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2016.07デザインYorkものがたり

2016年7月5日 15:11

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昨日フィンランドから戻りました

昨日フィンランドから戻りました。

あとで詳しく申し上げますが、すっかり体調をくずしての帰国でした。

この冬からフィンランドでガンの患者から相談があり、二回にわたって抗ガン気功の講座を開き、十数人ずつが参加しました。帰国してから東京の方がガン治療は大問題のはずとよびかけて、王子の場を借りて郭林気功の研究をしようと考えました。王子には二人の末期がんの患者さんが来られました。一人はどんどんやせ細り腹水だけがたまっておなかがふくれあがりながら、なんとかやり残した仕事を仕上げたいと考えつつ、東京の郭林気功の会に通っておられる方です。もうひとりは福島の子供たちに甲状腺のガンがどんどん増えていることを支援しようと活動するうちにご自分がガンになってしまった方で、四月に一度見えましたがいまは自宅からでられなくなっている方です。会員の中でも一人すでに五十代の女性が亡くなりました。まだ頑張っておられる方にはメールで励ましたり関連資料を流したりしています。抗ガン気功のDVDをとりあえず二本作りました。おいおいこれを12本まで増やして、いろいろなガンに対応できる様にして行こうという考えです。 その中で、イギリスのヨークに住む日本人女性が、医師からいきなり腹膜のガンと言われて、もう見つかった時はてのほどこしようはない、手術はできないのでそのまま死を待つだけと言われました。見つかった時は四月で、あと二ヶ月の命といわれたのです。以前から私のFacebookを読んだりしていたので、なんとか方法はないかと相談がありました。私はメールで色々とアドバイスするうち、近くヘルシンキに行くので、ヨークまで飛べない事はないが会いに行きましょうかと相談して、来てくださいという事になりました。六月の初めのエストニア講習を終えてから、カウコがガードマンの指導のバイトが入っているので、四日間空いていました。その時にマンチェスターに飛んで、車で二時間のヨークに行く事にしました。その時はまだ自宅で療養していました。腹水がたまって妊娠中のようなお腹をしていて、手足は枯れ木のようですが、足は四五倍にむくんでいました。しかし意識は非常にはっきりしていて、私のFacebookを4年前の始まりまで全部読んだので、私の事は知らない事がなく、こちらが忘れたような事もいろいろ思い出させてくれるほどでした。 彼女はぼくより少し若いくらいなのでしょうか、18年前に京大にいたロシア人の教授と結婚して、ペテルスプルク、フランスのリヨンなどに住み、ヨークの大学に職を得て落ち着きました。ご主人は大学を休んで献身的に看病していました。そこで一日六時間、頭のマッサージと大腸に気を送る事と、むくんだ足をなんとかするためのリンパマッサージとツボ刺激をしていきました。家でのマッサージと同じで一時間5000円。六時間やると三万円です。時には何時間もオーバーして、マッサージだけでなくいろいろ話をして、彼女に希望をもってもらうと同時に、死の準備というか、受入れるということを少しずつしてきました。 四日間フルにやって、なんとかまた来てほしいという話になりました。今回のフィンランドはもともと日本からの十数人のツァーを計画していたので、それが延期になってしまい、夏至の前後が十日近く空いていました。それでカウコと相談してもう九日間ヨークに行く事にしました。もともとカウコは加藤式整体でずっとガン治療をしてきたのでとても理解があります。今度は20日から30日まで行きました。行った翌日に自宅からホスピスに移りました。ホスピスでは下の世話から入浴まですべてしてくれ、おいしい食事となんどものおやつが出ますが、治療はいっさいしてくれません。中医学でもインドでもなんでもどうぞという感じだったので,一日最低六時間かよってマッサージとさまざまな対話を続けました。彼女にはよかったと思います。最後の日々を気功への希望をもって過ごせました。温熱治療やいろいろな方法を試そうとしていました。日本からこんにゃくや馬油も取り寄せました。患部を継続的に38.5度を超す状態を作れればガン細胞はかなり衰退します。ホスピスではこんにゃくのような得体のしれないものは使ってくれないので、備品の中の豆で温めるものを一日四交代で替えるようにしました。十日間一心不乱に治療するうちに、彼女は日々精神的な元気を取り戻して行きましたが、実はぼくの体がぼろぼろになってしまいました。血の小便がでるようになり、わけのわからない赤い物を吐きました。ほぼ完治していた足もまた傷口が開いて、出血し始めました。今度は両足で三カ所です。激痛があり、ロキソニンと同じものをこちらで買って飲みました。傷の痛みというより、あちこちに動くので神経的な物のようです。毎日午前二時から四時までが痛み止めをいくら飲んでも効かない。29日の明け方特に痛く、文字通り七転八倒してしまいましたが、この時間に彼女が一人でひっそり亡くなっていた事がわかりました。 葬式はもっとさきなので、顔も見る事ができず、その二日後に虚しくヘルシンキに帰りました。その明け方のような痛みはありませんでしたが、あとずっと足が痛い状態と吐いたり赤い小便が出たりというのは止まっていません。最後には「帰って欲しくない」というので夜までずっといたりしました。死の予感だったのでしょうか。彼女の死にたくないという叫びがあの晩の私の痛みだったのでしょうか。 その翌日にはヘルシンキで郭林気功入門のコースをして30人近くが集まりました。10月からは、二年間12回のコースをやることが決まっています。でもひとりひとりの生徒さんと向合うととてもつらい状態で、続けて行く事はできません。日本でも同様にガン患者さんと深い精神的結びつきを作ってしまいました。これからたくさんの患者さんと出会うとしたら、方法を替えて行かなければなりません。帰国したらまた何人か抗ガン気功の注文がありました。 彼女は膨大な日本語の本を残していて、その一割くらいは気功に関するものでした。ご亭主は読めませんし、捨てるしかありませんから、よかったらうちの本棚一つ開けて「ケイ文庫」(ケイという名前なのです)を作りましょうかと提案しました。整理をして船便で送ると言っていました。彼女が枕元から離さなかった気功ノート三冊ももらいました。なんと王盧生のことから王郷斎のことからいろいろ書いてありました。ぼくが大阪の講座で話した内容もどうして手に入れたのか、主要部分を書き取っていました。彼女とのメールのやりとりと、この三冊のノートとで気功文化を作ろうと思っています。 そういうわけで、彼女をきちんと葬らないと何も手につかないという状態です。一応のご報告まで。

