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2016年11月



2016年10月①健身気功協会の雑誌について

2016年11月01日 02:05

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原則として年四回出ている

健身気功協会の雑誌について。
原則として年四回出ている。最新号の紹介をしておく。今回が10付き号で通算40号である。A4の大きさ。
表紙は西王母の古代のイラストが二葉。二頁目次下に西王母の解説がある。
三頁目は「道教のはじまりはどのようだったか」三回連載の二回目。四頁下段は読書のすすめで今回は『道教故事物語』を紹介している。
5頁からが私が総会で報告した「さまざまな導引に含まれる内丹の契機について」。これは当日配ったレジュメにもとづいて後から復元したもの。
1導引と内丹はどう違うのか
2李遠国による内丹論の要点・周易参同契から悟真篇へ
3周稔豊易筋洗髄経における内丹的要素
4郭林の内丹論
5焦国瑞の内丹論
6ほう明の外求法と内求法
7張宇の外丹・内丹論
8李少波の真気運行法
9胡耀貞の内丹
10陳攖寧の世界
健身気功二百問の翻訳これも私が訳している、第18回。
指導員講習会の報告が佐藤満子さん。会員の青柳さんの「初めて総会に参加して」
その後が私の「気功は脳をどう鍛錬するのか」の第三回。深部辺縁系の自己治癒。
会員便り。健身気功フェスティバルへのお誘い。
津村のグルーミングの「五転」の紹介。定例会のお知らせ。
24頁のうち17頁を私が書いている。会員にもっと書いて欲しいのだが、なかなか原稿が上がって来ない。それをいいことに、健身気功らどんどん話を広げて、半ば内丹の紹介になっている。健身気功は導引の範囲で、それはそれで発展させて行けばいいが、同時に内丹領域に連れ込んで行きたいのである。
私が原稿を送りつけて、武内フクさんが編集・制作をしている。欲しい方は、って非会員がいくらだか聞いていなかった。事務局の
t-oshima@plum.plana.or.jpに、欲しい人は聞いてみてください

 

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2016年10月②陳攖寧の十条の戒語の

2016年11月01日 03:47

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学理 研究を重んじ崇拝を重んじない

 

 

陳攖寧の十条の戒語のいわずもがなの解説少々

学理   研究を重んじ崇拝を重んじない
宗教には崇拝がつきものだ。古いテキストを侵しがたいものとして、超越的に崇拝する。まずそれをやめよう。どんなすばらしい文献にも、時代の限界というものはつきまとう。またそれを文章化する時の、当時の王様の元ではこのようにしか言えないとか、読む人がここまでしか理解できないだろうという歴史的限界もある。かといって今の「常識」で読んでしまっては作者の深い動機が分からない場合もある。だから、何も信じ込まずに、あくまで研究し続けて行く態度が必要なのだ。

功夫   実践を貴び空談を重んじない
功夫というのは、広東語でカンフーという拳法の実力のことである。弱そうなおじいさんがとんでもない実力を持っていたりする。北京語ではゴンフと読む。拳法に限らず、その人の持っている本当の実力ということだ。ある人が言葉たくみに気功の深い領域を説明できても、本当にできるのか、まずやってみてほしい。しかしそれが本当の実力かどうかということも、本当に実力のある人にしかわからない。だから気功についてむだなおしゃべりをやめ、宣伝のためにやっていくのでなくて、自分の功夫をたかめていくことが何よりだいじだ。

思想   積極が必要で消極は不必要である
思想と中国語でいうのは日本語とニュアンスが違う。日本語だとある思想家の考えという体系的な思想を指す。誰かの思想、という感じで書店に並んでいる。中国語ではもっと気楽な、日常的な考え方という意味だ。辞書を引くと①心がけ、気持ちの準備、気構え②考え、見解③考える、思いめぐらす、とある。気持ちの持ち方は積極的なのがいい,ということばである。

精神   自立を望んで依頼を望まない
陳攖寧が精神に関して、自立か依存心か、という一点だけをとりだしているのがすばらしいと思う。それほど、あらゆるところに依存心が蔓延していると考えていたわけだ。毛沢東への依存、共産党への依存、道教協会への依存、老子や張陵への依存、等々。自分をいちいち「自立か依存か」でチェックしてみないと、知らないうちに誰かの言いなりになっているかも知れない。かといって、自立を強迫観念にして何もかも罵っているだけなら何も進歩はない。自立はあらゆる依頼心とそのつど具体的に闘って行くプロセスで、自立の看板でも依存の看板でも困るわけだ。

能力   団結を押し広げ分散を押し広げない
これは、人とつながっていきたいと思え、分裂したり孤独になったり自体が価値があるわけでないということだ。人は社会的な動物であり、私の考えもまた社会的なふれあいの中で私が選択して来たものだ。わたしが宙空から考え出したものではない。とすれば、いつもつながりを作って行くことを大切にし、人と分裂することで私の価値が上がると考えない方がいい。だがそれは組織の中でいいなりになったり、国民的団結を無批判に押し付けられたりすることではない。私の責任で、私の原則にてらして、団結と友誼を広げて行くことが大切なのだ。

事業   創造を重んじ模倣を重んじない
事業というのは、自分が主導的に起こして行く仕事のことだ。学ぶ時は模倣をしていいが、自分のしたい仕事で模倣をせず、創造に価値を置く。それはまさに私が社会から求められているものは何かということに敏感になることだ。そうしてこそ、世界に広がって行く事業になるだろう。

幸福   生前を大切にし死後にとらわれない
これは宗教者が言う台詞とは思えない。じっさい陳?寧は道教協会の仕事をしているが、自分が宗教をやっていると思っていなかった。仙道というのは六千年の伝統を持ち、哲学としての道家より宗教としての道教よりはるかに古いものだ。特に長い間道教は現世に幸福を求められない人々を来世で慰めるという役割を果たして来た。それはキリスト教もイスラム教も仏教も同じことだ。みな来世の幸福を保障してくれる。だがいいかげんに現世の幸福こそが何より大事だという腹を決めよう。あなたは今、ここで幸せになれるはずだ。誰にも分からない死後のことは死んでから考えればいいではないか。

信仰   実験を根拠として経典によりかからない
経典は実践の参考にする、という立場を取れば、なかなかいいことが書いてある。経典に寄りかからないというのは、そこに書いてあることを信じてそれで安心しないということだ。

住世   長く生存して早く朽ちておとろえない
彭祖は何千年も生きたとか赤松子も数百年とかいうと、そんなに長生きしないと練功しているとは言えないと思ったり、観念が先走ってしまう。むろん事故を避け、病気をできるだけ重大なことにならないようにする工夫は必要だが、誰でも125歳まで生きられるわけではない。「住世」というのはこの世になるべくお邪魔したほうがいいが、「朽ちておとろえた」状態で長生きするのはどうも、という意味だ。

出世   超脱して仏に帰依しない
出世はこの世界から抜け出す、死ぬということである。荘子は「生まれるとは宇宙の膨大な気がひとりの人間の姿を取って集まること、死ぬとはそれが次第に解散して、大宇宙にすっかり気をお返ししていくこと」と言ったが、中国人の一番ベースにはこの考えがある。死後は無限の気の世界で、私の人格が残って行くわけではない。仏に帰依しないというのは、観音様が迎えにくるとか、阿弥陀が助けてくれるとかの幻想は何も要らないので、私の死後は永遠の命の世界だが、「わたし」という人格が彷徨ったり、そのまま他の誰かの生に復活してくるわけではない。仏が助けてくれるというのは、この世の延長上でたとえ話をしているのだ。私が死んでどのような「仙」になるかは、もっと一人一人が研究すればいい。誰かが答を持っていると思わない方がいい。

 

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2016年10月③仙学研究と修練の原則

2016年11月01日 05:29

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陳攖寧先生は長年の仙学の修練を通じ

 

仙学研究と修練の原則

 陳攖寧先生は長年の仙学の修練を通じて、四つの原則をまとめた。今日の研究者と修練者も、この四つの原則にてらして、仙学を探求し討論して欲しい。この四原則とは、「務実不務虚」「論事不論理」「貴逆不貴順」「重訣不重文」である。

一 務実不務虚

 仙家の功夫は入門の功夫(一歩一歩実力をつけていくこと)から入って、延年益寿の段階を経て、出陽神の高級功夫まで、一歩ずつみなその修持の法の段階があり、いわゆる有景有験(目に見えるビジョンがあるし確かめて行く一歩一歩がある)で、真実は虚ではなく、空漠とした理論でも説教でもない。また仙家の功夫は初めから終わりまで厳格な次第があり、勝手に踏み越えてはならない。

二 論事不論理

 道家の理論は春秋に起こり、二千余年の発展を経て、言われていることも汗牛充棟である。一部の完全な『道藏』を読むのに少なくとも三四年の時間がかかり、その中には非常多くの養生に関連のある文章が含まれているが、その多くはわかりにくく隠されていて、すぐにはわからない。ある人は自分もまだはっきりとわからないのに、著書を書き説を立てて名誉を釣り上げ、自分も読めないことを人に説いている。大切なのは微細な実行方法を論議することで、理論に時間と勢力を向けることではない。

三 貴逆不貴順

 生長して年取り、老い、死んで行くのは人類生命の自然な法則性であるが、金丹の大道を修練する者はこれに違反して、逆行しようとする。まず生理の方面では先に精を保存し、生が満ちて気が盛んになり、気か盛んで神が旺盛となり、神が旺盛ならば身も健やかになり、健やかならば病気那もならず、長寿になり、然るのち仙学を語れるようになる。それから生活の方面で飲食起居をすべて逆を用いていく。飲食では濃い味を避け、清淡を基本とし、ある時は精進にし、ある時は断食したり、ある時は果物だけを食べたり、またある時は松や柏の葉を食べたり、等々。総じて、生活を普通の人と変えて行く。

四 重訣不重文

 仙家の逆修の道は師匠よって口伝で伝授されるものである。文字にはせず、秘密とされる。その著作の中でも具体的な方法を書かずに「鉛と水銀」とか「龍虎」「坎離」「彼我」「温養」「沐浴」「文火」「武火」などの隠語を使って禄議されている。仙学の著作中の精華である《参同契》や《悟眞篇》もまたこのような書き方になっている。だからすぐれた師に出会ってその訣を伝授されなければ、修成は難しい。ただ明師が訣を伝授してこその事なのだ。そこから金丹の大道を歩んで行くことが出来る。

 

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2016年10月④よみうりの皆さんの京都遠足は

2016年11月 03日 07:16

円仁


四人しかこられなかった

 

よみうりの皆さんの京都遠足は今回は四人しか来られなかった。ノアとかヴォクシーとか借りるはずが、ちょっと人数が減ったのでヴィツクラスでいいですといいに言った。
当日はまず四条烏丸に着く人を迎えに行き、そのまま出町柳で残り三人をひろった。宝ケ池に向かうつもりが、二人が赤山禅院に行って無いことを聞いて、道の途中でもあり、まずそこに寄った。赤山禅院は円仁が五台山に行く前に流された遼東半島の韓国人の海賊の聚落で出会った道教の神だったが、日本に帰国の際、またしても死ぬかというほどの嵐に出会い、その時に赤山の神に願をかけて、救ってくれたら日本にあなたを祀る道観を作ると約束し、一命をとりとめる。帰国してずっと気にかかっていたが、天台宗の建設のために時間が取れず、赤山の神を祀ってくれと遺言に言い残して亡くなった。弟子達がそれに従って、天台の寺でもあり、道観でもあるという奇妙な施設を作った。今も千日回峰の京都まで降りて来た時の拠点である。そのように重視されている寺=道観なのに観光案内にはほとんど書かれていず、訪れる人もごく少ない。この日も二時間近く居る中で出会ったのは二組である。山の上の金神社、歓喜天、相生社に至っては誰も上ってくる気配もない。ここの屋根には猿の彫像があって、皇居の北東の角にある猿と向き合っている。ここは皇城表鬼門であり、比叡山自体が「東北の守り」であるが比叡山と皇居の中間に位置する赤山禅院で京都守護の霊的ラインを引いている。
そのあと、子供の国(もとの競輪場)で車を下ろして湖畔まで歩いてもらうことにし、車は反対側の東南側の駐車場にまわして、途中の東屋で出会った。小学生が大量に通り過ぎて一時喧噪に包まれたが、去ってからの静寂が身に染みた。宝ケ池に住んでいた頃この東屋で一人て気功をし続けた。多い年で年間二百回ここの東屋に通って、スワイショウや背骨ゆらしやグルーミングをした。今日も鯉と鴨は一杯いたがなぜか亀は泳いでも居ないし湖畔にも見当たらなかった。ここでスワイショウだけした。
ここから喫茶店ドルフにまわった。もうお昼過ぎているが我慢我慢でみんなはスコーンとかプリンとか食べていた。ここは窓一杯に十本に別れた大ケヤキがひろがっている。これを見に来た。ほとんど満席で、おばさま方は大声で話していて、人がいなかったらどんなにいいだろうといつも思うが仕方ない。
そのあと深泥池に行き、博愛会病院に回ってから湖畔に止めて少しだけ歩いてもらった。そして堀川の気功文化研究所へ。
前に紹介したメニューから変化したのは一つ。ハチノスが柔らかくならないのでストーブて六時間も煮るうち、水が無くなって焦げ付かせてしまったので、急遽スープに変更した。

ピンチョス(アンチョビー、オリーブ、ピクルスの爪楊枝差し)
イワシの衣揚げピメント載せ レモン添え           
ハチノスと大腸のスープ           
バスク風子牛のラグー(挽肉煮込み、ポテトヒュレー添え)
豚のリエットフランスパン添え
いろいろのきのこのオムレツ
グリーン野菜とブルーチーズのサラダ
えんどう、絹さや、いんげん、ぐりーんぴーす、玉ねぎ
ラディッシュ、ミニトマト黄色、ブルーチーズ
フレンチドレッシング
サラダニソワーズ
ミニトマト、マグロ刺身、いわしの缶詰
せり、レタス、オリーブ
フレンチドレッシング
りんごのオーブン焼き

片付けものを手伝ってもらって、五時過ぎに解散した。車はまだ三時間ほどあるがちょっと疲れたので、おとなしく返した。テレビの相棒を見ながら、残り物をつまんだ。


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2016年10月独峰さんたちの一行は15人ほ

2016年11月5日 12:08

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開山正燈国師の650年遠諱(年忌)にやってきた


独峰さんたちの一行は15人ほど。ドイツから永源寺の開山正燈国師の650年遠諱(年忌)にやってきた。独峰さんは中医学の治療もしているし気功も教えているが、永源寺の僧侶でもあり、ミュンヘンに寺も持っている。今回やって来た人の中には禅だけのお弟子さんもおり、禅も気功もしている人もいる。ここ二三日観光をしていて、今日も詩仙堂や曼殊院に行った。私は四時半にパレスサイドホテルに呼ばれていた。

御所の中を歩いて、すばらしい気のスポット何カ所かのうちひとつ、松とイチョウのふたつの巨木が向かい合っている所で少し站椿をした。それから梨の木神社に行った。久しぶりだったのでどーんとマンションが占領しているのを知らなかった。下鴨神社もこういう話が進んでいるのだろう。ここは大鳥居の後ろにマンションを建てるというひどい話で、びっくりした。

能舞台のる部屋で、一時間しかなかったので易筋外経ならぴったり一時間で行けるから、それにした。久々の能舞台は気持ちよかった。ここでは何十年も京都気功会の集まりを持っていた。
そこからタクシーで二条のがんこ寿司に行った。ここは高瀬川を掘った角倉了以の家で、のちに大久保利道が住んだ所を料理屋に改装してある。人数が少し増えて18人+独峰夫妻となった。独峰の奥さんの美佐代さんは大阪の人である。宴たけなわの時に、チベットの腕輪を紹介して配った。琥珀が着いていて「仏眼」の入っているやつだ。四川大地震の時にカンパを持って入って、お返しにもらったものがまだたくさん残っていた。独峰には李金遠さんがチベットの少女とヤクを描いた色紙をプレゼントした。奥さんにはチベットの山珊瑚のネックレスと、李遠国の雷字のお守りと、熊野速玉神社のお守りをあげた。三時間くらい宴会をして、十時過ぎに帰った。


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2016年10月健身気功協会の講演会

2016年11月5日 12:08

真気運行法、易筋外功など
受付中

真気運行法、易筋外功など

11/19,三時から健身気功協会の講演会。真気運行法、易筋外功など。連絡先は健身気功の事務局です。
 NPO法人 日本健身気功協会

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2016年10月心斎について

2016年11月07日 3:26

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陳兵『道教修練養生学』から


 

