすると、目と脳みそばかり働かせるようになって、それは気功でやりたいことと違うからだ。私たち西洋人は縛られたリミットの中で生きている。ひたすら頭で考え、目に見える世界にばかりとらわれている。そういうところで気功について話すのは、どうも難しい。 日本からくおぴおに来た津村喬はこういっている。 --木のまねをしてみたらどうだろう。自分の足の下から根が生えていくように思い、手が枝を張るように軽くなって、心がからっぽのいれもののになるとと 、そこにエナジーが入ってくる。こうしていると心が余計な動きをしないようになってくるでしょう。気功は頭だけでなく、心とからだ全体ではじめて理解することができる。 気功の教えは初めから終わりまで、ホントカナと首をかしげたくなるようなところがある。5000年来の中国の人生哲学がこんな短い時間に頭にしっかり入るのは無理だろう。しかし、やっているうちに、私はめったにない気分に誘われていった。暖炉のリビングファイアをじっと見つめているような感じ、なんとなくエナジーが流れて調和していくのがわかるような気持ちになっていた。なるほど話を聞いて頭でわかろうとしてもだめに違いない。HOMEに返る
2014年2月11日
気はエナジー、功はトレーニングのことで、気功はエナジーのトレーニングということなる。津村先生はこう言っている。 --気功は人間のエナジーをアップすることができる。毎日の生活の中でそれを使いこなすことができる。人間にはたくさんの無駄なことがある。たとえば脳の゛対部分をうまく使っていないし、肺もうまく呼吸に参加していない。 それは皆知っている。盲腸もムダだし、やせたい人は自分のムダな部分をよく知っている。いや、いけない、どうもジョーシキ的な反応をしてしまう。津村先生は言う。 --人間を可能性のフィールドとして見なければいけない。気功の中ではからだの中に無数の心臓があるとしている。気功は人間をムダなことから解放する。たとえば脳にムダな働きをやめさせ、心の使いすぎをやめて、もっと大切なことを見つけようということだ。 気功は心の哲学だけでなく、からだのトレーニングでもある。西洋では気功よりやや広く知られているタイチ(太極拳)は気功のひとつである。タイチは気功を武術に応用したひとつだ。気功の世界はもっと広い。動くものも動かないものもある。気候には2000種類以上の流派がある。気功は瞑想、哲学、医学などさまざまな分野に関係がある。タイチは気功よりやさしい面がある。動きができれば大体できたともいえるからだ。 HOMEに返る
2014年-月--日
フィンランドでは昔からわからないことをキーナライネン(中国式)というけれど、気功の人間観と世界観はちょっと聞いたところでははなはだキーナライネンである。だが、アインシュタインのいう物質とエネルギーの相互転化ということも、気功と通ずる考えのようだ。すべてをエナジーとして見るのだ。結局私もあなたもこのテーブルも、エナジーの塊で、何もかもそうだ。 気功を練習すると、人間と環境の調和が出てくる。森に行って森のエナジーフィールドに入ると、それと一体になることができる。 想像するというのは気功のひとつの大きなテーマである。それは人間と環境を一体のものとして動きや形の中で真似ていくのである。運動はただからだのかたちだけがもくてきではなく、それをこえてエナジーを理解することが大切である。環境のエナジーと自分のエナジーの関係を見出すことが大事なのだ。 津村先生は湖のそばに立って深い呼吸をし、いままさにはじめようとしている表演にそなえている。太陽が沈もうとし、その上に雨雲がある。私もこのようにして湖の前に立っていると、からっぽになってエナジーに満たされていくだろう。HOMEに返る
2014年-月--日
お父さんが病気になって津村先生は中国に行った。そこでは中国と西洋の医学を結びつけて病気を診ていた。そこにはひとつの治療法として太極拳があった。東洋医学の考え方として、人間の病気治療・健康回復は医者にとっての問題だけでなく、患者自身が精神的に治っていかないとだめだという考えがあったのである。 津村先生のとても大切な最初のレッスンは道教的なものだった。「何もしないこと」を勉強するのはたいへん難しかった。心の断食、つまりインフォメーションを遮断してしまうレッスンがそこに含まれていた。知恵がありすぎてもよくない。 まったくそうだ、と私も思った。私もこの静寂のレッスンを私のボスに勧めようか、ムム、やめておこう。 津村先生は自分がどうやって気功に出会ったかを話していたのだった。 ---中国では、文化大革命で気功はダメージを受け、また70年代から少しずつ回復した。いろいろ理想はあったかも知れないが、自分たちの伝統文化を破壊するのは間違いだったと思う。 私も彼の話と一緒に心を日本と中国の間にさまよわせた。気功は日本にしても新しいことではなく、2000年以上の歴史があるらしい。津村先生はいま日本の気功を代表する指導者の一人である。 「どこの国にも、その国の文化の中での気功がある」と津村先生は言う。私は何もいえない。私はコトバと道具の文化の子供であり、自分の世界をただ自分の小さな頭に縛り付けている。ム何も言えない。ただ暖炉の揺らいでいる炎を見て静かにしてみるしかないだろう。HOMEに返る
2014年-月--日
日本で一番早く中国気功の各流派を学び、体系的に伝えて来たのが津村喬でした。一番最初のやさしいことから、これまで日本では誰もやっていなかった内丹・存思まで全体系として伝えているのは気功文化研究所だけです。 気功文化研究所で行って行く内容
気功とは、この全体の道をたどって行くプロセスです。日本で基本技法だけしている、あるいは導引をしている団体は多いのですが、この七つのステップを体験できるのは気功文化研究所だけです。ひとりひとりの課題に合わせて、適切なガイダンスをしていきます。もっとも易しく最初の基礎をつくるのによい健身気功も教えています。日本健身気功協会の教室の紹介もできます。HOMEに返る