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2016.07デザインYork追記①

2016年7月5日 16:19

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東京の放射能

ケイさんは去年の10月にひと月半東京に行った。

「なんのために?」
「主として食べるためよ。いろんなレストランや日本料理屋に行ったわ」
「危ないと思わなかったのですか。ぼくなら金を積まれてもしませんよ。むろん東京に二月一回行っても食事はしていますよ。でも檜原村では全部自分が用意した物をたべているし、王子では決まった店のかきあげ丼かかきあげそばを食べて帰ってくる。三日間いてもそれ以外は口にしないで帰ります」
「おいしくなかった。知っていた店がみんな駄目になっているので哀しかった」 「そんなことを確認するために東京に行ったのですか。原子炉の状態はご存知だったのでしょう」
「そういえばそうね。こちらでは日本で報道されなかった映像が毎日の様に公開されていたから、数ヶ月の間はそれを見続けたわ。そして東京はもうだめだと思っていた」
「原子炉そのものが崩壊して地下で燃え続けているのですよ。それをなんの手だてもしていない事を東電自身が最近になって認めたんです。それがますますひどくなっていることを。でも東京都民のほとんどは関心を持たなかった。最近は福島の海産物や農産品をロンドンでも売っているが、これは本当にひどい陰謀です。電通がやっているんですがね」
「東京に行って食べまくった事が発ガンにつながったとおっしゃるのね。私の中でつながっていなかった」

「それ以外考えられません。関東の人たちはもう4年もそういう状況に置かれてきて、ことし辺りから爆発的にガンが表に出てくるはずです。この地域は放射能を含む霧がずっと立ちこめていて、それをいつも吸っているのですから、部屋に閉じこもって防衛策を講じている人以外は発病して当然です。タレントでもガンで亡くなった人のリストが出されているけれども,それは氷山の一角だと思います」

帰国して六ヶ月目に腹痛がひどくなり、初めて医者に見せた。最初はガンだとは思わず、原因がはっきりしない痛みですねと言われていた。だがもっと地位の高い医師に見てもらうと、腹膜のガンで、大腸にも転移している、もう手術のしようはありません、と言われた。普通に歩いていたのが階段を昇れなくなり、ベッドに寝たきりになり、腹水が出てきて妊婦の様になった。一度抜いてもらったがすぐまた溜まってしまう。普通の体型を保つには週に二回何時間もかけて抜き続けないといけないとわかり、あきらめた。

「でもぼくも東京の人に、あるいは関東の人に、いちいち問いただしはしないんです。放射能の濃霧の中で暮らして活動しているというのはSFのような世界です。死ぬ事がわかっていて最善を尽くそうと思っている人もいれば、そういう警告はあえて無視する、言う人には腹を立てるという人も多い。別の所で生きようと選択する機会もたくさんあったはずですから、しかたないですね」
「私はそういう人の一部として、先触れとして死ぬのね。仕方ないわ。でも何年か早く津村さんに会っていれば」と彼女は言った。

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2016.07デザインYork追記②

2016年7月5日 23:11

写真07-5


ガンを温める

 