心斎について


陳兵『道教修練養生学』から。私が16歳の時に初めて習った気功であり、66歳まで探求し続けた気功です。

 「心斎」は『荘子・人間世』篇に出てくる、孔子が顔回に修心の道を教えたのにもとづいている。顔回は孔子に問うて言った。「回の家は貧しく、酒など飲みません。くさいもの(ニンニクとか葱)も数ヶ月食べていません。わさわざ断食が必要でしょうか」孔子はこれは祭りの齊で心の斎ではない。顔回は何が心斎かと問うて、孔子が答える。
「若(なんじ)は志を一にせよ。之を聴くに耳を以てする無くして、之を聴くに心を以てせよ。之を聴くに心を以てする無くして、之を聴くに気を以てせよ。聴くことは耳に止まり、心は符(し)るに止まる。気なるものは空してして物を待(うけい)るるものなり。唯だ道は虚しきに集まる。虚しきこそ心の斎みなれ」
顔回は言う。「回(われ)の未だ初めより使(おしえ)を得(たま)わざりしときは、実に自ずから回なりき。之に使えを得うや、未だ始めより回あらざるなり。虚と謂いつべきか」孔子は尽せり、それで十分だと言う。ここで心斎といっている修行法は虚に成ることが秘訣で、内部世界に耳を傾けることから入って、私の無い忘我の究極の境地に到達する。

道教は道教は荘子の心斎を斎法=瞑想法の最高にして最も根本的なものとした。『斎戒録』が『南華真經』(荘子)心斎の説を説いている。上とは少し異なっている。
「汝の一志、耳を以て聴かず、心を以て聴く、気を以て聴く。汝の心を空虚に沈め、嗜欲を除く。汝の精神を洗い、煩わしいことを捨てる。その智を養い、思慮を断つなり。無思無慮となり、道に従い、無欲で道を楽しみ、汚れたことがなく道に従う。その心には二つの思いがなく、故に一志という」
心の外にあるものを除き、また嗜欲を除くことを強調している。情欲をなくし、思慮をなくして、心に二つの思いが無い境地に到達する。

この荘子の心斎で言う「聴」ということについて、いろいろな人が註釈して来たのはさっぱり明確ではなかった。当代の道教学者陳攖寧は『静功療法問答』の中でその聴息法について解説した。

(1)「若一志」  意念を専一し、干渉を排除する。

(2)「無聴之以耳、而聴之以心」  呼吸の気を「聴く」ことに集中し、鼻息は無声にし、耳には聞こえなくなる。そして意を用いて聴くことを念ずる。 

(3)「無聴之以心、而聴之以気」  功夫が深くなると、心と気はすでにひとつとなり、気はすでに心の対象ではない。これを「気をもって聴く」と言う。つまりもはや聴くことに意を注がず、「その自然を聴き」「これを聴くに任せる」の聴くである。

(4)「聴止於耳、心止於符」    意と念が帰一したあと、「聴く」字に変わって「止める」字訣を用いる。つまり聴くことを停止し、次第に混沌の境地に入り、心の知覚はすでに作用を起こさない。

(5)最後に不知不覚の虚の境地に入り、心の知覚もまた作用を起こさない。これが心斎である。

陳攖寧先生の解釈は、仏教六妙門の「随息法」から取って一種のとてもよい静功の功法を作った。ただし荘子の聴字訣は「心音」を聴くというようにも解釈できる。意念を専一にし、寂定の境に入り始める時、往々にして自然に自身の発する「心音」を聴くに到る。意念は微微にこの音に注意し、これを聴くにまかせると、それを「心を以てこれを聴く」ということができる。返聴は仏教の中では『楞厳経』の圓通法門の返聞自性にあり、返聴は自性を聴き聞く方法で、静坐の中で内外のどんな音も聴くときに、皆意念を以て内心の聴く性を振返る時、「心を以て聴く」ということができる。荘子の言う気は虚無の内気を指している。虚静にして内気を引き起し、気が充実する時、心と気が合一し、自然に寂定し、心は聴くという念頭をもはや起こさずに、湛然と寂止するので、これが「耳の於いて聴くのを止める」であり、寂止の心と虚は互いにつながっているので「符において心が止まる」というのである。

 

 


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2016年11月道教煉養学の重要な専門書


2016年11月6日 22:45

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『道藏』は内外合わせて八千巻

 

 

 

道教煉養学の重要な専門書

 道教の文献の中で、『道藏』は内外合わせて八千巻、二千余種の多さで、その中には僅かに仏教系統も含まれており、また多数の気功養生の情報も含まれている。煉養方面の著作はざっと七百種あり、仏教禅学の専門書よりも遥かに多い。
道教煉養学の専門書は主要には明代に編纂された『道藏』と清末に編集された『道藏輯要』のなかにある。近代に編纂された『道藏精華録』及び『道藏精華』の中には『道藏』『道藏輯要』にはない明清の煉養学の専門書もある。『道藏』の中には宋の張君房が編纂した小道藏『雲笈七籤』があり、それには巻四二から巻八三まで、北宋真宗朝以前の道書中の各種煉養方法が含まれ、道教前期の煉養術を研究するのに最も便利な文献になっている。南宋には曾慥が輯撰した『道枢』があり、内丹法を主とした一部の重要な煉養書が集められている。道教煉養学の専門書の中の最も重要な物は合計で七十種内外であり、以下に列挙する。
(『雲笈七箋』の内容を対比しようとしたが、全五巻で目次だけで50頁あり、すぐには不可能とわかった。少なくともこれらの文献は家にあるが、私が読んだ、読みかけたものは二千分の五くらいで、まだ道ははてしなく遠い)

[1]煉神類
《洞玄霊宝定観經注》一巻 冷虚子注(洞玄部玉訣類)
《太上老君説常清静經注》一巻 元・李道純注(洞玄部玉訣類)
《天隠子》一巻 天隠子(太玄部)
《坐忘論》一巻 唐・司馬承禎著(太玄部)
《上乗修真三要》二巻 金・圓明老人著(洞真部方法類)

[2]服気類
《太上養生胎息気經》一巻
《嵩山太無先生気經》二巻 唐・太無先生著
《延陵先生集新旧服気經》一巻 唐・桑楡子評
《服内元気訣》一巻 唐・幻真先生著
《諸真聖胎用訣》一巻
《神仙食気金拒妙録》一巻 唐・京里先生
《服気精義論》一巻 唐・司馬承禎著
《真気還元銘》一巻 五代・強名子撰(洞真部方法類)

[3]存思類
《黄庭内景玉經注》三巻 唐・梁丘子注
《上清華晨三翻玉訣》一巻
《上清明堂元真經訣》一巻
【以上は洞玄部玉訣類】
《金闕帝君三元真位置經》一巻 (洞神部方法類)
《黄庭遁甲縁身經》一巻
《金闕帝君三元真位置經》一巻

[4]守竅類
《胎息經注》一巻 唐・幻真先生注(洞玄部玉訣類)
《存神煉気銘》唐・孫思?著 (洞神部方法類)

[5]内丹類
この類は道教煉養学の専門書が最も多く含まれている。この種の叢書は『道藏』と内丹を主とする『道枢』のほか、元初の人が編纂した『修真十書』60巻が洞神部方法類に収録されている。『古書隠楼藏書』16巻、清・聞一得輯撰。この本には清代に新しく出た内丹著述がたくさん含まれている。『伍柳仙宗』には有明・伍沖虚著『天理正理』『仙彿合宗語録』柳華陽著『慧命經』『金仙証論』などは最近出版された。
『道藏』中の重要な内丹学の専門書は次のようなものだ。
《周易参同契分真義》三巻 五代・彭暁著
《周易参同契注》三巻 宋・朱熹著
《周易参同契発揮》九巻 元・兪?
【以上は太宝幻部に収められている】
《太上九要心印妙經》唐・張果
《真龍虎九仙經》唐・羅公遠・叶静能注
《西山群仙会真記》五巻 施肩吾著
《玉清金笥青華秘文金宝内煉丹訣》三巻 宋・張伯端撰
《大丹直指》二巻 元・丘処机撰
《中和集》六巻 元・李道純撰
【以上は洞神部方法類に収められている】
《破迷正道歌》一巻 鐘離権著(洞真部象数類)
《清微丹訣》一巻 (洞真部象数類)
《崔公入薬鏡注解》一巻 明・王道粛注(洞玄部玉訣類)
《呂純陽心園春丹詞注解》一巻 元・兪?注(洞玄部玉訣類)
《悟真篇三注》五巻 翁葆光・陸墅・陳致虚注(洞玄部玉訣類)
《悟真篇講義》七巻 宋・陳致虚著(洞玄部玉訣類)
《金丹大要》十六巻 元・陳致虚著(太玄部)
《金丹直指》一巻 宋・周無所住著(太玄部)
《金丹四百字注》一巻 宋・黄自如注(太玄部)
《陸先生内丹訣》宋・陳朴著(太玄部)
《海京伝導集》宋・白玉蟾(太玄部)
《霊宝畢法》三巻 鐘離権(太清部)
【『道藏輯要』の中で『道藏』に未収録の重要な内丹書がある】
《五篇霊文》金・王重陽注(胃二)
《孫不二元君傅丹道秘書》金・孫不二(胃七)
《張三?全集》清・李西月篇(畢七)
《真詮葆真子傅》(鬼一)
《唱道真言》(斗五)
《高上玉皇心印經注》抱真子注(箕九)
【『輯要』に入っていないで明清の内丹書の中で重要な著作】
《方壷外史叢編》明・陸西星著
《道書十二種》清・劉一明著
《性命圭旨》
《三年秘旨》清・李西月著

[6]攝養、辟穀、動功、服餌、房中類。
《枕中記》一巻 晋・葛洪撰
《彭祖摂生養性論》
《孫真人攝養論》唐・孫思?
《養性延命録》二巻 陶弘景
《保生命》唐・孫思?
《混俗?生録》こんぞくしんせいろく 二巻 宋・劉詞撰
《修真秘録》宋・符度仁
《養生辨疑訣》宋・施肩吾
《太清經断谷法》
《太上肘后玉經方》
《三元延寿参賛書》五巻 元・李鵬飛集
【以上は洞神部方法類である】
《摂生纂録》一巻 唐・王仲丘(洞真部象数類)
《千金方》九十五巻 唐・孫思?
《四季摂生図》一巻 (洞神部霊図類)
新編『道藏続編』と台湾粛天石の編集した『道藏精華』の中で『道藏』に未収録の資料を集録しており、特に明清及び近現代の同書を含んでおり、多くの内丹書が含まれている。)


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2016年11月存思法は気功の五大流派のひとつ

2016年11月07日 1:30

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存思服気は存思と服気を結合したもの

またひとつ短いものを訳してみたので。
存思法は気功の五大流派のひとつで、イメージによって瞑想をする方法。

存思服気法にはどんなものがあるか

 存思服気は存思と服気を結合したものだが、先に存で后に服をするものと先に服をして后に存をする両種がある。
先存后服は『王真人気訣』で言われているようなもので、四更后五更初[午前四時前後]に東を向いて、足を組んで坐り、導引を三回して、存思の前に青龍があり、後ろに白い虎がいて、左に太陽があり、右に太陰があり、頭に朱雀が、足下に玄武[神亀]がいて、五臓は七政[北斗七星]につながり、全身は二十八宿が配置されている。存思分明、しかる後濁気を吐き、口を閉じ、鼻に納めた気をイメージでコントロールして、ゆっくりと糸のように吐き、下に丹田を貫き、ミーミーと声を出し、めぐり流れて通じ伝わるようにする。気が満ちたらゆっくりと吐いて、吐く時にその声が耳に聞こえないようにし、十回してやめる。
先服后存は、『服気雑法秘要口訣』にあるように、まず導引して、そのあと東南を向いて坐り、握固し、唾液を出して口を満たし、口を閉じて飲み、同時に腹をぎゅっと締める。吐く時に鼻から徐々に出す。服気が終わってから、南方を存思して赤く燃える惑星の真っ赤に光る姿をイメージし、それが私の口から入り、臓腑を流れて行き、全身が燃えて気の塊になったように思う。陽をもって陰を煉り、陰の滓を消去する。
南方に赤い惑星が燃えるのをイメージすることは、心気を補う意味があり、心気の衰えている人にはとてもいい方法である。


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2016年11月これから 道家・僊学・仙学・道教について

2016年11月8日 4:49

AAAA


研究を強化して行きます

これから 道家・僊学・仙学・道教についての研究を強化して行きます

新しい「気功文化」に掲載した文章です。

 中国の伝統文化の中で、道学と道教、僊学と仙学、道学と僊学についての区別をこれまではっきりとさせてきませんでした。道家と道教ということについては、繰り返し述べてきました。道家は老子や荘子、列子などの哲学思想であり、道教はそれから400年余りして成立した宗教であると言ってきた通りです。気功文化の読者には、その二つを混同する人はいないでしょう。ただ、道教の中には非常に巧みに老荘思想が組み込まれているので、言葉だけ追って行く人は混乱してしまうかもしれません。張陵は『老子想爾注』を書いて、哲学書である老子を宗教書として微妙に歪曲し、老子信仰を作りました。張陵はいろいろな潮流を厳格に区別しない、総合の人でした。その核心には老子の哲学があったのですが、もともとがそれと以前から四川の地と結びついた藏族(チベット族)と羌族の鬼神信仰とがむすびついて、道教の最初のアイデアが出来ました。道教の発祥の地とされる鶴鳴山はもともと羌族の鬼神信仰の拠点でした。
四川各地にはチベット族の原始信仰であるさまざまな鬼信仰がありましたが、張陵はそれの排他的な部分と闘いながら、大きな鬼信仰の潮流を作りました。この時代すでにさまざまな存思、内丹、守一、守竅の技術が存在し、神緯論、巫祝、精霊信仰、陰陽五行説、天文暦学、符録などがあって、それがすべて吸収されて初期道教を作って行きました。鶴鳴山そして青城山は道教の聖地に仕立てられて行きましたが、四川東部の?都には二代目の張衡が作った鬼道の聖地があります。これは鬼信仰の首都で、道教の枠に入り切らない藏族や羌族、?族の人々のもともとの信仰のセンターを作ったのです。鶴鳴山や青城山を表の聖地とし、?都を裏の聖地として、道教の多層的な仕組みが作られて行ったのです。

本来の道家と道教という宗教を完全に区別する事は難しいですが、でも一方は哲学であり、他方は宗教であるということははっきり区別しなくてはなりません。
道学は道家とも道教とも別物です。いや道家の学問の意味で使われる事もあるのですが一般的には道学は学者によっては「実際、”道学”と言えば、それは儒学を指す。狭義には、”『老子』や『荘子』の中で述べられているような道の教え””老荘”と言う意味で使われる場合もある」。つまり朱子などの学問を指す場合があるのです。朱子は孔子の再解釈をしただけでなく,道家や内丹、参同契などについて総合的に考察して来たので、こう呼ばれています。一方で、もともとの老荘の学問という意味でも使われていますが、むしろ普通には、朱子によって豊かにされた儒教が道学とよばれます。

あとは仙学と僊学です。僊学も「せんがく」と読むので、事実上同じ言葉と見なす事も出来ます。周一謀は「「遷」はまさに「仙」とすべきである。この句の意味は,ついで, 「「閉」これは「漏らすなかれ」ということだったが,それに意をそそげば,すぐに仙道に合 致し,健康長壽の道にも合致することができる」と述べています。またこうも言われています。「「倦」はおそらく「薯」・「遷」から分化してきた文字であり,本来は 「魂」と深く関連する文字である。「倦」が使用されるまでに「遷」の文字が「倦」の意味で使わ れていたのかもしれない。」「いずれにしても大きな流れとして「倦」から「仙」へと変化していくことは確実であり,それ にともなって魂の昇偲にもとつく「倦」から,山に住み不老不死の人である「仙」へと質的な変 化をともなっていくように思われるのである。」(『倦」と「仙」 一神仙思想の形成と文字の変化』大 形 徹)
これによれば、古い時代に「遷人」とよばれていたものが「倦人」などと書かれるようになったが、意味の点では同じ意味で使われた場合と、遷人は「魂があの世に帰り、永世を得るというニュアンスで使われ、谷に住む人と対比された山に住んで自分を高め続ける人という意味で用いられたと言えるでしょう。
陳?寧はこの仙道を現代に受け継ぎ、過去の荒唐無稽な解釈を正して
生前を大切にし死後にとらわれない
長く生存して早く朽ちておとろえない
超脱して仏に帰依しない
としました。陳?寧は道教協会の会長という地位にもかかわらず、自分を道教でも道家でもなく、神仙道を受け継ぐ人と見なしていたようです。陳?寧は過去の道家でもなく、今日も宗教として続いている道教でもなく、現代の仙学を西欧の現代科学に対抗しうるものとして、仙学の立場を提唱したのです