「郭林気功はメールでも書きましたが、ガンをすっかりなくす事は少なくて、それ以上進行しなくなるとか、一時活動をやめるとか、ということらしいのです。ガンが消滅した例もあるようですが、多くはなさそうです。それで実際にガンを縮小して行くには”温熱”がいいように思います」 「ガン細胞を温めるのですか」 「いろいろな手段で温めて、38.5度とか39度とかをキープすると、ガンが退縮することがあるのですね」 「お風呂とかあんかとかですか」 「そうなんですが、あなたはホスピスに来ているから、そういう温度を保持しての入浴は無理でしょう。私はこんにゃくがいいとおもっているんです。この間梅雲丹と馬油を頼んだ時にこんにゃくを一緒に送ってもらったので、明日か明後日着くのではないかと」 「こんにゃくは相談したのですが、西洋医学の常識の外にあるので、ここでは使えないと言われました。こんにゃくのどこがいいんですか」 「熱湯で10分ほど煮立てると何時間かかなりの高音を維持するので、それを三枚くらいのタオルにくるんでビニール袋に入れて、すこし冷めてきたらタオルを一枚はずして、というふうにやっていくとこの38.5度から41度くらいを保持できるのですね。腹と肝臓の上とか腎臓とか足裏とかを温めると効果的でそれは一般的な保健に役立つのですが、加えてガンの患部をしていくといいようです。こんにゃくはカイロとかと違って効果が深い所に届きやすいようです」 「退院できたらやってみますね。(夫に)冷凍庫に入れておいてね。たくさん送っていただいたみたいで津村さん要らないですか」 「じゃヘルシンキで紹介するために二丁ほど頂いて行きます」 「ここでは豆を入れた袋をレンジで温めてやっているようですよ」 「ああ、それもいいですね」 「さっそく頼みました。二つほどを一日四五回温めてもらって使っています。気持ちいいのですが、熱くて困る事もあります」 「それはタオルでくるんで調節すればいいのでは。温めて行く事には、赤外線治療器なども役立つと思います。日本での器械には簡単な数千円の物から数十万円の物まであってネットで調べられます。イギリスでは何を売っているのか調べてごらんになるといいと思います」 「ハイパーサーミアと呼ばれる温熱療法があるみたいですね」 「それは自分でやれる物でなく医師のやるものです。ここではやってもらえないので、そういうことができる病院を探さないと行けません。42.5度まで上げて行くので、二三時間、週三回程度までやれるみたいです。また41度程度の低い温熱をマイルドハイパーサーミアといって、放射線治療とか抗がん剤と組み合わせて使う場合が多いです。私は昔両親が生きている時に使っていた光線治療器での治療に期待しています。これはどうなんでしょう、イギリスにあるのか分かりませんが」 「とにかく、豆で温める事ですね」 「できたらずっと持続してやれたほうがいいのですが」 「気楽に温め直してくれるんですけど、あんまり何度もというとちょっ遠慮しちゃう所があるんです」 「だめですよ。生き延びるかどうかの瀬戸際で遠慮しないでください」 遠慮、やめます、といいながら、昼間二枚の豆袋が冷えてしまっているのが置いてある時もおおかった。どうしたら温め続けられるのかな・・・・・・・HOMEに返る

 

 



2016.07デザインYork追記③

2016年7月6日 0:25

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ケイさんは熊野の勝浦で生まれた

 

ケイさんは熊野の勝浦で生まれた。 熊野大社にお参り行く時には、勝浦の旅館を使い、そこでレンタカーを借りる事が普通だから、あの辺はよく知っている。彼女が育ったのは料理屋旅館で、ある時期不振になり、二人の娘は継ぐ気がなかったので、店を畳んで大手の浦島に売った。浦島ではいろいろな使い方を考えていたようだが、いまは従業員を住まわせている。浦島にも何度か泊まったことがある。海に面した露天風呂は有名だが、宣伝の方がすごくて実際入ってみると意外に迫力がない。 妹は高校から東京に出た。ケイさんのほうは大学から。立教に行った。 「親が関西の学校を嫌がって,なぜかしら、同志社とか行きたかったんですが。早稲田も受けましたけど入らなくて、立教に行きました」 「池袋ですね」 「そうです」 「ぼくも一時立教の講師をしていたんです。短い間でしたが。あれは新日本文学のからみなのかな。渡辺一民さんとか前田愛さんとかに呼ばれて行ったんです。渡辺さんの『フランス文壇史』とか前田さんの『幻景の明治』とか好きだったからお会いして嬉しかった。」 「そんなことがあったんですか。前田先生なつかしいです。私は英文科だったんです。でもじまんするわけじゃありませんけれども、英語もかなりいい線いってたんですが、国文学の試験で史上最高の点数といわれたことがあって」 「それはすごいですね」 「漢文もしたかったんです。父がなぜか駄目だといって。あのころは素直だったんですね。いまなら真っ先に反発して中国語や漢文をしたでしょうけど」 「卒論は何を」 「卒論の代わりにいくつかの科目で点数を取ればいいというのがあって書かなかったんです。英国で資格を取る時に英文のレポート二本出さなくちゃならなくて苦労しましたけど」 「じゃあ卒業後はどこへ」 「清里の清泉寮に行ったんです」 「えー、それはまた。清泉寮に雇用されてですか」 「立教の英文学の英国人の先生がいろいろと縁があったものですから。そのうちに英国に来る機会もできたんです」 「そうだったんですか。ぼくはあそこで清里エコロジーキャンプも参加したし、10年以上あそこを会場として気功キャンプをやってきたんです。川島直さんと一緒にやったり。清泉寮を会場としても何度も使いました」 「それは知りませんでした。イギリスに行ってた時期と重なっていたのかも」 「惜しい所で出会わなかったんですね。立教も清泉寮も。で、ご主人と出会われたのは」 「彼が京都大学の講師をしていたころです。その後モスクワやペテルスブルグ、フランスのリヨンなどで教えて、ヨークに縁ができて呼んでもらったのです」 「数学の専門家ですよね」 「私には内容はわからないんですが、イギリスではニュートンに始まる連綿たる科学者の賞があって、それを受領してロンドンにもらいに行きました。みんな名刺に書きたがるような賞なのですが、うちの主人は恥ずかしがって名刺をつくるどころじゃありません。ロンドン塔を見下ろせるホテルに招待してもらったのが忘れられません」 「でも学校休んでお世話してくれるのありがたいですね」 「もう召使いみたいに扱って悪いとは思っているのですが、ほかに頼る人もいないのでついずけずけと言ってしまいます」・・・・・・HOMEに返る