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2016年11月きのうビーツをもらったので、今日はボルシチに決めた。

11月8日 14:06

AAAA


ボルシチはろいろな作り方があるが

ボルシチはろいろな作り方があるが、肉とビーツがあればあとはありもので、玉ねぎ、にんじん、ジャガイモなど入れて煮ればいい。料理というほどの事も無い。ま、だし汁で品格が決まってしまうが、今日は気取らずにマギースープでする。
自転車で20分ほどの千本のイズミヤに行った。イズミヤは東は高野の交差点、南は堀川丸太町まで行かないとないので、千本が一番近い。しかしずっと上り坂なのがつらい。途中からは押して行く。そのかわり帰りは一瀉千里である。
ボルシチだけでは3,40分もかからず終わってしまうので、ついでにザクスカというサーモンと玉ねぎをマヨネーズで和えたものをパンに載せてチーズ焼きにするのと、鮭ときのこをパイにするのと、オリヴィエサラダというポテサラを作る事にした。鮭が一切れ90円、ポテトが一個25円。一番の買物はパイシート450円だった。パイシートないですかと聞いたら二人掛かりで探してくれて、冷凍食品の大きな棚に隠れていた。ひさしぶりに買った人に違いない。ピロシキってないのかな。さすがに作るのは面倒だ。イズミヤも含めてパン屋四軒探したがなかった。新しいウォトカの封を切るか。


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2016年11月千客万来

2016年11月8日 17:15

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といっても一日に一人とか四人

千客万来といっても一日に一人とか四人とかなのだが、ふだん一人でひっそりとしているので、急に世間に出たような具合だ。
先週の水曜日には、よみうりの生徒さんが四人来られて、赤山禅院や宝ケ池、深泥池などに行き、わが家でバスク料理をごちそうした。このことは前にも少し書いた気がする。
木曜日には濱野さんが来られた。いくつか彼にモデルになってもらってビデオを撮影する事になっていて、SDカードを買ったりして用意していたのだが、わが家に残っているビデオがSDカード以前の小型フィルムを使うやつだったのをすっかり忘れていて、だめだった。濱野さんの学校から借りてもらうことにして、とりあえずこの日は宴会にした。吉田精一の好きだった山形の初孫を開けて飲んだ。ひさびさにうまかった。
土曜日には私の母方の祖父高瀬真卿の日記を研究しておられる長沼友兄さんが千葉から来られた。高瀬の日記は五巻まで出ていて、いま六巻の編集中。そこに使える写真がないかと見に来られた。私の母大塚倭文子の母は柳橋の芸者で、高瀬は別に白銀台に家を構えていたが、笹塚に大きな別宅を作って、その一部に柳橋から引き取った大塚園子を住まわせた。そこで倭文子も生まれ、13歳くらいで園子は亡くなった。園子の『素園遺稿』という高瀬が編集した短歌と日記の小冊子のコピーを春にいただいて、三、四歳くらいの倭文子のことが日記に度々出て来て、夢中になった。母もこうした資料はなくしていたと見え、見せてもらえなかった。こうした素材を前にしてもう一度母と話し合う事が出来れば,と切望するが、母はもう45年前に亡くなってしまった。長沼さんの研究なしにはこうしたことを思い出す事もなかったろう。まだ高瀬日記は入手していないが、そのうちに手に入れて熟読してみたい。
月曜日には濱田さんが大学で借りて来たビデオ持参で来られて、無事に撮影した。何を撮ったかというと、後天通奇経八脈と道教八段錦のふたつ。前者は胡麗娟先生が東京講習で教えたものの記録から復元したもの、後者は大同に習いに行ったときのものだ。近日発売、期待してほしい。終わってから例によってチリワインを一本開けながら、いろいろな話をした。河合隼雄先生の事、広松渉の事、メスメルのこと、ライヒのことなど。内丹研究会に参加してくれそうな人のことも出し合ってみた。


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2016年11月焼酎辞典         その1

2016年11月11日 4:25



アラック

 

 

焼酎辞典   その1
『ザ・焼酎』(1984.4)から
全78項目を3,4項目ずつ紹介していきます。


【アラック】

 アラブ一帯で作られる度数の高い焼酎。
中国では昔焼酎を総称して「阿剌吉」といい、日本でも「阿剌吉酒」とか「荒木」といったが、これはアラックに由来し、焼酎のアラビア起源の証拠とされている。厳重な禁酒会率を持つアラブで焼酎が発生したのは奇妙なようだが、むしろ起源はヘレニズム文化らしい。アリストテレスはすでにワインの蒸留について書いており、それはアレキサンドリアの錬金術師たちの間で発展させられ、焼酎誕生となった。アラックとはアラビア語で「汗」のこと。現代でもレバノンなどでは50度前後の葡萄原料のアラックが作られている。イラクにはナツメヤシのアラックがあり、いずれもアニスなどの強い香りをつけていて、水で割って度数が下がると精油が分離して白濁する。
中国・日本だけでなく、世界の至る所で、蒸留酒のことをアラックまたはそれに近い名前でよんでいる。タイ、インド,セイロンなど南アジア一帯には糖蜜、やし酒、米などのアラックがあるし、ネパールにはじゃがいものアラックがあり、モンゴルやキルギスでは馬乳酒からの蒸留酒をアラックと呼んでいる。トルコのアラキシ、アルバニアのラキ、ユーゴ、ルーマニアのラキア、ブルガリアのアリキャ、地中海沿岸のラギーなどはいずれもアラックからなまったものと考えられる。原料も糖化・発酵方法もさまざまで、度数も40度から60度が多く、70度を越えるものもある。樽貯蔵をして黄色い色をつけたものもある。
インドネシアのバタビア・アラックが特に有名で、ジャマイカ・ラムとよく比較される。スウェーデンのリキュール、カロリックパンチのベースにもなる。砂糖が原料で、奄美の黒糖酒によく似ている。しかし近年は生産量が落ちて幻の酒になりつつあるようだ。

アルコール

 アルコールには、飲料にできるエチルアルコールとメチルアルコール、ブチルアルコールなどのように飲料にならないものがある。日本語では「酒精」「木精」と区別することがある。メチルなどを酒といつわって売り,多数の死者・失明者が出たことが戦後の混乱期にはあった。アルコールの語源はアラビア語のアル・クルとされ、精神が遊離した状態を指す。ヨーロッパでもアルコール製造は錬金術と結びついていた。中世のペスト流行時にアルコールに抗病力があると信じられ、ひろく飲用に普及した。酒のほか医薬品や化学工業に使う溶媒として広い用途を持つ。工業用エチルアルコールは現在石油から作られているが、酒類のアルコールは植物・農産物を原料としなければならないと法定されている。今の日本の原料用アルコールの大部分は砂糖生産の廃棄物から作られている。

アルコール製造

 自然界のアルコールは古代からあり、利用されてもきたが、日本でアルコールの存在が知られたのは遅く、蘭学を通じてのようだ。幕末に嵯峨に入校したロシア船にアルコールで走る車の玩具を見せられてびっくりし、真似したのが最初の国産アルコールとも言われる。明治に入って特殊な薬用として徐々に普及した。明治六年には小規模の製造業もできた。やがて酒造業者が増量・調和用に使い出し、酒税の対象となる。アルコール工業が台頭したのは日露戦争のとき火薬原料としてのアルコールが逼迫したため、戦後中に浮いた設備を蒸留機の垂れ口を水で割って酒類として査定を受けることを思いついた日本酒精が日の本印の新式焼酎として売り出して成功し、現在の焼酎甲類の誕生となった。昭和の戦争時には焼酎はもちろんビール、清酒工場も航空燃料用アルコールを作ることに動員された、国家に引き回された苦い歴史を持っている。


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2016年11月焼酎辞典 その2

2016年11月11日 12:20



アルコール中毒

 

 

焼酎辞典         その2
『ザ・焼酎』(1984.4)から


【アルコール中毒】

 酒は五臓六腑にしみわたるものだが、20%は胃、残りは腸で吸収される。血液中に入ったアルコールは細胞膜もほぼ自由に通り抜けられる。体重一キロ当たり一グラムの
アルコール(25度の焼酎を体重60キロの人が生[き]で飲んだら一合半程度)を一時間かけて飲んだ時、標準で血中アルコール濃度ゼロになるのには八時間前後。この三倍以上を毎日飲めば酒が切れることはないわけだ。この状態が続くと、アルコールなしに過ごせないアルコール依存症に陥りやすい。
アルコールがなぜ麻薬と同じように習慣性・依存性を持つのかは、まだよく判っていない。少量のアルコールは血行を良くし、全身の細胞を活発にするが、脳の網様体を麻痺させ、新皮質を抑制して、ふだん抑圧されている古い脳を一時的に解放する。酔いが進むと旧皮質も抑制され、感覚も鈍り、運動機能も麻痺してくる。初期には軽い覚醒作用を持ったものとして,その後完全な抑制作用をもったものとして働くので、向精神薬としての用途は古来非常に広かった。使い方一つで、気付け薬にもなり、睡眠薬にもなり、いろいろな意味での精神安定剤になりうるわけだ。しかしこの興奮ー抑制のバランスが崩れると「悪酔い」し、自己破壊的な酩酊状態が生ずる。アルコール依存症には身体的な面と精神的な面と両方がある。モルヒネなどの禁断症状が自律神経系を中心とするのに対し、アルコールの場合は中枢神経の破壊に向かい、死に至る危険はアルコールのほうが深刻である。こうした状態に自分を追い込む動機はたいていの場合「人間関係の病」にある。酒は「治癒」であり、解放であると同時に自己欺瞞でもあることが自覚されないと依存が生じやすい。主婦、少年のアルコール依存が大きな社会問題になりつつある中で、酒販店初め関係者の責任は大きい。

アルコール添加

 日本は、サトウキビをしぼった廃液[廃糖蜜と呼ばれる]の世界一の輸入国である。タダ同然のこれから原料用アルコールを作るためだ。ブラジルでは同じ素材から燃料用アルコールを取って自動車を走らせている。廃糖蜜だけでなく、サツマイモ、ジャガイモ、木材からパルプを取った後の亜硫酸パルプ廃液などからもモロミを作っている。このアルコールを水で割って、5%以下の本格焼酎その他で味をつけたのが焼酎抗類。このアルコールが清酒、ウィスキーには五割から七割まで増量のため入れられている。一時ロバートブラウンの広告で「原料用アルコールは一滴も加えていません」と明らかにサントリーを皮肉ったCMが出て話題となったことがあった。今は清酒がアル添の表示が義務づけられているが、表示義務のないいっさいないワイン・本格焼酎が問題である。[今は表示基準は大きく変わっている]

アルコール度数

 酒の中に含まれるアルコールのパーセンテージを言う。酒税法によれば、温度が十五度の時に、容量で測った百分比のこと。アルコールの比重は摂氏十五度で0.8弱なので、比重計を使って度数が計れる。醸造酒では日本酒・黄酒[紹興酒]・マッコリが15?20度(日本酒の標準は16度)、ワインが10?12度、シェリーが12?14.5度、ビールが4度、スタウトで8度である。アルコールの沸点は78.4度なので、蒸留によって度数の硬い酒を作ることができ、それが蒸留酒である。100%のアルコールというのは現実には存在せず、常に水分その他を含んでいる.蒸留して最初に出てくるのは70度を少し上回る度数のもの。時間が経つに連れて度数が低くなり湯に近づくが普通は平均40度前後を原酒と市、貯蔵してそのまま出したり、割り水して25度にしたりする。


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2016年11月焼酎辞典 その3

2016年11月11日 12:21



焼酎辞典 その3



 

焼酎辞典         その3
『ザ・焼酎』(1984.4)から


【奄美の焼酎】

 鹿児島県の中でも奄美諸島は独自の風土と文化を持ち、沖縄と一緒に「琉球弧」と呼ばれることもある。沖縄の泡盛とも、鹿児島の芋焼酎とも違う黒糖焼酎を持っている。砂糖きびからとった黒さ等と米を原料とし、日本のラムといわれる味わいの深いものである。
もともと奄美には「ミキ」とよぶ口かみ酒があった。17世紀に甘藷(さつま芋)が伝世してからは、米の澱粉に甘藷を加えたミキが作られた。現在でも名瀬市内などでは、放置しておけばどぶろくになるミキを紙パックで菓子屋居酒屋で売っているし、家庭でも作 る。 
焼酎の起源に関してははっきりしないが、沖縄から泡盛が早い時期には言っていたと見られる。1850年代に大島に流された名越佐源太の記録した『南島雑話』によれば、泡盛より水分の多い米焼酎をはじめ、さまざまな材料を焼酎にしていた。しいの実、そてつ、栗なども使われた。留汁焼酎とよばれているのは砂糖きびのジュースを添加したもので、当然発酵もよく、おいしいものだったろう。今日の黒糖焼酎の原型といってよい。しかし砂糖は極端に高価なものだったので、とくに薩摩版の財政が窮迫して「黒糖地獄」になってからは一般に作られることはありえなかった。島津の役人は販売用でない密造焼酎作りには総じて寛容だったが、黒糖生産の時期には生産が落ちるのを恐れて禁止した。
明治に入って、沖縄から渡って来た者が[米を使った]本格的な泡盛製造を始めた。それによって砂糖やそてつ、雑穀での焼酎作りは衰退する。しかし、昭和の十五年戦争の時期に奄美諸島は孤立し、豊富にある砂糖で焼酎を作り始めた。アメリカ占領下でも、砂糖を島外移出できないため黒糖による酒作りはますますさかんになった。琉球政府は自家製造を奨励しさえした。
日本の酒税法では砂糖による焼酎製造を認めていなかったが、復帰時に[1946年2月から1953年12月まで奄美は米軍に占領された]この実績が評価されて、奄美諸島に限って認めることなった。スビリッツ類として高い酒税をかけたいラムと区別するため、黒糖を使い、米で一次仕込みをする条件で奄美特産の黒糖焼酎が誕生したわけである。
現在奄美諸島に30の蔵元があって黒糖焼酎を作っている。島内ではすでにじっくり定着している。一時[占領の影響で]洋酒志向が強まったが、焼酎への戻りが進んでいるようだ。今年120歳になる世界一の長寿者泉重千代の黒糖焼酎愛好にあやかりたい気分も強いようである。
喜界島には安定した銘酒と評価が定着している〈朝日〉がある。
奄美大島で双璧とされるのが〈八千代〉と〈弥生〉で、奄美の生活の中に溶け込んでいるが、最近は全国的にも評価が高い。ソフト化対応をそれぞれ工夫していて、〈八千代〉は樫樽貯蔵で先鞭をつけ、〈弥生〉もまた〈まんこい〉を出しているが、やや洋酒タイプの感覚に引きずられた感もある。〈加那〉〈高倉〉なども水準が高いが、樫樽風味を強調しない熟成がもっと試みられてよい。
徳之島の六社共同銘柄で出している〈奄美〉もきれいな酒だがやや奄美があとくちに残るのが残念だ。沖永良部島は水がよく、全体に水準が高い。共同銘柄〈えらぶ〉もよいが、〈水蓮洞〉とその地元向け30度〈天下一〉は群を抜いて好い。水蓮洞と同じく鍾乳洞の名をつけた〈昇龍〉もいい酒だ。
与論島には〈有泉〉があって、これも評価が高い。
黒糖焼酎は生でもお湯割りでもうまいが、日本の焼酎の中では特にカクテルなどにしやすく、ロックにも向く。だからそうした需要を開発して行くことも大事だろうが、県外に出ているものはややソフト路線が勝ちすぎている印象がある。

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2016年11月焼酎辞典 その4

2016年11月11日 18:42



沖縄の人の泡盛への愛情はとても強い



 