 



2016.07デザインYork追記④

2016年7月6日 1:14

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ケイさんの食べものへの関心はすごい

 

ケイさんの食べものへの関心はすごい。 もともと勝浦漁港のありとある海の資源で育った。東京の魚なんて、という。「築地で買って来たばかりでもひどい匂い。かつおなんてたたきにするのも惜しいと、生姜醤油だけでたべていたわ」そんな東京に食べ歩きをしにいかなければいい。 そういう素材のおいしさを味わえたのはリヨンね。ジビエ(野生動物)が豊富で野菜も信じがたく新鮮。パリが田舎町だった頃からメディチ家の宮廷料理を支えてきたのがリヨン。ボルドーのまっただなかでもある。モスクワやペテルスブルグの、かなりの食通が行くと思っているレストランのもうひとつ上にまったくメディアには紹介される事のないレストランがあつて、最高級の人が出入りしている。そういうレストランやカフェのケーキを体験できたので、それはフランス風のスタイルなのだけど、これは世界一ねというのを体験してきた。 でもそこまでいかなくとも、日本のロシアケーキもおいしいでしょ。伊勢佐木町に残っている店があるのですが。以前は新宿中村屋で作っていたのだけど、今も作っているのかな(今も六種類作っていてすべて128円+税。10個入り1380円+税で買える)。中村屋おいしかったね。 相馬夫妻が中国の亡命者をかくまえば月餅を教わって作れる様になるし、インドのチャンドラ・ボースからはヨーグルト入りのカシミール風「カリー」を習った。ロシアケーキは亡命していたロシア皇帝のお抱え製菓技師にならったのですな。 思い出だけがきらきら。今のケイさんは魚をもらっても三口ばかり。アイスクリームも二口くらいでおしまい。胃が受け付けない。でもここのホスビスは午前十時と午後三時と内容を替えて六種類くらいのデザートを持ってきてくれる。水とコーラだけが喉を通る。「コーラなんて生涯飲まなかったのに、変ね」 毎日私が前夜食べた物を報告させられる。今日はトルコ料理、今日はタイ料理、今日は四川料理、あるいはバリ料理、インド料理、広東料理。ホテルの近くにはイギリス料理のレストランは一軒もない。見舞いにきてくれたご亭主の上役に聞いても、おいしいのはイタリア料理ばかり。広東料理の店には中華食材のスーパーがある。そこで韓国海苔とか中国の焼酎とか「辛」めんとか酸梅湯とか買っていた。一軒だけフィッシュ・アンド・チップスの店に行ったが、ここはとてもまずかった。だめでしたね、と報告した。ケイさんが亡くなった日、行った中心街のフィッシュ・アンド・チップスは安くておいしかった。その夜、彼女がついおととい勧めてくれた香港居という所の特別炒飯を食べて、これはおいしかった。ケイさんの通夜代わりだった・・・・・・HOMEに返る

 

 



2016.07デザインYork追記⑤

2016年7月6日 8:48

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ケイさんはけっこう気功の勉強をしてきた

 

ケイさんはけっこう気功の勉強をしてきた。私にはその話はほとんどしなかった。ただ天野の気功協会の通信教育を受けた話はした。中健次郎の教室に日本で一度だけ参加した話もした。彼女は私と天野や中の関係をまったく知らなかった。「天野君は2000年まで関西気功協会で私の事務局長をしていました」というとびっくりした。 「似てる面もあると思いましたが、そういうことでしたか。でも彼は気功より整体の方に主な関心があるようでしたね」 「やってるのは禅密功だけじゃないですか。中君は観気旅行の間十年近く通訳をしてきたんです」 「あらそれもびっくりですね。津村気功の様に思えませんでした」 「中君の体系はぼくの影響を受けた物ではなく、まったく独自の物です。とくに中国のあれこれの老師をごちゃ混ぜに紹介しているだけでなく、サイババという手品師に本気で惚れてしまったので、もう無縁の人と思っています。サイババ暴露の本があれこれ出版されても考えは変わらないようですし」 その話はそこで終わった。 ケイさんが亡くなってから、エフゲーニーさんがケイさんのファイルをまとめてくれた。それは二冊あって、ひとつは「星ノ気功」と題され、もうひとつは天野の方の「気功生活」や禅密功などの宣伝、手書きのノートの断片などが含まれていた。 「星ノ気功」は星野真木さんという人のやっている通信教育だ。2008年に小林俊雄のところで気功をやり始め、2011年には施術を始めたというから、随分気が早い。「2012年中国人某気功大師より気功の伝授を受ける」とプロフィルにあるが、名前を言えない所が奥ゆかしい。初級・中級の教材を全部読んでみたが、間違った事はほぼ書いていない。だがあまりに簡単に語っている。誰でもある事だが、三丹田説と五丹田説の区別がついていず、三丹田説でも臍の奥の下丹田を「おへその下4?10センチの位置」と表現している。これは日本の一丹田説との混同である。私の背骨ゆらしを「揺道」といって取り上げているが,理論的にはまったく説明していない。 たんとう功は補法の代表的な功法と言っているが、もちろん補法のたんとうもあれば瀉法のたんとうもある。丹田は下丹田から鍛えると教科書にはある。ここにケイさんは書き込みをしている。 「ふつう気功をしていくとき、まず中丹田を開いて世界を抱きしめられるようになり、さらに下丹田を充実させて個としての生命力を増し、最後に上丹田を開いて観音力を養うというステップを踏みます」「下丹田から始める場合もありますが,最初に気持ちが大切な気がします。この最初の中丹田を開く部分が”青春を思う”なのです」「胸の気が通ってここから発する気がのびのびと広がる様になり、宇宙全体に恋をしたようになって、荘子が”物と春をなす(万物と一体になる)”と過激に表現した感覚がよくわかります」とあって(津村喬)とあります。こういう感覚は確かに星ノ気功に一番欠けている所かもしれない。 練成講座功法、練成講座経絡などがあとは続いている。ここはコメントはやめておく。二年か三年前からケイさんはこういうことを学んできたようだ。最後の「朝日に向かって」というのの日付がNov.2014となっている。気功の学校Selfのほうはまだ新しい。2016年6月までの『気功生活』が来ている。Selfのほうは五月から七月ということになっていて、まだ実質的には手をつけていなかったようだ。・・・・・・HOMEに返る

 

 



2016.07デザインYork追記⑥

2016年7月7日 3:26

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ケイさんが亡くなった二日後

 

ケイさんが亡くなった二日後、これからマンチェスターの空港に向かうという時に、彼女が残した三冊のノートを受け取った。小さな手帳サイズ、日本で言うB8サイズというのか、そのノートに練功心得、あるいは記録、練功日記のようなものが書かれていた。三冊を繰り返し読んでみて、三冊の順番を推測した。ネズミ色のノートはルフトハンザのビジネスクラスと表紙にある。それに書き出したので、文具店で同じサイズのノートをもう二冊揃えたみたいだ。これは一ページ目に「天人合一」の言葉が大きめに書いてあるので天人合一篇と呼ぶ事にする。クリーム色のものは最初の四分の一しか使っていないが、「静かに立って稽古するときには」という王?斎の言葉で始まるので、そう呼ぶことにする。ピンクのノートは津村喬の「声を出す気功は」で始まるので、それを名前にしよう。 ネズミ色 天人合一篇 クリーム色 静かに立って稽古を篇 ピンク色 声を出す気功篇 この中で天人合一篇だけが日付が入っている。それも間違って入っていて、3082016というのはまだ来ていないので、15年の8月3日からスタートしている。これ以前のノートがあったのか、まめな人だからおそらく似たような形で練功ノートを作っていたに違いないが、このノートでは16年の元旦で終わっている。残りの二冊のノートはどうもそのあとのものらしい。人の言葉を書き写しただけの物もあるが、すでに相当の水準から歩み出しているようだ。 「動くことでからだのまわりに立体的空間ができる。 続けることにより、微細で均せいのとれたエネルギーは増殖してゆく。 ここで人為は使わないこと。 安定しちみつになり増殖したエネルギーが余分なもの、不用なもの、妨げるもの、とどこおらせるものを自然に外に出ていかせる」 「これでspace 天人合一」 「立体的空間は私たちのまわりにもともとある。それが顕現してくる。uncover   そこが始まりの地点」 彼女は英国では絵画で学位をとった。中国の山川草木の記述を引いて 「草木などは葉がすーと長く自然の物の長さより長くのばしていて不自然でなく、むしろ気持ちよくのびやかで。 あー、気功ってこうやって実際の原寸よりも手がすーっと彼方に伸びて行くんだわねぇ。空間にからだの末端がのびのびとちょっと不自然になる手前くらいまで、のばすのねぇ。手の伸縮も自由自在。 仙人が杖もって雲の上、水の上、亀に乗って行く絵。あーこの感じで立つんだね。 タントウ功」 と自分の世界と練功で見出す世界をつきあわせて行く。 「この流れは気功を一年数ヶ月やってきたのでできたこと」と星ノ気功を振返る。「でもH気功でやったとき、なんであんなにドタバタやってしんどかったんだろう」「下北沢とヨークの気場の違い? イメージ満サイ過ぎ?」と批判している。下北沢は星ノ気功の本拠地のあるところ。 10月13日。「太陽のぼる前の薄明かりの庭でタントウ功。足の裏から地のエネルギー。弱。頭の真ん中に天のエネルギー。5、6分」「そのあと空見上げると金星(たぶん)がひときわ明るく光り放ち、他星よりひと、ふたまわり大きいので、それに向かって立つ」「金星と自分がつながっている。金星がひきとめる。もっとうけとってね、もっとあげるから。快感。宇宙とつながるって、こういうことかあ」 ツボに入れたりもしてみる。聴会、承扶、湧泉。「くつをeccoのブーツにかえる。安定よし」 10月の末にはご亭主も突き合わせる。 「夜にZhernya(ご主人の愛称)とスーパームーンみる。雲に覆われてそれらをつきぬけて光る月。あかるくてくっきり」 このへん、かつて学んだことがいろいろ出てくる。曹同禅、中健次郎に習った尚養中、王?生の古仙人法、梁蔭全などの方法。 11/24に「ちょっと、ひとやすみ」と書いている。あれこれ詰めてやりすぎた。 一月元旦。「申年なのでmonkey mindにならないように ゆるゆる行こう」 「第二の脳の腸が,呼吸 下腹で強くしないで、いきんで意念強くして練功しないでetcといってたんだね」 日記は終わっていて、少し空白があり、最終ページに樹木希林の言葉が写してある。 「死ぬ時ぐらい好きにさせてよ」という文章だ。 「人は必ず死ぬというのに/長生きばかり叶える技術ばかり進歩して/なんとまあ死ににくい時代になったことでしょう/死を疎むことなく、死を焦ることもなく/ひとつひとつの欲を手放して/身じまいをしていきたいとおもうのです/人は死ねば宇宙の塵芥/せめて美しく輝く塵になりたい/それが、私の最後の欲なのです」 一月の時点では、まだ自分のガンのことは知らなかった。だがこれを引き写した時は、もう間もなく終末が来ることを内心予期していたのだろうか・・・・・・HOMEに返る