焼酎辞典         その4
『ザ・焼酎』(1984.4)から


【泡盛】

 沖縄の人の泡盛への愛情はとても強い。「焼酎が」というと訂正されて「いえ、泡盛です」といわれたりすることがあるほどだ。むろん泡盛は焼酎だし、代表的な本格焼酎なのだが、他の焼酎と一緒にされてはかわない、というぐらい誇りがあるわけだ。奄美以北の焼酎とははっきり違う点もいくつかある。まず麹が違う。九州のほうでは、明治前半までは清酒と同じ黄麹を使い、そのあと黒麹が入り、さらに黒麹の突然変異種の白麹が見つけられて、今は大部分白麹だ[大口の伊佐美が黒麹を使ってさつま芋焼酎を作ったのが突破口になって鹿児島でも各メーカーごとに白麹黒麹の花を咲かせるようになるが、それはまだだいぶ後のことである]。黒麹は糖化のプロセスでクエン酸を多量に出して雑菌の繁殖を抑えるので、これを見つけていなければ南国での酒造りは不可能だった。また、一次仕込み、二次仕込みを分けずに材料を全部麹にしてしまい、麹と水だけで作る点が違う。さらに原料がタイ米であることも違う。泡盛のタイ起源とも因縁がありそうだが、復帰後も特例でタイの粉砕米を輸入していて、内地米よりは価格が安定している。ねばつきが少なく、麹の着きがいいとも言われる。さいごに、かつては清酒同様新酒を飲むのが普通だった九州の焼酎と違って、ずっと昔から大きな壷に長期貯蔵した古酒(クース)を大事にして来た。それらが、泡盛独特の風格と誇りを育てて来たと言ってよい。
明治になるまで、泡盛製造は首里の琉球王府の直接の監督下に置かれていて、焼酎職という役人がいた。十五世紀には南蛮瓶には行ったラオロン酒とその蒸留法が伝わったのだが、この魏寿は長い間王家に独占され、庶民が特別の祭礼の日に泡盛を使い始めたのは十八世紀も中頃と考えられている。なぜ泡盛というのかについては諸説あり、度数系もない頃泡の盛り上がりのいいものほど度数が高くいい酒だとされたためとか(『南島雑話』にはそうして測っている図が出ている)、サンスクリット語で酒のことをアワムリというとか、原料に粟を使っていたためとかが代表的なもの。
現在沖縄、宮古、八重山合わせて47の蔵元がある。
復帰十周年に本土向け共同銘柄として発売されたのが〈紺碧〉。三年貯蔵のいい酒を使っているが、やや軽くまとめすぎで、ボトルも甲類めいていて失敗している。全国的に手に入りやすいのは〈瑞仙〉〈瑞穂〉。おいしいが県人に言わせるとやはり「県外向け」の味という。本土向けが主力で大阪でボトリングしている〈久米仙〉も同様。女の白いすねを見て落ちた久米仙人とかけてあるのだろうが,もともと久米島の酒。〈久米島の久米仙〉とことわっているもうひとつのほうは、昔ながらの作り方で、極めて質が高い。
沖縄でも好みが「ソフト派」と「伝統派とに両極分解してきているようだ。〈忠孝〉〈夢航海〉〈うりずん〉〈南光〉などはそのソフトタイプ。石垣島のものでも〈請福〉は減圧で売っているソフト派。〈残波〉も一般に出しているのはやわらかく、島内向けには〈まるたか〉を出している。〈暖流〉は樫樽貯蔵で意識的な洋酒タイプ。
〈多良川〉〈咲元〉は本当の伝統派の代表。宮古ではいま那覇ののんべの間でもっとも好まれている〈菊の露〉。文字通りの手作りを誇る石垣島の〈八重泉〉それに前記の〈久米島の久米仙〉なども高く評価されている。波照間島の〈泡波〉もやや出来不出来があるようだが手作りの素晴らしい泡盛だ。
そしていま熱狂的なファンを生み出しているのが与那国島の60度の花酒〈どなん〉と〈与那国〉の二銘柄。茅台酒などと張り合える銘酒だが、ずっと県外販売を禁じられ,やっと解禁されたら「原料用アルコール」と事実と違う表示を義務づけられた奇々怪々は本土の洋酒メーカーの圧力と噂される。
[30年後の今も〈菊の露〉〈久米島の久米仙〉〈どなん〉が手に入ればそれを飲み続けている。年取って全銘柄の変遷を確認する体力がなくなった]

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2016年11月明日の夕飯を準備する

2016年11月12日 1:59



四人くらい予約がある


 

 

明日の夕飯を準備する。四人くらい予約があるがあと何人来るかわからない。ちょっとだけ野菜の買物をして、冷蔵庫にある物で作ることにしよう。ということでこんなメニュー。
◇切り干し大根と薄揚げの煮物
何でもないようだが酒で戻して昆布だしをきかせる
◇鶏肝醤油煮
カレー粉が判らないくらい入るとおいしい
◇羊と牛のマッシュポテト和え
三四日前に作ったバスク料理を新しいマッシュで
◇ごぼうサラダ
市販のにいろいろ足して増量する
◇鹿肉の柳川仕立て
ごぼうを敷いて卵でとじる
◇一口焼売
挽肉の残り150gほどなので、ちょっとだけ
◇絹厚揚げと揚げ高野、えりんぎ煮物
残り物に見えないところがすごい
◇焼きそば
わかめ、かまぼこ、もやし、春菊、ゆでた牛肉などなど
◇残りものスープ
肝煮たり豆腐とえりんぎの煮汁とかいろいろ
◇バタピーとマスカルポーネ、サワークリーム
一時間でう四品できて、あとは明日午前中。スープとデザートは著久世かに作る。


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2016年11月和田竜『村上海賊の娘』

2016年11月12日 5:00



四冊を四日で通読した



 

和田竜『村上海賊の娘』(新潮文庫)四冊を四日で通読した。まあ集中して読めるようなしっかりした作りの小説だが、村上海賊が本拠地にしている大三島とそのすぐ脇の小さな島が大好きなのである。四国の帰りたまたま大三島に降りて、大山祇神社を見つけたときは嬉しかった。村上海賊の神社なのである。その敷地の中には鶴姫の像が建っている。私は森秀樹の漫画でしか知らなかったが,鶴姫の神社だというので満足した。この島で安くて豪勢な海鮮料理を出す旅館をたまたま見つけて、そこをひいきにした。そこに三度ほど行っている。だから『村上海賊の娘』を読み始めた時、てっきり鶴姫と誤解してこの「娘」を了解していた。だがこの話は別のおてんば娘の話で、鶴姫から40年くらいたっての村上海賊の物語だった。
いまの大阪城の地にあった本願寺が信長に抵抗していて、信長が封鎖して兵糧攻めにしようとした。信長に対抗していた中国の雄毛利氏がその封鎖を打ち破って船で米を運び入れようとする。信長の軍は泉州の海賊に頼って、封鎖線を敷く。それに対して毛利の方は村上水軍に頼って、封鎖を打ち破り、食糧を届けようとする。ただ毛利の方の総大将は背後から上杉謙信が参戦してくれない限り、海からだけの突破は無理だと考える。千艘の船を動員し、そのうち700艘には米が積んである。ほぼ同数の300艘が木津川の出口を守っている。数ヶ月たつが、謙信は動かず、引っ返すことにしたときに、そのはねっえり娘の影(えい)が単身で船を進めて、泉州の海賊と瀬戸内の海賊のことであるから、闘わずに食糧を届けさせよと交渉に行くが、結局は決裂する。それから始まる凄まじい海戦が物語の半ば以上を占めている。信長側は負け、餓えつつあった本願寺は食糧を得る。
だが、影は初陣にして二度と闘えないような凄まじい闘いを体験する。
大三島には伯方の塩の工場があり、海水の温泉がある。その温泉から見えるすぐの所に村上海賊の本拠があったようだ。またぜひ入ってみたい。


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2016年11月焼酎辞典         その5

2016年11月12日 11:47



壱岐の焼酎


 

 

 

焼酎辞典         その5
『ザ・焼酎』(1984.4)から


【壱岐の焼酎】

 壱岐の島は沖縄鹿児島など南方におとらぬ焼酎どころ。四万人程の島に十二の藏があって伝統の味を競っている。
その起源はよくわかっていないが、朝鮮半島との飛び石になっているその地理的条件から見て、タイー琉球ルートとは別の,中国・朝鮮からの伝来が想像される。一次仕込みを米でやり、二次を倍量の麦でやる「米麦焼酎」であるのが特徴。米の焼酎はコクが出るが油臭さが出る場合があり、麦は軽く飲みやすいがもうひとつ深みに欠けることが多く、両者のいい所を生かして絶妙のバランスを作り出しているのが壱岐の焼酎だといえよう。
壱岐焼酎の評価を全国的にしたのは〈天の川〉で、十年ほど前から東京の酒好きのあいだでも愛好された。十二社の中でもダントツで全売上の半分を占め、あと半分を残りが分け合っているかたち。しかし近年はソフト化路線まっしぐらで濾過が極端になり、昔からのファンを哀しませている。地元でも一時「まずくなった」と落ちたが、また少し回復しているとか。
酒の品質で一貫して高い評価を受けているのが〈山之守〉。上品で端正、まろやかでありながらコシがあって、うすめても風味が落ちない。従業員の食事のために包丁をとり、「社長だけ一皿多いというようなのはダメ」と語る山内社長の気さくな人柄そのままの焼酎である。
せまい島でありながら、十二社十三銘柄よくぞ個性が違うというくらいに多様なところがいい。〈壱洲盛〉は洗練されたまろやかさを持ち、ちょっと甘い匂いと切れ味のよさが特徴。〈泉川〉も日本酒に似た甘い香りを持つが軽すぎる面もある。とっつきがよく試飲セールでもよく出るという〈白椿〉。これも上品な味である。素朴で「焼酎らしい」造りををしているのが〈壱岐〉〈雪洲〉〈猿川〉など。
この壱岐で,ここに念ほど行政と業界を巻き込んであれこれもめたのが共同化問題。長崎県としては、海産物か甲に次いで製造業の二位を占める焼酎製造をもっと大きくした石、折からの本格焼酎拡大に対応しようと、全藏一本化しての共同銘柄を提案した。ちょうど奄美徳之島の〈奄美〉のように、全島がひとつになるきらいでないと、基礎になるシェアも持てないということで、確かに零細蔵元が共同銘柄を作って経営的に成功した例は少なくない。反面、伝統の味が失われたり、手抜きが出たり、寄せ集めるため品質が安定しなかったり、均質かしようとすると濾過が強くなったりというマイナス面も指摘されて来た。とくに、それぞれが個性の強い壱岐の焼酎である。業界は、近代化のためのチャンスと言う積極派と、従来通りを守ろうという消極派に分かれた。結局、清酒兼業の藏が中心になって、〈泉川〉〈壱洲盛〉〈壱岐の島〉〈白椿〉〈酔心地〉〈壱岐白梅〉の六銘柄が、ただ銘柄を共同するのでなく合同して新しい焼酎を作り、残り六社はこれまで通りやっていくことになった。規模がほかと違う〈天の川〉や独自の伝統技術を誇る〈山乃守〉は合同に参加しなかった。早ければ85年春から、新銘柄〈壱岐っ娘〉が発売される。これだけ個性のある焼酎が一緒になってしまうのはもったいないという声もあるが、それだけの智慧を集めればどんな焼酎ができていくか、楽しみでもある。むろん時流迎合だけに流れることはあるまいが、「ソフト化」の要請に、もともと上品でマイルドな壱岐焼酎がどういう答えを出していくか注目される。将来的にやや気になるのは原料問題。本来島の何倍もの人口を養える壱岐の農業で、米どころでもあるが、以前の豊富な麦作はすっかり影をひそめて外麦依存になっている。品質安定のために県としても原料地元化をすすめたいところだ。


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2016年11月焼酎辞典 その6

2016年11月13日 2:11



伊佐・大口


 

 

焼酎辞典         その6
『ザ・焼酎』(1984.4)から


【伊佐・大口】

 県内どこへ行ってもいい焼酎のできる鹿児島の焼酎地図の中でも、最北部にあたる大口市と伊佐郡とは、一番の酒どころとされている。大口市の焼酎も〈伊佐美〉〈伊佐錦〉といずれも伊佐を冠している。このあたり水もよく、伊佐米も最高の品質とされる。〈伊佐美〉は黒糖を使った昔ながらの手造りで、少量ずつ極上の品を出しつつけてさつま焼酎ベスト・ワンの評価を多くの人から受けてきたが、県外での伊佐美ブームの加熱には戸惑い気味。〈伊佐錦〉は大口市の11社の共同銘柄でこれも質は高い。伊佐郡菱刈町の〈伊佐大泉〉もちかごろ注目を集める。この地方は山一つはさんで熊本の人吉,宮崎のえびのという酒どころと向かい合い、大口市の郡山八幡神社からは永禄年間(1559年)に書かれた最古の焼酎の記録(宮大工の落書き)が出た焼酎ゾーンだ。

伊豆諸島の焼酎

 東京都内で作られる江戸時代よりの伝統焼酎。甘藷で作られ、鹿児島および地続きの宮崎南部以外での唯一の芋焼酎である。17世紀に八丈島の名主が難破した時、新島で薩摩からの漂流社から種芋をもらったのが甘藷栽培の起源。幕末に密貿易で流罪になった阿久根の承認が芋焼酎の製法を教え、多いに感謝された。それまでは粟と米と麹で濁酒を作っていたが、とぼしい穀類をそうそう酒にすることもできず、飲酒は極めて限定されたものだったのが、甘藷で強い酒を容易に得られるようになったのは生活上の大きな変化だった。伊豆七島に十三の酒造があるが、ほとんどは島内で読まれている。八丈の〈鬼ごろし〉や〈島の華〉などは東京都内に出されていて高い評価を得ている。どれも素朴な風情でこれからが楽しみだが、甘藷農家の減少が心配されている。

芋と芋焼酎

 日本列島に最初の統一政権が成立して以来、米は支配のためのメディアであり続けた。大和朝廷は米の貢納制を成立基盤としていたし、戦国時代にも土木治水技術の発展による米の生産能力が軍事力の基礎となったので、幕藩体制は米の坎離を柱とし、その石高で政治力を表現した。その構造は今でも名残がある。米中心の日本史がイメージされるのも無理からぬところだが、近年、芋や雑穀が庶民生活の実際に取っては大きな意味を持ち続けたことが注目されている。もっぱら稲作中心に常民概念を組み立てた柳田民俗学を芋が持った意味を掘り出して来て批判した坪生洋文氏『イモと日本人』はその一例だ。稲作以前に最初の濃厚として南方から伝わって来たのがイモ栽培文化だった。米作のように大規模な管理を必要とせず、自然破壊をともなわない「裏庭栽培」でタロイモやヤムイモを作った。 
旧風俗をハレの日の習俗として生活博物館のように保存する日本人は、正月の雑煮にイモを入れたり、中秋節に衣かつぎをそなえたり、収穫祭に芋煮会をしたりする広汎な週間を今も残している。これらは里芋、山芋だが、南島と薩摩をはじめ、イモ文化がとくに濃厚に残っている地域で、近世の甘藷文化も定着したのは興味深い。イモがはっきりと政治的オルタナティヴであり続けた地域では甘藷はただの救荒作物以上の意味を持った。壱岐では麦がこの意味の「もうひとつの作物」だったわけだ。
ただし、沖縄、奄美では甘藷が日常食として貴重だったので甘藷の酒は発達せず、いくぶん余裕のあった薩摩でイモ焼酎が花開いた。鹿児島、宮崎南部、伊豆諸島のみに残る芋焼酎はイモ栽培狩猟民文化の深い痕跡につながるものといえる。最近沖縄で「芋の会」が伝統食であるイモを復権して主食がほぼ100%本土依存になっている状態を改めようと提案しているのは注目される。


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2016年11月今日の昼は

2016年11月13日 7:57



玉子雑炊 醤油、あご出し 春菊



 

 

今日の昼は。
玉子雑炊 醤油、あご出し 春菊
唐辛子入り腐乳
ニンジン葉、サラダ菜、トマトのフレンチドレッシング
山芋と豆腐の明太ソース
羊の醤油煮スライス
キャベツのちょっと漬け
りんごとバナナとピーナツのサワークリーム和え
佐賀のみやげの一口洋館
冷蔵庫の余り物ばかり。500円です。


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2016年11月焼酎辞典 その7

2016年11月14日 0:21



ウィスキー


 

 