 



2016.07デザインYork追記⑦

2016年7月7日 8:58

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静かに立って稽古篇

 

静かに立って稽古篇、つまりクリーム色のノートは王?斎の言葉で始まっている。 「静かに立って稽古するときは、 遠くからかすかに聞こえる雨音に 耳を傾けよ」 それに続いて自分の言葉で書いている。「没頭ではなく適当さと伸びやかさが必要」「集中、集約をしようとして行なうのは、何かをあえて見えなくしていると言ってもいいのかしれない。認識を捨てたとき、世界はその姿を現す」そして「人にできるのはcure ではなくてcareだけで、人が人を治すことはできない。本人が治るだけで、cureではなくcareに至るには権力を手放す必要がある」 一般的に疾病や怪我などの治療をcureといい精神的・霊的な面を含む介護・介助をcareというようだ。ケイさんは最後の日々にホスビスの側のcareの不在にいらだっていたようだ。そういう仕事をし続けている日本人のお坊さんがいるのだが、詳しい相談の手紙を送っても無視されて梨の礫だった。キリスト教のお坊さんが次から次へ現れて心を慰めようとするのだが、彼女は神学論争を挑み、あげくに出入り禁止にしてしまった。その役割を津村に期待していたということのようだった。 「だから、最も円満な状態とは緊張でも弛緩でもなく自分が自然に舒展している状態を指している。信とは思い込むことではなく、ありのままの事実を受入れることである。だから力や感覚で特別に仕立てた”ありのままではない”自分は、鍍金[メッキ]にすぎないことを当人が一番知っているのだから、不安になるのは当然なのだ」 私は二度目に行った時、うちわを二枚書いて渡した。一枚は北斎の富士の絵がついている裏に大きく「氣」の字を毛筆で書いた物で、気の足りない時は扇いでくださいという意味だった。もうひとつは両面白紙の団扇に「恬淡虚無/真気従之/精神内守/病安従来」という黄帝内経上古天真論篇の言葉を書いた。これは「あっけらかんと心静かであれがほしいこうなりたいと思わないでいれば、真気(経絡の気のもっと深い所の気)はもともとある道を流れる[自己愛やエゴが真気をさまたげてしまっている]、精神[この場合は精気神の流れ全体]が外に出て行かずに内に湛えられるようにすれば、どうして病気になることがあるだろうか」という言葉だ。ケイさんはとても悦び、恬淡虚無のほうで扇いで、夫には「あなたは気が不足しているかも」といって富士山のほうを渡した。そして「本当にそうね。こうしていたら心ここに非ずでいつも外部をさまよっているわ」と私の提案を受け止めてくれた。 亡くなる三日前に、「音霊を使って気を豊かにしましょう」と私は提案して、 トホカミエヒタメ 南無神変大菩薩 おんそらそばていえいそわか おん・あー・ふ の四つの真言を書いて渡した。その場で少し練習した。ただし四人部屋なので、小さな声でである。四人部屋の方が寂しくないと思ったが、ほかの三人の患者の見舞いがうるさく、中の一人は夜中や早朝に携帯をかけてきて励まされたりしているので、ひとり部屋の空きはありませんかと相談し、そのための寄付もし、亡くなった翌日から移ることになっていた。ここはいっさい無料なのだが、台所は相当苦しく、寄付は歓迎している。 トホカミエヒタメは神道の最古の祝詞で、まあ私の内部と環境の全体から神を呼び出す最強の真言である。南無神変大菩薩は役行者のご真言である。おんそらそばていえいそわかは弁天のご真言だ。サラスバティはインドの河の名前で、河の音から転じて楽器を弾く弁天の名前になった。この二つは実は彼女の生まれ育った熊野と非常に縁が深い。吉野大社と熊野三山とのちょうど中間に天河神社があり、役行者が弥山山上で神を招来したところ弁天が出てきたので、弁天を弥山山頂に祀り、もう一度招来して不動明王を得たので、今の乱世には不動明王こそが切実とそれを蔵王権現として吉野に祀った。闘いの象徴としての蔵王権現と癒しの象徴としての弁天である。吉野川、天川、熊野川と名前の変わる紀伊半島を南北に貫く川こそサラスバティだと持統天皇は言っている。天武が天河に南朝を開いたのもこの縁だった。その熊野川が補堕落の海に出る勝浦で彼女は生を受けた。吉野・天河・熊野があなたの生命の源であり、出発点で回帰点であることを確認するために役行者と弁天に祈ってくださいと私は言った。 おん・あー・ふはチベットの真言です。あなたがこれから西に行って迷いのないように、三字真言を渡します。これはすこし呼吸が苦しいようだったが、無理をせず、何度にも分けて言っていいのですよ、と言って九回繰り返した。本当はね、三十万回唱えないと次の「おんまにぺめほん」の観音さんを呼ぶ真言をできないんです。毎朝一時間で一年間ですよ。ぜひ一年生き延びてください。 でも、ケイさんはこの黄帝内経の言葉と四つの真言を受け取って、安心してしまったようなところがあった。結果的に私はキリスト教の神父さんと同じような役割を果たしてしまったのだろうか。・・・・・・HOMEに返る