焼酎辞典         その7
『ザ・焼酎』(1984.4)から


【ウィスキー】

 代表的な蒸留酒の一つ。焼酎全体の中で位置づければ、大麦ベースの焼酎で、ピート(泥炭)と樫樽のフレーバーを強烈に付けたイギリス辺境部の地酒ということになる。スコットランドもアイルランドもブリテンによって征服された民族だが、その被支配者の文化が大英帝国の権威を支える皮肉な結果となった。最初のウィキーは16世紀初めにアイルランドで作られたと見られている。ビールやミード(蜂蜜酒)、ワインしかないところに強い蒸留酒が登場し、驚きをもって「生命の水=ウシュクベア」とよばれた。もっと本来のアラックに近い北欧のアクヴァヴットも、ブランデーの異称オー・ド・ヴィーも同じ意味である。
18世紀の初めにスコットランドがイギリスに占領されたのち、英国王はこの酒に従来の十五倍の税金をかけた。税金を払う業者は重税のため粗製濫造して、ウィスキーの伝統は壊滅する。しかし、山中に密造所ができて昔の味を守った。オールド・スマグラーという銘柄のスコッチが今でもある。誰もがあらそって密造のものを買い、生産量は表のスコッチを圧倒した。
大麦を発酵させてピートの煙で成長を止め、それを発酵させ、蒸留するのでモルト(麦芽のこと)ウィスキーといわれた。これに対し、19世紀に連続蒸留機が発明され、穀物を原料とするライトなグレン・ウィスキーが作られるようになった。モルト・ウィスキーはコクがあるが風味が強すぎるのでこのグレン・ウィスキーとブレンドすることで、一般受けするスコッチ・ウィスキーが作られた。アイリッシュ・ウィスキーは単式蒸留機によるグレン・ウィスキーをブレンドなしで出し続けたのでスコッチほどの大衆性を持たなかった。スコッチは現在百余りのモルト蒸留所から数種から多い所では40種のモルト・ウィスキーを買ってブレンドし、それとグレン・ウィスキーをマリッジさせて作る。その銘柄は、副業に時々作られるものも入れれば2500ともいわれる。スコッチ、アイリッシュの他に北アメリカにはカナダのカナディアンとアメリカのバーボンがあるのはご承知の通り。
スコッチの品質がこれだけ世界的に売れても一応の水準を保っているのは、伝統保存に熱心なヨーロッパ人気質とも言えるが、三年貯蔵が義務づけられていて、その藏のカギを女王陛下に預ける「品質管理」の徹底ぶりにもよる。これと比べると日本ではグレン・ウィスキーをgrainではなくglen(谷=山崎の谷のこと)と綴って廃蜜糖のアルコールを五割近く入れたり、貯蔵の暇がなくてカラメルで着色したりが堂々と行なわれている。この味をごまかすために水割りが奨励されて来たわけだが、水割りアルコールをさらに水割りするのはチューハイと同じことになる。日本のウィスキーについては日本消費者連盟編『本物の酒を』(正続・三一書房)参照。

ウォッカ

 ウォッカはロシア語の「水」ヴォダからの名前。モスクワ公国時代(13世紀から)には飲まれていて、ヨーロッパ最古の焼酎と言える。
西側の酒との交流はほとんどなかったが、19世紀に亡命ロシア人ピエール・スミノフがアメリカに伝え、禁酒法時代の後「ジュースに入れてもわからない酒」として人気をよんだという。スミノフの名前は現在の最大のウォッカ・メーカーの名前として残っている。
ジェームス・ボンドのシリーズでウォッカのカクテルがしばしば登場し、「じゃがいもでなくライかコーンのウォッカだとみっといいんだが」の台詞もあるが、日本の甲類と煮て高い度数まで蒸留し、炭素できれいにしてしまうので区別は難しい。アメリカで「白色革命」を引き起した。日本では最近薬草入りのポーランド製ズブロッカやブランデー添加のスタルカが人気。


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2016年11月豆乳作りの名人

2016年11月14日 0:44



30年も技を磨き続ける



 

豆乳作りの名人、30年も技を磨き続ける
jp.xinhuanet.com | 発表時間 2016-11-04 09:50:13 | チャイナネット | 編集: 郭丹 小中大

干大林さん(55)は浙江省余姚市朗霞の出身で、「朗霞柴焼豆乳」は市内でも有名だ。干さんは幼いころから、薪で作った豆乳を飲んでいた。その清々しい香りが心に染み込んでいる干さんは、豆乳作りを学ぶことを決めた。

1985年、24歳の干さんは徐国香氏に師事し、豆乳作りの道を歩み始めた。豆乳作りはすぐに覚えられるが、上手に作るためには時間と経験が必要だ。

干さんは3年間学び、1987年に独立し、街で豆乳売りを始めた。干さんは30年前を振り返ると笑みを浮かべ、「あの頃は人の多い所、市場や歌をうたう場所にも出向いていった。天秤棒でドラム缶、鍋、碗、調味料を担ぎ、街を歩いていた」と語った。

香りのいい豆乳を作るには、豆を選び、水に浸し、砕き、濾過し、煮沸し、味を整える必要がある。大豆は成長期間が長く、丸々としたものを選ぶ。1キロの大豆で豆乳40杯になり、それ以上薄めれば味が悪くなる。次に清潔で汚染されていない水を用いる。それから薪で火をつける。最後に醤油、酢、スパイス、化学調味料、ワケギなどの調味料にもこだわる。

師匠の「秘伝」を受け継ぎ、独自の改良を加えた干さんの豆乳は、ますます有名になっていった。干さんも街を歩かず、朗霞中街で店を開いた。助手は妻の林建芬さんだ。

夫婦は毎朝4 5時に起床し、夜のうちに浸しておいた豆を洗って砕き、鍋に入れ、薪で火をつける。火にあぶられ、豆乳がゆっくりと沸騰するころ、夜が明ける。街は目覚め、住民が続々と店内を訪れる。濃厚な豆乳一碗で、新しい一日の胃の調子を整える。

住民は午前と午後に豆乳を飲む習慣を持っている。そのため夫婦は毎日大忙しで、1年のうち旧暦の大晦日と元旦しか休むことができず、旧暦の1月2日から働き始める。余姚、慈溪、さらには寧波からもその味を慕い、車を数十キロ運転し訪れる「食いしん坊」がいる。彼らは豆乳を飲むと、満足して帰っていく。夫婦の小さな店は通常、1日で600 700碗を売り、週末は1日で1000碗以上売ることもある。

干さんの豆乳は2007年に、余姚市無形文化遺産保護リストに登録され、2010年には寧波市無形文化遺産伝承基地に指定された。夫婦は浙江省農業博覧会などの大型見本市で技を披露し、「食いしん坊」たちから好評を博している。

娘も幼い頃から両親の働きぶりを目にし、豆乳作りの技を覚えた。婿は店に豆乳を飲みに来て娘と知り合い、ついに結婚した。娘と婿は大学を卒業すると、余姚市で豆乳店を開き、商売繁盛した。干さん夫婦はこれを喜んだ。干さんは「私たちはもう年で、あと数年もすれば退職し、外の世界を見に行く。私の豆乳は今後、若者たちが発展させていく」と語った。


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2016年11月健身気功協会公開研究会

2016年11月14日 12:58



津村喬の定例講習です。


 

 

 

11月19日(土)健身気功協会公開研究会
津村喬の定例講習です。
3時から5時エル大阪(天満橋すぐ)
内丹気功へのさまざまな入り口
胡麗娟伝授道教八段錦
張宇外丹功簡略版
真気運行法第二段階まで
易筋外経
講義 道教・道家・道学・仙学の区別について
会員  2000円
一般  2500円


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2016年11月土日は五人ずつ来た

2016年11月14日 23:19



最近では多い方だ



 

 

土日は五人ずつ来た。最近では多い方だ。土曜は易筋外経の六までの読み合わせをして動作をするというのをていねいにやって、それぞれ誤解して覚えていたのを修正した。三こまめで新しい人が来たので、背骨ゆらしとグルーミング、諸病源候論の導引を一時間半やった。わかりきったことでも、やるたびに再発見がある。
立ち方の基本を話しているのだが、何十年とベテランの人がまだちゃんと聞いたことがないと一生懸命メモしているので、教える方がびっくりする。何千回となく一緒にやってきたことなのに、はっきり記憶に残っていない。ということは彼らの生徒さんにも伝えてないということなのだ。それを原典から説明する。この場合は『陳氏太極拳図説』の挿画を見せることから始まる。
そのあと食事会。前に予告した通りに作る。
翌朝こちらは九時から一人で教室に坐っていたのだが、fbに間違えて10時からと書いたようで、皆さん10時に集まった。遠方からの人もいたので、申し訳なかった。昨夜確認すればよかった。
午前中は新しいメンバーも加えて、外経の7から12までした。最後に通して一度やってもらう。また少しずつ各自で誤解していた所が出てくる。テキストは書いたらわかったと思っているが、こういうていねいな読みすすめも大事なのだなと反省する。
お昼も前に書いた通り。
健身の教科書に書いた側頭葉と声の文章を紹介してまた一通り声の気功をする。露伴研究会と丹学研究会の紹介をする。なぜ露伴?と思って来たが、露伴が気功の基本文献乃解説をしていることを初めて知った。
時間通り帰る人は帰って、後の人は九時が十時になった分少し延長する。張宇外丹功の希望があり、一度通してやる。一人昨日からすごく肩首がこって苦しそうにしている人がいたので一時間ほど門で揚げる。時間が沢山あるときはもう少し痛くないのをするが、短時間でまたとう分合えないというときは、かなりきつい刺激をして後に残す。もうひとりが見学して、一緒に顔をしかめている。


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2016年11月北大路の鴨川沿いの古本屋

2016年11月15日 0:35



なんというのか


 

 

 北大路の鴨川沿いの古本屋、なんというのか、いつも自転車で信号で止められて、外に積んである本を眺め、たまに買ったりしていただけだった。中に入ったのは三度目くらい。いつも欲しい本が山のようにあって、ため息ばかりだ。今日は文庫の所に梅原猛の竹内均との対話『闘論2科学への挑戦』徳間を見つけた。100円。すぐ隣に『学問のすゝめ』角川、『日常の思想』集英社が150円と200円。これは買い、だ。中へ潜り込むにはかばんをはずさないといけない。100万くらいもってこういう本屋に来たい。その中に埋もれていた安居香山の『緯書』があった。明徳出版社。1100円。これは買わないわけに行かない。著者の本は一冊持っているが原典がなかった。立派な印鑑が一つ押してあるが、はがきや別巻索引の引換券が買ったままには行っているのは読まなかったということか。大事なコレクションである。
実はその先のリカーマウンテンまで酒を買いに行った。ここは並びの酒屋よりはいいがあまり品揃えがない。焼酎など最近のちゃらちゃらしたものばかりで、一度試してみようと買ってひどい目にあった。すでに知っている銘酒以外はもう試してみない。で、泡盛は菊の露である。焼酎は少し探してみて、耶馬誉という日田天領水で作った麦を買った。サングリアの590円のがあったので買った。ワインはさんざん迷ったが普段飲むために三リットルのポルタ6を買った。3000mlで普通の四本分が入っている。1680円。1200円台のがいろいろあるのだが、リスボンの市街の情景のイラストがよくて、こんな絵を毎日見ていたと思ってこれに決めた。路地を市電が走っていて、男が七輪みたいなもので魚を焼いている。二匹載っていて目は×印。近くで猫が一心に待っている。男はなにやらオレンジ色の液体を手にしていて、七輪からは煙があがっている。二階からは女が靴下を干している。レンガ造りの三階や四階が立て込む路地の風景である。
そこから少し鴨川近くに戻った白雲に久々に来たかった。五時半。誰もいない口開けの客である。鳥の唐揚げと餃子と撈麺、ビール。昔ながらのなつかしいキリンのボトルである。唐揚げはやたらに量が多く、数えていないが30個以上ある。三人で食べても少し多いというくらい。餃子もありふれているが焼き方がうまい。撈麺はこのあたりいくつかの店でしているが、あんかけ焼きそばで、ここに来ると食べてしまう。
キリンの一本はよく効いた。昔はなんでもなかったのに、重い酒瓶を抱えて、ふらつきながら帰った。


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2016年11月焼酎辞典    その8

2016年11月15日 11:53



大分の焼酎



焼酎辞典         その8
『ザ・焼酎』(1984.4)から

大分の焼酎

 ここ二、三年東京で人気を読んで異常なまでの伸びを示しているのが大分の麦焼酎。伝統派なく、清酒圏に属する地域で、メーカーもすべて戦後のスタートであるため,都会の好みに合わせて行きやすい面がある。
代表的なものに二階堂酒造の〈二階堂〉と〈吉四六〉、三和酒造の〈いいちこ〉、八鹿酒造の〈麦っ娘〉などがある。〈いいちこ〉は「した町のナポレオン」をキャッチフレーズに東京・大阪になぐりこんで成功。二階堂の二銘柄もとくに東京で高く評価され、品不足のため数倍から十数倍のプレミアムがつくという異常な過熱人気となった。麦焼酎がもともと軽いうえに、濾過できれいに「焼酎臭さ」を除き、砂糖添加で甘口に飲みやすくしたことが成功の原因と見られるが、チューハイ・ブームには載れても、本格焼酎の風味を失っては飽きられやすいのではないかと懸念されている。[30年後の今日まで〈二階堂〉〈いいちこ〉が生き延びてしまったのは、東京大阪の焼酎好きと自分で思い込んでいる人々の趣味が如何に悪いかの証明である]蒸気四銘柄はいずれも糖添(〈麦っ娘〉は別に無添加を出している)で、〈豊後オックス〉が「糖類無添加」をタスキにして売り物にするほど糖添が一般化してしまった。はと麦の〈はと〉、椎茸の〈木こり〉、銀杏の〈ギニャック〉、サフラン入りの〈サフラン〉など目新しい素材のものは多いが、いずれも「晩酌にたえる」質までいつていない。
大分で「古典」になりうる仕事をしているのは旭酒造で、麦焼酎〈三拍子〉米焼酎〈耶馬美人〉いずれも本格的な銘酒。〈耶馬美人〉は酒博士穂積忠彦氏から「ライス・ブランデー」の称号をもらっている。大分スタイルの麦焼酎にかんしては文字通り元祖で、自分が教えた二階堂が元祖を名乗っているので名誉のために大元祖と書いているが、競って売り出す気はなく、増石しないで品位を守ろうとしている。

桶買い

 有名な蔵元が中小零細の酒を買って自社ラベルで売ること。日本酒で言うと剣菱の82%、松竹梅の75%、富久娘の73%、月桂冠の67%がよそから買い集めたもの。本格焼酎も以前から四つ敗した酒を横流ししたり、アルバイト的によその下請けをする非課税売りがあったが、一部の本格焼酎が急激に拡大することで一気に増えた。芋焼酎は冬場だけの仕込みで設備があくため、大分の麦、宮崎のそばなどの下請けをすることが多く、115社中30社が桶売りをしていて、自社銘柄をほとんど作らない所もある。84年には芋の生産量を一時的にせよ上回った。大分の二階堂の場合灘の大手並みの桶買いをしていると見られている。桶買いをすると多様な商品を混ぜるので個性どころでなくなり、徹底的に濾過して甲類に近いものを作ることになる。

お湯割り

 本格焼酎の基本的な飲み方。
花酒は少しずつストレートですするのが本筋だろうし、泡盛は気候風土にもよるが水割りがうまいが、芋焼酎と伝統的麦焼酎はお湯割りが焼酎のうまみを引き出すのに一番いい。球磨焼酎は30度のまま燗をつけるのがトラディション・スタイルらしいが、今はお湯割り、ストレート、ロックと多彩に飲まれる。〈白波〉が「六四」(焼酎が六、お湯が四)を大いに宣伝して、焼酎はお湯割りにするものとひろめた。「ロックがうまい」と売り出したのはそば焼酎の〈雲海〉だ。ロックの方が風味を殺して飲みやすいが、お湯割りの方はごまかせない。六四とは焼酎が六だが今は五五くらいが好まれ、藏もそれに合わせてきている。六四と四六では違う酒のように思えることが多く、季節や体調によっても違う。好きな銘柄の最適の比率は自分で探すしかない。


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2016年11月丹学研究会へのよびかけ

2016年11月15日 11:56



気功研究の新段階へ


 

 

丹学研究会へのよびかけ
気功研究の新段階へ

 すべての気功は導引から内丹・丹学・仙道を目指すものですが,従来の日本の気功ではそれを専門に研究して行こうと言う動きが明確に形をなしていませんでした。中国道教協会会長陳?寧は気功とも道教とも一段階違った仙学の大構想を持っていましたが、文革で不幸な弾圧に逢い、実現することができませんでした。
中国でも丹学研究はこれまで何人かの資質ある学者や練功家の間でのみ論議されてきましたが、昨年の北京での胡耀貞研究会設立三以来、やっと気運が熟してきました。日本でも、極めてマイナーな形で陳?寧気功、胡耀貞気功として研究されてきましたが、個人の作業でなく、集団的なつながりの中で、丹学研究を発展させ、日本の気功に新天地を開いて行きたいと思います。
気功は導引・吐納・静定・存思・内丹の五大部門から成ると言われてきましたが、日本で広くやられて来たのは導引・吐納・静定のみで、存思・内丹についてはほとんど本格的な研究も実践もされてきませんでした。そして前述のように、存思・内丹には旧来の気功と次元の違う分野が含まれています。私たちは改めてここに丹学研究の旗をかかげて、出発し、ひろく同学を募っていきたいと思います。
(1)関西と東京で隔月で公開研究会を開催して行きます。
(2)雑誌『丹学研究』を当面年二回、将来は年四回発行して行きます。準備号(ゼロ号)を年内に発行します。
(3)毎年三月に大同の胡麗娟さんを訪問して胡耀貞気功を習います。
(4)北京で年に一度、日本の関西で年に一度中国の老子道学文化研究会・胡耀貞研究会と日本の丹学研究会の公開シンポジウムを開催します。これによって中国と日本の研究者・愛好者が互いに訪問し合って交流を発展させて行きます。
(5)存思・内丹研究の場を各地に作り、自主的に研究し、また必要なら本部から講演者、実践指導者を派遣します。丹学指導の指導員システムを作り、丹学の指導者を積極的に養成します。
(6)内丹研究に必要な中国語の書物の日本語訳を進めて行きます。
(7)関連のDVD等を発売して行きます。
(8)気功文化研究所の図書室に丹学コーナーを作り、閲覧できるようにします。
(9)丹学研究会のホームページを作ります。
(10)この研究会は当面気功研究所内に事務局を置きます。

 当面『胡耀貞静動気功研究』のほか、『陳?寧仙学精要』胡海牙『仙学養生文集』王沐『内丹養生功法指要』『悟真篇浅解』胡孚?『丹道仙術入門』『丹道実修真法』陳兵『丹道修練養上学』張三?『太極丹経』などから、読書会をしたり少しずつ翻訳を進めたりして行きます。よい関連資料をお持ちの方はご提供ください。丹学文庫に加えて行きます。
『丹学研究』ゼロ号を十二月初頭をめどに作って行きます。ご協力のほどお願いいたします。

 まだ試案ですが,年会費12000円としたいと思います。
当面三月の大同訪問に重点をおいてよびかけていきます。

丹学研究ゼロ号 12月発刊予定

仙学・道家・道教の概念について 津村喬
《翻訳》陳兵『道教修練養生学』の全体の目次と代序抄訳
『陳?寧仙学精要』胡海牙『仙学養生文集』の目次と出版説明抄訳
王沐『内丹養生功法指要』『悟真篇浅解』の目次
胡孚?『丹道仙術入門』『丹道実修真法』の目次と・引言
胡耀貞気功を習いに大同へ       濱野清志
周易参同契の日本語訳         定方昭夫
《翻訳》仙学修練と精気神       胡孚?
幸田露伴の道教と丹学の研究について 津村喬
◇丹学研究会へのお誘い
◇中国の老子道学文化研究会胡耀貞研究会について
◇三月大同へ
◇通信制内丹指導員研修


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2016年11月今日はアイルランド料理を研究

2016年11月11月15日 18:25



夜ご飯だ



 今日はちょっとアイルランド料理を研究してみる。材料を買って来た。夜ご飯だ。
アイルランド料理の本を図書館で借りて来た。トルコ料理とかバスク料理のような一風変わったものより、割合常識的な西洋料理の知識の範囲内ともいえる。でもビーフとニンジンとタマネギのシチューに、ギネスを200ccも入れてしまう所が違う。フィッシュアンドチップスもなつかしくて作ろうと思ったら、これも衣にビール150ccである。これはギネスという指定はないので、普通のビールでいいらしい。二本買って来たギネスの一本はそのまま飲むことにする。ギネスにせよ一般のビールにせよ素材を柔らかくするらしい。
じゃがいもが余っているからマッシュポテトも作ろう。ポテトをつぶして、バターとミルクと塩こしょう。キャベツの葉をさんまいゆでて、青ネギの小口切りとまぜる。あ、これはマヨネーズを使っていない。油もまぜないので、すごくあっさりしたものだ。
えびが安かったので、蝦のカクテルも作ることにした。ゆでて皮を剥いてレタスとあえるだけ。
きょうはこれだけ。本は二週間借りているからもう少しいろいろ作って試してみる。スコーン何ぞも作ってみたい。


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2016年11月9時になって作り出して

2016年11月11月15日 23:33



50分でちゃんと作った


 

9時になって作り出して、50分でちゃんと作った。
シチューを煮込むのに40分必要で、その間にほかのものを作った。ギネスのシチューは失敗がない。牛に小麦粉をまぶしてから、玉ねぎを炒め、牛を炒め、ニンジンとトマト缶、ギネスビールで煮込んだ。
その間にポテトをゆでて簡単につぶせるようにし、つぶして葱のみじんとレタスもみじんに近いのを混ぜ、牛乳とオリーブ油を入れた。いつもの感覚だとオリーブ油をたくさんとバルサミコ酢か山東酢を入れるが、入れない。
蝦の皮を剥いてレタスのせんぎりとマヨネーズで和える。
フィッシュアンドチップスはタラをカットして小麦粉とベーキングパウダーをビールで伸ばした衣で揚げる。ポテトはそのまま6、7センチに一センチ角に切って揚げる。これでできあがり。
残ったビールとギネスとで蝦を食べる。
赤ワイン三盃でビーフシチューとフィッシュアンドチップスを食べる。あ、もちろんポテトも。
相当できあがっている。近頃は特に一人だとすぐに酔って、わずかの酒ですむ。紅茶とヘネシーのブランデーで小さなロールケーキをひとつ食べる。それで仕上がりである。
フィッシュアンドチップスとマッシュポテトは半分余った。シチューは鍋に三分の二余った。このままもう一日食べてもおいしい。ちょっと加工してもいい。イギリスから独立したいアイルランドの人々のことを少し考えた。新世代の政権ができてきて、ブリテンが四つに分解する日も遠くないのかも知れない。というような妄想の中で気持ちよく酔った。


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2016年11月焼酎辞典   その9

2016年11月11月17日 9:58



鹿児島の焼酎


 

 

焼酎辞典     その9
『ザ・焼酎』(1984.4)から

鹿児島の焼酎

 鹿児島本線の熊本と鹿児島の県境には「ここより焼酎王国に入る」という大きな看板がある。熊本の方も「王国」だと思っているからいささか挑発的だが、球磨焼酎がほぼ人吉に限定されているのに対し、鹿児島の方は全権くまなく蔵元をかかえている。
清酒のメーカーは、黄麹菌が使えない風土もあって県内に一軒もない。地酒とよんでいるものはあるが、味醂に似た甘いもので酒ずしや料理の味付けに使うもので、飲むものではない。芋焼酎のほうは飲み屋だけでなく、ラーメン屋にさえ必ず置いてある。
1955年に県内の酒の消費に焼酎が占めるシェアは77%に達したが、ここをピークとして減少し、現在は40%を少し割っている。焼酎の消費量が減ったのではなく、ビールなどがのびたためだが、50%を割った64年から県産焼酎愛好運動がおこって、料亭でもホテルでも焼酎を置くようになり、減り方が少しペースダウンした。焼酎の中での甲乙の割合では圧倒的で、長崎で乙が37%、熊本でも47%と半分を切るのに、宮崎で70%、鹿児島が98.2%と甲類をまったく寄せ付けないのはさすがだ。
甘藷も黒麹も薩摩には沖縄から伝わった。もっとも、黒麹は明治後半に入ったので、その前は黄麹で作っていたから、さぞ腐敗しやすかったろう。その一番古い記録は[伊佐・大口]の項でふれたように永禄二年(1559)で、甘藷が伝わる70年近く前だから、泡盛かそれに近いものであったと考えられている。江戸時代には上流階級が米の焼酎を飲み、庶民は芋や粟、黍などを使って作っていたらしい。明治期に自家製造が禁じられると、高い米焼酎を買う者と安い芋焼酎を買う者とに分かれた。戦中戦後の米の手に入らない時期に芋焼酎が圧倒的な地位を築いた。このあたりは奄美の黒糖焼酎が戦後の物不足の産物であるのはよく似ている。
県内に115の蔵元があり、各地各様のじつに多彩な焼酎を造っているが、ずば抜けて大きく、鹿児島焼酎の顔になっているのが薩摩酒造の〈白波〉である。枕崎の地酒だったが、思い切った近代化が成功して全国銘柄になった。薩摩酒造と血縁になる本坊酒造も〈おはら〉などで全国的に知られるようになっている。その他県外で手に入りやすいのは市内の共同銘柄の〈さつま無双〉、川内の〈五代〉大口の〈伊佐錦〉といったところか。この中では〈五代〉〈伊佐錦〉が通好み。〈白波〉なども決して悪い酒ではないが、全国的に売るための苦労があって、地元の評判はもうひとつである。
北部の出水には〈泉誉〉、長島に〈島美人〉がある。〈島美人〉は最近徳に評価が高い。姶良郡には九州の焼酎好きから芋焼酎の三本の指に入ると言われ〈アサヒ〉それから〈白金乃露〉がある。
日置の〈小鶴〉も研究熱心で、米焼酎の長期貯蔵品〈メローコヅル〉〈メローコヅルエクセレンス〉は東京のみならず海外でも高い評価を得ている贅沢品。
種子島は、薩摩本土よりいちはやく芋焼酎が造られはじめたところとされ、〈種子島ほまれ〉〈久耀〉といったいい酒があり、屋久島にも〈三岳〉などがある。奄美ももちろん鹿児島県だが、[奄美の焼酎]などの項目を参照。
品質的には安定していると言える鹿児島の焼酎だが、悩みはある。原料のさつま芋が生産が減って来て澱粉含有量にバラツキのある芋を使わねばならなくなっていることがひとつ。ライト化の波にどう対応して行くかもある。大手はつぎつぎにソフト化商品を出しているがぱっとしない。本坊のにんじん、大豆、吹き上げの山芋などの陳素材焼酎も定着は難しそう。本来の本格派で県内消費を回復するのが先決の気もするが。
[近頃の関西・東京の酒屋では最近出て来た伝統と文化的に断ち切れた新傾向の芋焼酎が大流行である。一通りためしてみたが、失礼ながらまったく飲むに耐えない。焼酎の何たるかを知らない世代が勝手なことをしているとしか思えない。『美味しんぼ』で絶賛しているのもあきれてしまう]


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2016年11月京都府庁までは自転車で15分だとわかった

2016年11月17日 17:35



提出した書類に文句言われて



京都府庁までは自転車で15分だとわかった。提出した書類にぐちぐち文句言われて、テーブルひっくり返してNPOなんかやめてやらあと叫ぶのを15秒おきくらいに思ったが、おとなしく聞いていた。でもよくわかんないところもある。また電話しますわ。一週間のうちに基本的には出してください、そうでないと。取り消すとか10万円支払えとか脅してばかりいる。はいはい、わかったよと帰ってくる。
南門を抜けると進々堂がある。パン屋とレストラン。ここで昨日のフランス人のEU論の残りを読み上げる。最初の地図のアイデアほど面白いことはなかった。まあ総論賛成。シュトーレンとコーヒー。もうそんな季節なのだ。シュトーレンにはアイスクリームと生クリームがついてくる。シュトーレンは二切れなのにクリームが多い。おいしいので一番小さいのを買う。いまからクリスマスに取っておけるくらい。
堀川丸太町に出たので、イズミヤに寄ってしまう。何も買う予定はなかったが、赤魚の大きなのが半額で175円、牡蠣の加熱用がこれも半額で98円、ノルウェー産の銀ダラとシルバーのあやしげなのが80円。牡蠣はフライかな。あとは冷凍する。おとといのポテトの余分に切ったのもフライにしなければ。オイスターアンドチップスだな。
物置の天井灯がひとつないので、今出川の古道具屋に寄ってみる。ついでにまた100円の小皿四つ買う。古い電灯1500円を1000円に負けさせるが、昔の差し込み口で天井でかちっとするのとは合わない。向かいに電気屋があるから買ってと言われる。行ってみたら150円のソケット。
そんな次第で帰ってくる。12時半に出て、もどったのが五時。


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2016年11月何万何百万という鳥や動物の大量死だけが

2016年11月18日 11:21



十匹死んだとか言うレベルのことは


 

何万何百万という鳥や動物の大量死だけがリストアップされているので,十匹死んだとか言うレベルのことは日々何百倍も起っているのかもしれません。海が汚染されているというだけならまだ判りますが、湖でも起きている、牛なども死んでいるというのはどういうことなのかわかりません。九月から二ヶ月半だけで、報道されたものだけでこれですから、こういう状態がもう何年も続いていると考えるべきなのでしょう。むろん人間も死んでいるのですがこんなに何百万単位では今は起こっていません。学者たちも取り組んでいるのですが、エイとかアザラシとかだけでも原因が解明できません。
かつてヒトラーは動物愛護条例をまず作りながらユダヤやロマノの大量虐殺をしました。いま自然保護とは何なのでしょうか。


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2016年11月焼酎辞典 その10

2016年11月11月19日 2:42



樫樽貯蔵



焼酎辞典 その10
『ザ・焼酎』から

樫樽貯蔵

 泡盛は昔から古酒(クース)を大事にして、南蛮瓶に五年十年と貯蔵したものだが、芋焼酎などは新酒のうちに飲み尽くすのがふつうだった。ただ、できたての焼酎は味が荒いので、何ヶ月かは落ちつかせるために貯蔵した。樫樽貯蔵はそれとは発想の違うもので、ウィスキーやブランデーを樫樽で熟成させるのにヒントを得たものだ。菅間誠之助氏が「樽に芋焼酎を六ヶ月も貯蔵すると、芋焼酎か米焼酎かわからぬほど原料に寄る本来の香りがタル成分に由来する香気に隠され、ウィスキーやブランデーに共通な香気を呈する」と行っているのはむろん褒め言葉ではない。まろやかになり,フーゼル臭が除去されるのはいいとして、本来の焼酎の風味をウィスキーもどきに置き換えてしまうのは邪道というべきか。「観光客相手の発想」との酷評もある。熟成のための貯蔵は瓶が本筋だろう。

粕取り焼酎

 酒税法上は本格焼酎とともに乙類に属する酒粕からの焼酎。戦後のカストリの名称から悪いイメージがつきまとい、生産量も少ないが,最近の焼酎復権の気運の中で質のいいものも出て来ている。
田植えが終わった後のサナブリ(早苗饗)の祭りになくてはならぬものとしてサナブリ(サノボリ、サナボリ)焼酎ともよばれた。農家が酒屋に米を渡し、酒を作り、その粕に水を加えて発酵させ、農民が自分の分を蒸留しに来て、粕取り焼酎と、いい肥料になるアルコールの完全に抜けた粕を持って帰るというようにして成り立ち、やがて粕取り焼酎の製造を職業にする者も出て来た。福岡は灘伏見と並ぶ清酒生産地でしかも焼酎文化圏に隣接していたので、粕取り焼酎の本場となった。しかし、戦後カストリの名称を使いにくくなって、独特の白糠焼酎に転換した所も多い。

共同銘柄

 有名大手と無名の零細蔵元の上下関係をはらむ「桶買い」に対して、小さな藏が対等の立場で一緒になって瓶詰めをすることをいう。企業合同・合併ではなく、別々につくった物を集めて出荷するのである。これによって経営的には安定しやすいが、寄せ集めになるので、酒質の均質な維持が極めてむずかしい。そのために濾過などで必要以上に軽口になるなることもしばしばある。鹿児島では〈さつま無双〉が45社を集めては焼くから首都圏に売り出して共同銘柄の先鞭をつけた。〈伊佐錦〉〈さつま若潮〉などがそうだし、徳之島の〈奄美〉、沖永良部の〈えらぶ〉もそれぞれ六社の共同。沖縄では〈紺碧〉が48社の共同銘柄。熊本では〈球磨焼酎〉が32社の共同銘柄。こうしてみると東京や大阪から見ると有力な銘柄ばかりである。焼酎の都会への普及には多いに功績があったといえよう。

金魚焼酎

 昔、酒の中身の規制がきびしくないころに、水っぽい酒に当たると「こいつは金魚酒だ」といういい方をした。金魚が泳げるほど薄い、という意味である。これは日本酒の話だが,アルコールや砂糖でごまかしてもまさか水を入れることはないという今日でも、焼酎についてはこの言葉が残っている。つまり、あまり強くない人がほとんどお湯に近いような割り方で飲んでいるとこう言ってからかわれたり、先手をとって自嘲してみせたりする。生きたワタリガニや車エビを老酒に溺れさせて食べる山東料理がある。稲垣真美氏の『ふるさとの銘酒と焼酎』を見ていたら、車エビを吟醸酒に漬け、事切れた所を刺身で食べるというのが出て来た。金魚が泳ぐには相当薄くなければならない訳だ。しかし焼酎は薄く割った時にホンネの出るもので、強いばかりが通の飲み方とも言えない。


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2016年11月健身気功協会の定例講演会

2016年11月11月20日 5:42



私を入れて10人ばかりだった


 