 

 



2016.07デザインYork追記⑧

2016年7月7日 10:33

写真07-12


声を出す気功には四つある

 

声を出す気功には四つある。
①そーんによるリラックス ②音の高さで気を調整する
③内臓別の波動を出す六字訣
④念仏・真言 ピンクのノートではそれを縦横に説明している。
これは私の講義録である。 「”鬆”という文字を思い浮かべてその音を実際に出してみると、一種の音魂(おとだま)です」 「ソーンという感じでおくへおくへやっていくと、骨震動というんですけれども骨が細かく震え始めて、そのまわりから細かい筋肉がほぐれてくるんです。だからこの音を出しているだけで長いこと念仏をあげたような感じになってくるわけです。実は念仏も全部気功法と言えば気功法なんですけれども、あれはもう何でもいいわけです。南無妙法蓮華経 でなければいけないというのは宗派の要求であって、何の音でも実はよくて」 (響かせていればいいということですか?)とケイさんは口をはさむ。自然な対話のようになっている。 「響かせて、呼吸を整えることもあるしね、坐禅やってる人には盲点になっているんだけれども、声を出した方がずっと無になれるんです。マントラとか念仏をやっていた方が坐禅をやっている人よりもかえって瞑想状態が深かったりするんです」 「意味がわからないほどいいんですよ。わからないほど、いわゆる右脳状態になるんです。考えないというか。こういう意味のわかったことばなんだと言われたとたんに効きにくくなってしまうものでね(笑い)チベット語か何かのわけのわからないものをやっていると本当に没頭できるわけです」 こういうのは「いつもの津村節」なのだが、決してたくさんの人が聞いているわけではない。こういう記録もきちんと出して行かないとな、と反省した。 ほかの講義からも引いてきている。 「日々の立ち居振る舞いの中でうまく気をめぐらせて破綻しないようにするというのも気功です」「で、ぼくがやっている気功は、病気になってからどうするかという気功ではなくて、いま自分の持っている生命力をどのように、どれだけ、いちばんよく発揮していくか、そのことひとつに健康に生きて行くことはもちろんですけれども、健康法というだけではなくて、カラダの存在か持っているいろいろな可能性をいろいろな角度で開いて行けるチャンスを提供して行くというのかな、そのための手法なんです」 2006年のホロンPBIでの河野智聖さんとの講義は、