健身気功協会の定例講演会は私を入れて10人ばかりだった。いつももう二三人程度多いくらいで、こんなものである。ほとんど宣伝していない。ホームページには健身気功の定例会のところに津村の講演もあるよと書いてあるだけで、とても見にくいし、ほとんど気がつかないというくらいだ。少なければ少ないなりに突っ込んだ話ができるからいいけれど、いかにももったいない。多ければ多いなりの話ができる。宣伝の仕方をもっと討論してみなければいけない。
今日は二人新しい人が来た。ひとりは中国人だがずっと日本にいる人で、会の中で勉強したのではないがいくつかの健身気功ができるようになって、中国での大会に参加したいと希望して来られた。初対面だが、昔野草社から出たいろいろな団体を紹介した『もうひとつの日本地図』を持って来た。私の四十年くらい前の神戸気功塾とか神戸太極拳同好会とかが載っている。それにかれのグループも載っていたらしい。サインがほしいというので書いた。雑誌『80年代』も二冊ほど持って来た。もうひとりはエル大阪のすぐ近くに住んでいると言うが、昔の東京のクラスで何度か来られていたという。ちかごろ「何十年ぶり」で会う人が多い。たいてい覚えていないが、話しているとそのときの忘れていた情景がよみがえってくる。
中国の国際健健身気功協会は去年の峨眉山、今年の武当山と新しい路線を出して来た。直接健身気功に関わることだけでなく、易とか風水とか五行とか道教とか、気功の伝統のバックグラウンドに関するけっこうレベルの高い講師を並べるようになった。日本でも理論を高めてどんどん発展させてくださいというので、この間直接健身気功に関わりない存思内丹の話を遠慮なくしている。機関誌にも書いている。今の所は健身気功の現場とはかなりギャップがあるが、次第にそういう勉強をしようと思ってくれる人が増えればいい。
今日もまず丹学研究会と露伴を読む会の話をした。大同の胡麗娟さんの所へもぜひたくさんの人に参加して欲しい。そして一月に出る予定の件身気功雑誌に書いた道教と道家と仙学の違いという基本的なことを紹介した。仙学の胎動は日本ではまったく画期的なことなので、これから大きな門を開けて行かなければならないのである。
そのあと声を出す気功をしばらくして、最後に易筋外経の最初の三つをやって終わった。10人から何人にひろがってくれることか。『仙学とは何か』という小さなパンフレットを作ろうかと思う。


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2016年11月明日は息子夫妻

2016年11月11月20日 20:03



音楽家のコースケとケイコの夫妻を招いた



明日は息子夫妻と音楽家のコースケとケイコの夫妻を招いた。太一とコースケは一諸にフィンランドに行ったりしたこともあり、ひさしぶりだ、コースケのパートナーのケイコさんは関西気功協会の事務局員として長いことお世話になった。お昼を食べてもらおうということなのだが、コースケは厳格なベジタリアンで、酒も飲まない。この日のためにこの秋に買った二冊のフランス野菜料理のディープなテキストからメニューを作った。手に入らなかった材料もあり、少し発想を変えて高菜漬けや梅干し、らっきょうも使ってみることにした。
わが家の精進メニューをどうぞ。

ピンチョス
オリーブ・ピクルス・トマト
◇爪楊枝に指した前菜です。
サラダ・ナタリー
キャベツ・りんご・くるみ・ドライフルーツ
レモンとマスタードを効かせたフレンチドレッシング
◇フルーティな取り合わせ。
胡瓜とディルのヨーグルト和え
赤ワインビネガーとマスタード、サラダ油
◇生のディルが手に入らなかったので,らっきょうを刻んで。
揚げ野菜のマリネ
れんこん、かぼちゃ、ズッキーニ揚げる
フレンチドレッシング
◇シンプルにディープフライにし熱いうちにドレッシングに。
ナスとトマトの南仏蒸し
米ナス、トマト、ニンニク
◇揚げたナスはとろとろに煮込んだ肉みたい。
さつまいもとかぼちゃのスバイスハニーバター
シナモン、クローブ、ナツメグ
◇さつまいものほうを長く煮て、とろとろにします。
三種類のディップ
ブロッコリとニンニク、バター、生クリーム
しめじ、椎茸,玉ねぎ、バタ、生クリーム
ジャガイモ、シラス,ニンニク、ミルク、オリーブ油
バンだけでなく、大根や蕪に乗せても
ソースにしてパンにつけるのがディップ。三趣作りましたが
◇シラスは入れないので高菜のみじん切りを使いました。フラン スパンとおいしい食パンをカットして適当に。
野菜のハーブ焼き
ニンジン、葱、おくら、グリーンアスパラ、トマト、カラーピー
マン
ローズマリー、タイム、ローリエ
200度のオーブンで焼く
◇一番おいしい味の出る方法です。 
クリーン野菜とフルーチーズのサラダ
えんどう、絹さや、いんげん、グリーンピース
たまねぎ、ラディッシュ、ブルーチーズ
黄色トマト
赤ワインドレッシング
◇色とりどりの紅葉の中を歩くようなサラダです。
サフランライス、ニンニク、椎茸、しめじ、エリンギ
モツァレラ、バルメザン、松の実せ
◇これはサフランが高いので、日和って、スパゲティ用のミック ススパイスを混ぜて焚きました。ご飯の上に炒めたきのこを見え ないくらいに広げます。
トマトジュースとオレンジ果汁
トマトセロリ胡瓜生姜
◇ドリンクは二種類のトマトジュースです。公式には。ケイコさ んや太一くんはワインでも焼酎でもどうぞ。
抹茶羊羹
◇高橋ペコが静岡から持って来た羊羹です。彼女は来たがってい たが来られないので、羊羹だけの参加です。一人分ずつ包装されて います。


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2016年11月12時に始まった宴会は

2016年>11月22日 0:05



4時過ぎに終わって



12時に始まった宴会は4時過ぎに終わって、皆で奇麗に片づけてくれた。片づけ終わったのが5時。
予定していた太一の奥さんが来れなかった。二月に出産なので無理はできない。かわりにというか、偶然なのだが、二日ほど前にカリフォルニアから帰国していた小原さんが、一時半に別の約束があったのだが、初めだけ参加してくれた。
実は濱野さんがくれた彼の道教八段錦などのビデオをどうやっても見られなかった。付属文書は出るし、ちゃんと中身は来ていて、論文は見らるのだが、映像がだめだ。小原さんが来たので見てもらうとやはり見られない。何か設定が悪いのかも知れない。彼の持っていた器械でするとすぐに見れた。とりあえずDVDに焼いてもらうのを頼んだ。小原さんはアメリカで日本の友人がしている建築会社に3Dの建築設計とかできれば安定して仕事があるのだがといわれて一時帰国した。また市の教室などあれば行きたい。
小原さんもケースケ同様厳格なベジタリアンなので、今日の料理はぴったりだった。料理を並べた時には経験のある私でも多いかなとちらと思ったが、みんなよく食べた。太一は実は明日から首のヘルニアで明日から入院することになっていた。首をさわってみてくれと言うので、少し診てみた。ヘルニアよりも、ひどい首こり、肩こり、腕こりで、もともとドラムで無理もしているし、このあいだ引っ越しもしたしで、板のようになっている。例によって六番四側から烏口腕筋、手三里、合谷と続く線をもんでいくが、最初はじたばたするくらい痛い。じきにほぐれていくと痛みが半減してくる。肩井も痛い。頸椎四番に問題があると言われたというので、四番を中心にほぐして行く。操体法の定稿療法を使う。そのあとたんとん叩きなど。それから自分でやれるやりかたを伝える。
太一とケースケ・ケイコはミュージシャンだから、「業界」の話は尽きせずある。太一はもんで少し元気になったと見えて残り物をどんどん食べている。ちなみに彼は122キロある。私より五キロくらいかな、大きい。胸板も厚い。病院で一週間居る間にたぶん粗食攻めに遭うだろうから、それで痩せないかなどと期待しているが、その前に存分に食べておこうという構え。奥さんにもって行ってやれよとタッパーを渡してあったが、もう余り残っていない。それでも残り物を入れて行った。
ケーコとコースケは洗い物をしてくれた。水際立っていて、早くて徹底していた。
また岩倉の彼らの家や、太一の新しい海辺の家で会い直しましょうということにした。


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2016年11月丹学研究会へのよびかけ

2016年11月22日 15:08



気功研究の新段階へ



丹学研究会へのよびかけ
気功研究の新段階へ

 すべての気功は導引から内丹・丹学・仙道を目指すものですが,従来の日本の気功ではそれを専門に研究して行こうと言う動きが明確に形をなしていませんでした。中国道教協会会長陳攖寧は気功とも道教とも一段階違った仙学の大構想を持っていましたが、文革で不幸な弾圧に逢い、実現することができませんでした。
中国でも丹学研究はこれまで何人かの資質ある学者や練功家の間でのみ論議されてきましたが、昨年の北京での胡耀貞研究会設立三以来、やっと気運が熟してきました。日本でも、極めてマイナーな形で陳攖寧気功、胡耀貞気功として研究されてきましたが、個人の作業でなく、集団的なつながりの中で、丹学研究を発展させ、日本の気功に新天地を開いて行きたいと思います。
気功は導引・吐納・静定・存思・内丹の五大部門から成ると言われてきましたが、日本で広くやられて来たのは導引・吐納・静定のみで、存思・内丹についてはほとんど本格的な研究も実践もされてきませんでした。そして前述のように、存思・内丹には旧来の気功と次元の違う分野が含まれています。私たちは改めてここに丹学研究の旗をかかげて、出発し、ひろく同学を募っていきたいと思います。

(1)関西と東京で隔月で公開研究会を開催して行きます。
(2)雑誌『丹学研究』を当面年二回、将来は年四回発行して行きます。準備号(ゼロ号)を年内に発行します。
(3)毎年三月に大同の胡麗娟さんを訪問して胡耀貞気功を習います。
(4)北京で年に一度、日本の関西で年に一度中国の老子道学文化研究会・胡耀貞研究会と日本の丹学研究会の公開シンポジウムを開催します。これによって中国と日本の研究者・愛好者が互いに訪問し合って交流を発展させて行きます。
(5)存思・内丹研究の場を各地に作り、自主的に研究し、また必要なら本部から講演者、実践指導者を派遣します。丹学指導の指導員システムを作り、丹学の指導者を積極的に養成します。
(6)内丹研究に必要な中国語の書物の日本語訳を進めて行きます。
(7)関連のDVD等を発売して行きます。
(8)気功文化研究所の図書室に丹学コーナーを作り、閲覧できるようにします。
(9)丹学研究会のホームページを作ります。
(10)この研究会は当面気功研究所内に事務局を置きます。

 当面『胡耀貞静動気功研究』のほか、『陳攖寧仙学精要』胡海牙『仙学養生文集』王沐『内丹養生功法指要』『悟真篇浅解』胡孚琛『丹道仙術入門』『丹道実修真法』陳兵『丹道修練養上学』張三丰『太極丹経』などから、読書会をしたり少しずつ翻訳を進めたりして行きます。よい関連資料をお持ちの方はご提供ください。丹学文庫に加えて行きます。
『丹学研究』ゼロ号を十二月初頭をめどに作って行きます。ご協力のほどお願いいたします。
年会費12000円としたいと思います。
入会申込をしていただくと、『内丹研究について』という最初のガイドパンフと、胡麗娟さんの談話筆記を含む『気功文化』の最新号をお送りします。
当面三月の大同訪問に重点をおいてよびかけていきます。2017年3月22日から28日の予定です。

丹学研究ゼロ号 12月発刊予定

仙学・道家・道教の概念について 津村喬
《翻訳》陳兵『道教修練養生学』の全体の目次と代序抄訳
『陳攖寧仙学精要』胡海牙『仙学養生文集』の目次と出版説明抄訳
王沐『内丹養生功法指要』『悟真篇浅解』の目次
胡孚琛『丹道仙術入門』『丹道実修真法』の目次と・引言
胡耀貞気功を習いに大同へ       濱野清志
周易参同契の日本語訳         定方昭夫
《翻訳》仙学修練と精気神       胡孚琛
幸田露伴の道教と丹学の研究について 津村喬
◇丹学研究会へのお誘い
◇中国の老子道学文化研究会胡耀貞研究会について
◇三月大同へ
◇通信制内丹指導員研修


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2016年11月露伴全集の月報からの

2016年11月22日 19:15



抜き書きのパンフレットが



露伴全集の月報からの抜き書きのパンフレットができました。
露伴先生と神仙道 中谷宇吉郎(月報第13號)
露伴先生と神仙道[承前] 中谷宇吉郎(月報第13號)
「仙書参同契約」私観一  中谷宇吉郎(月報第15號)
「仙書参同契約」私観二  中谷宇吉郎(月報第16號)
「仙書参同契約」私観三  中谷宇吉郎(月報第17號)
「仙書参同契約」私観四  中谷宇吉郎(月報第18號)
「仙書参同契約」私観五  中谷宇吉郎(月報第19號)
「仙書参同契約」私観六  中谷宇吉郎(月報第20號)
「仙書参同契約」私観七  中谷宇吉郎(月報第21號)
露伴先生と道教      武内義雄 (月報第9號)
露伴と中國        石田幹之介(月報第4號)
露伴全集第二期各巻内容
露伴全集第一期各巻内容
[中国思想文学に関わるものは□で囲っています。内容を全部読んでいませんが、見たところ67作品程度あります]
が内容で、A5版40ページです。露伴を読む会に入金して年会費3000円を支払った方にはプレゼントします。会員以外でご希望の方には500円+送料180円でお分けします。申込はkikoubunka@yahoo@co.jpに、払い込みはゆうちょ銀行00970-7-142411まで


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2016年11月きのう露伴全集月報の

2016年11月24日 1:56



パンフを作っていて



 きのう露伴全集月報のパンフを作っていて、ろくなテープがないことに気づいた。テープというのはセロテープとかメンディングテープのことだ。原版製本にはテープが必要だ。ページ数を仮に鉛筆で書いてあとでプリンタで打ち出したのを貼るのだが、その鉛筆もひどい状態だし、鉛筆のお尻に付いている消しゴムはからからで全く機能しなかった。それだけでなく、机の抽き出しが要らないもので一杯で、DVDとか写真とか古い捨てなきゃいけない薬とか、自分の名刺や人の名刺や一円玉やヨーロッパの小銭とかであふれている。一時間かけて、机の中を文具と通帳とパスポートだけにした。まずは小さな戦闘に勝利する。やる気はあってもなかなか体が動かない。連続的な戦闘は無理である。
大きな100円ショップに行って、もう刃のところが使えなくなっているテープディスペンサーを捨てて新しいのを買った。メンディングテープも買った。スコッチテープをずっとつかってきたが、ここでは売っていない。三つで100円は少し安すぎてもう一つ信用できないが仕方がない。印鑑のスタンプ台も古くなってしまっている。赤いのと黒いのと、つぎ込めるインクがないかと思ったが売っていない。ま、100円だから何年かに一度新しいのを買っても安い。朱肉も買った。むろんインクのほうで、中国で買った本物の朱肉はたまにしか使わないからまだ持っている。
修正液も新しいのを買った。100円ショップがなかったころは文具店で買っていたから、二三百円していた。あ、消しゴム。小さいのが三つで100円。「消しカスすっきり/下町馬世の本物素材/まとまる激落ちパパ」と書いてある。パパが拳骨を握っている絵が描いてある。パパが消しカスを食べているようにも見える。そこで側面には「使用上の注意。口に入れないでください。のどにつまるおそれがあります」という警告がある。
せっかくだから消しゴムだけでなく鉛筆も買おうか。HBとBと2Bがあるが、余り揃えても必要ないだろうからBを買った。HBは六本入っている。Bと2Bは四本である。ついでだから筆箱も買ってしまおう。みみずくのついたいいデザインのがあった。200円するが、なんと鉛筆削りまでついている。蓋は磁石で閉まる。裏も開いて入れられるようになっている。表に鉛筆と消しゴムを入れるとすると、裏は何に使うのだろう。領収証とか小切手の入るサイズだ。もうひとつ、両側から腕が出て来て、何かを置けるようになっている。いっぱいのサイズだから鉛筆は入らない。筆を置くというのもちょっと唐突で変である。もうひとつ鉛筆を入れた脇に五センチくらいの平らな棒が立ち上がってくるのがあるのだが、これもなんだか判らない。手前が鉛筆より太くて短いスペースになって居り、ここにも何か入れるのだろう。
帰ってから、この判らない部分の使い方が出ていないか筆箱を検索してみた。私の子どものころとは様変わりで、いろいろと進化している。楽天だけで15800何件ある。小さなボストンバッグのように見えるものや、猫や魚にしか見えないものやいろいろある。韓国で大流行したダイソピルトンというのが日本にも伝わって来た。ピルトンは筆箱の韓国語でダイソというのはダイソーのことらしい。ダイソーで買える透明な箱にあれこれ文具を自分でセットし、キャラクターとか貼付ける。筆記具だけでなく付箋紙(ポストイット)も普通のからフルーツ型、昆虫型、ショートケーキ型、絆創膏型とかいろいろある。小さなテープとか可愛い分度器とかも入れたりする。ダイソーのパンチホビーケースをデコレーション筆箱として使うのが流行ったのだ。収納力が大きいので化粧品なども入れられる。
授業中に立てておいて教師に見えない部分にスマホが入って操作できるのもいろいろ売り出されているというからあきれる。
今日200円で買ったのと同じタイプが1900円とか2500円とかで出ている。ただ両側から出てくる腕と、真ん中に立ち上がる平棒は同じものがなく正体がわからない。謎は謎でよしとしよう。表には鉛筆三本と赤ペンと消しゴムと小さめのポストイットを入れ、裏の方にはフィンランドで買ったフクロウの絵を貼付け、ついている時間割の横に名刺を貼付け、耳かきとハイテックポイントを一本入れた。