10年前にこんなことを言っていたのかというのでびっくりだった。導引の枠内で考えると大きく誤解することになる内丹について語っている。腹脳の話、脊椎に寄って身体と頭が文してしまったことの弊害の自覚、とつぎつぎ自分でも驚くようなことが出てくる。「いろいろ学んで身につけてうまくなるぞというのが儒教の思想なのですが、逆にどんどん捨てて行けばいろいろできるようになるというのが道教の教えなのです」 このノートの半分近くが津村の抜き書きで成り立っている。そのあと梁恩貴、梁蔭全、服部孫四郎などを引いたあと、また津村の背骨ゆらし、たんとう功、修真図、内経図、カトリーヌ・デプス。これはタリン二日目、三日目とあるので、マルトがアップしたものを見ているのだろう。 そのあとまた自分が過去に学んで来た物をそれとつきあわせて整理。そしてまた津村の抜き書き。なんとここに「恬淡虚無」が出てくる。そのあとまた野口晴哉などの引用。

一番最後に、一頁、水木しげるの言葉が引いてある。
1 成功や栄誉や勝ち負けを目的にことを行なってはいけない。
2 しないではいられないことを続けなさい。
3 他人との比較ではない、あくまでも自分の楽しさを追求すべし。
4 好きの力を信じる。
5 才能と収入は別。努力は人を裏切ると心得よ。
6 なまけ者になりなさい。
7 目に見えない世界を信じる。
全部賛成である・・・・・・・・HOMEに返る

 

 



2016.07デザインYork追記⑨

2016年7月7日 13:54

写真07-13


ケイさんは私の本は取り寄せたといっていた

 

ケイさんは私の本は取り寄せたといっていたので、東城百合子さんの自然療法の本を送ってあげた。もともとのあなたと健康社のものが一番いいのだが、手に入らなかったし、私の持ってるものを送るのはかまわないが彼女には少し情報量が多すぎる気がして、三笠書房の『免疫力が高い体を作る自然療法シンプル生活』を送ってあげた。これに梅干し湿布とか生姜湿布とかこんにゃくの話が載っているのだ。 彼女の病室の枕元には本が積み上がっていて、いかにもぜーんぶ吸収したいが間に合わないという感じだった。私の『気功への道』と『健身気功入門』は付箋がはさまっていたり書き込みがあったりで、よく読んでもらっていたようだった。「『気功への道』はすごいです。あんなにやさしく、わかりやすくきちんと気功の本質を語っている本というものはほかにまったく比べられません」とケイさんは言ってくれた。 最初に行った四日間の時にも、もうほとんど本を読む気力はないようだった。

私は二日目に高村薫の『空海』が枕元にあるのをお借りして、四日目までに大部分を読み、返した。その本はいま私の手元にある。一旦お返ししたが、ご主人が日本語の本は私も読めないし仕方ありませんので、とほかの本と一緒にくださった。その前に「片身」になるような本をくださいとお願いしていたが、一冊か二冊のつもりだった。枕元にある本を全部持ってきてくれた。『免疫力が高い体を作る自然療法シンプル生活』『気功への道』『健身気功入門』『空海』を除くとこんな具合だ。 森茉莉『魔利のひとりごと』 青島大明『病を治す哲学』 馬済人『中国気功学』 劉貴珍『気功療法実践』 片山洋次郎『整体から見る気と身体』 中島京子『小さいおうち』 鳥飼美和子『きれいになる気功』 宗像伸子『キッチン栄養学』 兵藤明『経絡・ツボの教科書』 『中国気功学』と『気功療法実践』は熟読している。『きれいになる気功』も解説を書かせてもらったので一応すみずみまで読んだ。『経絡・ツボの教科書』はとてもよさそうなので使わせてもらう。青島さんはなんとなく毛嫌いして近づかなかったが、ぜひ読ませてもらう。中島京子はヘルシンキへの飛行機で読み上げた。面白かった。

ご主人と最後の日に話し合った。 「もし日本語の本を生かせる場がないなら、私のところで引き受けてもいいですよ。うちは何万冊かの本があって、それを整理すればケイさんの本を並べられる。ケイ文庫を作って公開することができますけど」 「ああ、そういうのがいいのかもしれませんね。気功関連だけでなく、美術関連や小説なども含めてですか」 「そうです。全部常時展示できるかどうかはわかりませんが、目録はきちんと作ります」  「日本からこちらに来る時も、本が大変だったんですよ。引き受けてくれるならありがたいです。こちらで整理するのにも時間がかかりますし、少し先の話ですね」 「けっこうですよ。ケイさんの精神世界の少なくとも一部を公開できるのは嬉しいです」  写真を何枚か送ってもらうこと、最後の看病日記を書かせてもらいたいこと、こんにゃくは破棄してほしいこと、馬油や梅雲丹は使えるので使わしてもらいたいこと、などを打ち合わせた。その翌朝、馬油や梅雲丹とともに三冊のノートと、分厚いに册のファイルをもらった。ファイルには星ノ気功の教材と気功協会の教材、中くんのところの資料とうちからお送りしたものなどが入っていた。 ケイさん、あなたの墓を気功文化研究所の中に建てますよ。あなたが何をしようとしてできなかったのか、どこまで悟ったのか、特に晩年の苦闘が見る人にわかるように。

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