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2016年11月泉から組んで来た水を

2016年11月24日 3:06



瓶にいれるのにしょっちゅう使っていた


 


 泉から組んで来た水を瓶にいれるのにしょっちゅう使っていた。赤いロートで台所でも色鮮やかで目立っていた。それがどういうわけか、突如なくなった。鼠がもっていくようなものではない。私が無意識にどこかにしまいこんではいないかと、あちこち探してみたが、ない。
百円ショップに行ったついでに探してみた。二種類あった。ひとつはゴム製で普段は折り畳まれていて、先端を引っ張り出すとロートの形になる。なんか頼りない。もうひとつは大中小の三点セットでハードなプラスティックでできており、こちらの方が頼りになりそうで、買った。大は洗剤類の詰め替えに、中は醤油や液体調味料の小出しに、小は粉末調味料に、と書いてあるが、ちょっと小うるさい感じがする。何に使おうといいじゃないか、勝手にさせてよと言いたくなる。大は角が丸い四角で、中小は丸だ。とりあえずこの大を使って瓶に水をいれればいい。
ロートは外国語だとなんとなく思っていて、英和でroteを引いてみると、機械的暗記法、岸を打つ波の音、中世の琴、と書いてあるので全然誤解だと判る。英語ではfunnelだ。ロートは漏斗なのだ。ではじょうごというのは何だろう。広辞苑を引くと「ろうと」と「じょうご」は同じものと書いてある。ネットの教えてgooを見てみると、「理科の実験で液体を注ぎ入れる用具を「漏斗(ろうと)」、それ以外の液体を注ぎ入れる用具を「漏斗(じょうご)」と言う」と書いていた。そうすると、ここではロートといわずにジョウゴというべきなのだろう。しかし漏斗と書いて「ろうと」はそのまんまだが「じょうご」と読ませるには無理がある。「上戸」と書くという説もあった。がぶかぶと酒を飲む人のことだが、こちらのほうがなんとなく納得である。
思い出してみると、理科室には確かにガラス製のロートがあった。しかしガラス製だからロートというわけでもなさそうだ。
帰ってから10リットルのタンクを十数本のボトルに移した。この前汲んで来たのは特に味がいい。五本ほど冷蔵庫に入れ、五本を本棚に置いた。そしてふと本棚の奥を除くと、なつかしの赤い漏斗が焼酎とポルトワインの奥に転がっていた。よしよし上戸だけのことはあると、ほめてやった。今や四つになった。漏斗長者というのかな。


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2016年11月今日の鞍馬口の古本屋

2016年11月24日 20:37



もうほとんど真っ暗だったので



今日の鞍馬口の古本屋。
もうほとんど真っ暗だったので、あまり探す気力はなかったのですが。
NHKブックスの『「原子力ムラ」を超えて』飯田哲也・佐藤栄佐久・河野太郎著。
「国土を汚し、子供を危険に曝した原子力ムラを解体しなければならない」と坂本龍一の言葉が腰巻きの惹句に。
南條竹則『満漢全席』中華料理小説。これはトイレにおいといてゆっくり読むかな。
著者名のない『死の手引書』データハウス。情報研究所というペンネームの著者(たち)が書いているが。「おもしろ実用マニュアル」とサブタイトル。あまり突っ込んだ内容でないが、視点が広い所が面白い。有毒植物のリスト、蜂やバッタや雀の料理の仕方、鼠や寄生虫、ノミ、シラミの殺し方、目障りな犬猫の殺し方、死因のワースト10、ガンやエイズ、事故死、自殺の仕方、戦死や腹上死、埋葬の手引き、各宗教での死に方、鳥葬ミイラ水葬など、死後の世界、地獄、幽霊、呪い、妖怪、ゆるやかな死、突然死、保険のいろいろ、公営火葬料、などなど。
『上品會写彩』という紐で和綴じにした立派な本を見つけた。カラーの着物見本である。上品會の素旨は龍村平藏さんが書いている。第三代の龍村平蔵が襲名した年だから三代目の初仕事だったのだろうか。いやこれは二十四年目の開催なので、初代の生きている頃のことだから昭和二十七年に始まっている。やはり初代の文章なのだろう。「古を翻へして、新しきを為す」という會風を作っていきたい、「併し乍ら貴重なる絹を用ひるには厳粛なる精神を要する点に深省して いやしくも人目を眩惑せしめ 優劣上下の識別を紛らかし 一時の効果を求むるが如き作風商法をとらず 先ず上善に礎を置き 自ら正美を致さむがために 一、志高く千歳の誠を貫かむとする織染繍纈纃の名家をすぐり 厳しく相警しめて上作に力むと共に 一、粛然たる鑑審査を加へて品定めを厳にし 下品を切り捨て 上品の名を辱めざらむ事を期するものであります」と厳しくも格調の高い文章。着物が49点、帯が40点、どれもいつまでも見ていたいような。一万八千円の定価がついている。それが四冊あった。二十五回、二十八回が二万円、二十九回が二万三千円なので、九万一千円分を400円で買ったことになる。当分楽しみである。


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2016年11月丹学研究会に向けて

2016年11月26日 3:07



やっとできた



《丹学研究会に向けて》がやっとできた。全くの書き下ろしではなく、今までにいろいろ書いて来たものを整理したものだ。
01 大同への道
02 中国の老子研究、陳攖寧・胡耀貞研究の動きとつながって
03 内丹学とは何か
04 道家、道教、道学、仙学の区別と連環
05 魏伯陽《周易参同契》とその周辺
06 張伯端《悟真篇》をどう読むか
07 鐘離権と呂洞賓
08 王沐《内丹養生功法指要》をめぐって
09 陳攖寧の仙学
10 胡耀貞の気功世界
11 内丹気功へのいくつかの入り口
12 丹学研究会のよびかけ
という中身になっている。実はいま製作中の『気功文化』とも一部文章が重複するので申し訳ないが、こういう時は「正しい事は何度でも言わなければならない」という毛語録をいいわけに使うことにしている。いっぺんやにへん言っただけでは伝わらないという経験をさんざんしてきた言葉なのだろう。
28ページで、一応700円の定価がついている。主として次の次の日曜日に開かれる人体科学会に向けてつくったものだ。学者さんたちが相手だから、700円は高くないだろう。1000円でも高いとは思えないが、気功文化の会内でしっかり受け止めて欲しいから、この程度にしておいた。
明日は三つ印刷に行く。『気功文化』の新しい号、これが20ページ。露伴全集月報の「露伴先生と神仙道」「仙書参同契私観」などを含む40ページのもの。露伴を読む会に入ってくれた人にはプレゼントするが、それ以外には500円で売る。そしてもうひとつ、『丹学研究会に向けて』だ。これも丹学研究会に入ると言ってくれた人には差し上げる。
大道は胡耀貞の故郷である。胡麗娟さんを訪ねて来年三月にも三度目の訪問学習に行く。行ってみたいという人はぜひ声をかけてほしい。北京から10数時間の汽車の旅である。


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2016年11月今日は印刷所に行った

2016年11月27日 1:06



『気功文化』と『丹学研究に向けて』を


 

 

今日は印刷所に行った。『気功文化』と『丹学研究に向けて』をそれぞれ200、『露伴月報集』を100作った。チラシを一種類と、二つのDVDの内容解説を20ずつ作った。『露伴月報集』はA5の幅をはみだしてしまったので、コピー屋のおねえさんが93%に縮小したりして版を作り直してくれた。40ページ分のコピー代は請求がないので、ありがたい。すみませんである。今日は一箱に入らないので店の人が二人で送ってくれてタクシーを止めてくれた。四時間くらいかけて、とりあえず明日持って行く分を20部ずつ作った。もちろん20部ずつなんて売れないが念のためである。『気功文化』は会員さんが大半だから、ただ手渡しすると送料が節約になるというだけだ。時間があれば一人ずつ会って雑誌を渡しパンフとか買ってくれと伝えたいところだ。ほかの二冊のパンフを買ってもらったとしても二冊で1000円だ。DVDなら新作が二本で5000円だからそれなりの収入になるが、約束した小原さんは持って来ない。


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2016年11月カストロが死んだ

2016年11月27日 1:51



ずっと兄貴分と思って来たが


 

 

カストロが死んだ。ずっと兄貴分と思って来たが、私より22も年上だったのだ。キューバは苦しい道を歩んで来たが、アメリカとは対極の「貧しくても安定した社会」を作って来た。そして溢れ出るような音楽とダンスをもった社会だった。葉巻は好きだが、飲まなくなって何十年にもなる。ラムは今でも飲み続けている。キューバ・リブレは反革命のカクテルだが、それでもうまい。ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブの映像と音楽は大好きだった。セグンデもフェレーリも死んでしまったが、まだ私の中で歌い続けている。オバマが非常な苦労をして国交を開いたが、ラウルはとても警戒的だったし、少しも浮かれていなかった。ま、いい面も悪い面もあった。キューバの本体は変わらない。マーティン・クルーズ・スミスが『ゴーリキー・パーク』でソ連時代のモスクワを描き切ったように『ハバナ・ベイ』で見事なキューバ社会像を描いてみせた。何本かの指に入る傑作である。わたしにとってカストロはそういう大好きな空間を構築してくれた人だ。小さな島に、男たち女たち子供たちが生きているというだけで嬉しい。


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2016年11月焼酎辞典  その11

2016年11月27日 3:40



球磨焼酎



ザ・焼酎 焼酎事典から

球磨焼酎

 熊本県球磨川流域を中心とする伝統的米焼酎の総称.銘柄としての〈球磨焼酎〉はこのあたりの32社の県外向け共同銘柄である。
熊本の海ぞいの南端に水俣市があるが、その図津東の内陸部、鹿児島・宮崎・熊本三県の境に近い所に球磨郡と人吉市はある。といっても水俣から入るにはいったん鹿児島側の大口に出てからになるので、だいぶ北からになるが八代から球磨川そいに遡っていくのが普通だ。
ここに立派な自動車道が通ったのは損な昔のことではなく、道なき道をえんえんと歩いたという回想をしばしば聞かされる。相楽はんの検地のため中央から派遣された役人がこの道を登って地の果てまできたかというところに人吉で焼酎を振る舞われ、そのもっと奥にひろびろとした稲田があることなど想像もせず帰って行ったという話が伝わっている。この組織的脱税のため、実質十万五句の相楽藩は二万二千石としか見なされず、その分で米焼酎をふんだんに作る事ができたという話である。
熊本と言っても熊本市とまったく文化圏が違う。熊本はむしろ清酒圏で、〈香露〉や〈美少年〉のような銘酒があるし、昔は肥後の赤酒が保護され、その粕取りが作られていた.この地方でそれと区別して言う「相楽焼酎」は伊佐・大口とし続きに考えた方が判りやすい。その隠し米が豊富であったため、薩摩では米焼酎が庶民の口に入らず、結局芋焼酎になってしまっても米焼酎を守り抜く事ができた。
米と米麹で一次仕込みをして酒母を造り、蒸し米と水を加えて二次仕込みをし、もろみをつくって、それを単式蒸留機で蒸留する。破砕米原料は泡盛と一緒だが(米がない頃は輸入の破砕米を使っていた。今は内地米。米は政治の影響をもろに受けるのが困る)二次に分けて仕込むのが違い、麹も白麹である。しかし、ずっしりとコクのある風味は共通する所がある。
米の焼酎は芋プラス麦や麦プラス米の焼酎のようなやさしさがなく、りんりんとすずやかで、箕引き締まる厳しさがある。深い国はいいが、反面一種油臭い匂いが出やすいのが難しい所だ。ごく乱暴に図式化すると,此れに着いて二通りの答えがあって、球磨焼酎は両極に分解しつつある。ひとつは、まったく昔ながらのやりかたで、ていねいに手造りすれば臭みはないし、貯蔵によって更にまろやかにして行けばいいという立場だ。もうひとつは、減圧蒸留に切り替え,イオン交換樹脂で濾過してきれいにし、飲みやすいものを作っていかねばいつまでも「人吉の地酒」をぬけだすことができない、という考え方だ。〈文蔵〉とか〈球磨の泉〉泉とかは前者の、昔ながらの手造り路線の典型である。八年前に減圧を導入してからどんどん伸び出した〈白岳〉は後者の典型。都会向けの共同銘柄〈球磨焼酎〉も当然の事にソフト路線で、いまや全体の九割が減圧焼酎といわれるぐらいになってしまった。〈太鼓判〉が20度、30度は減圧、35度と43度は常圧と使い分けたり、〈峰の露〉がもともと軽いけれども球磨焼酎らしさをなくさぬように作りながら、別に〈繊月〉というライトなマイルド・タイプを出しているといった例もある。〈くま川下り〉などは「最新式減圧蒸留で初留と末だれ(最初と最後の臭い蒸留液)を完全にカットしたソフト・タイプ」がうたい文句になっていて、堂々たるものだが、もともとの球磨焼酎ファンから言わせればそのカットする部分にこそ旨味風味があるのだということになる。〈白岳〉にしても、ちょっと飲むと麦焼酎(大分風の)と思うくらい軽い。〈白岳〉などをいわば「入門編」として慣れて来たら昔風のに進めばいいという意見もあってそれはいいけれど、球磨焼酎どこへいくべきかの論議は避けて通れないと思う。


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2016年11月ブエナビスタを一時間ほど聞いて

2016年11月27日 4:05



ひとりだけのフィデルの葬式の


 

ブエナビスタを一時間ほど聞いて、ひとりだけのフィデルの葬式の代わりとした。
ビデオが今日返さないとまた追徴金をとられるので、雨の中自転車で行った。
何も借りずに帰って来た。
ローソンで100円のカステラを買った。
もう四時。後三時間くらいで東京に向かう。


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2016年11月ホームの記事が読めない

2016年11月28日 6:46



自分の書いたものは普通によめているが


 

ホームの記事が読めない。自分の書いたものは普通によめているが、ホームの方で読もうとするとものすごく遅い。ひとつひとつ何分もかかって、結局途中で止まってしまう。ウイルスが入ったのか。何かわかるかたはいますか。


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2016年11月山下洋輔が私の祖父の妹

2016年11月28日 16:07



長沼さんにお会いして


 

 

山下洋輔が私の祖父の妹を母にしていた話

長沼さんにお会いして、祖父高瀬真卿の写真や高瀬の作っていた笹塚の別荘の写真、母の少女時代の写真などお貸ししていたものをお返しいただいた。ついでにその写真の原板を見つけたので、三枚ほど改めてお貸しした。そのために会ったのだが、いろいろ雑談をする中で、ジャズピアニストの山下洋輔と私の血がつながっているというとんでもないことが判って来た。山下は父方の系譜を描いた『ドバラダ門』という自伝小説を書いている。古本屋で例によって100円で買ったが、ぱらぱらと読んだだけで読み切れていなかった。ところがこの二冊目が書かれていて、そちらは『ドファラダ門』という。前作が出た時母はまだ元気で、父方の方だけを書いたのに不満を述べた。山下はその後母の系譜に取り組んでみて、母の嫁入り道具にピアノを持って来たが、「もともとジャズを好んでいた」ことがわかってきた。山下の血筋はこちらのほうにあるのか。「小山家にはさらに奇人がいたと知りました」というのが私の祖父高瀬真卿である。高瀬の弟が小山の家に養子になったため姓が変わっていた。これは日刊ゲンダイの2015年1月25日「『ドファラダ門』を上梓したジャズピアニストの山下洋輔氏に聞く」からの引用。
「探るうちに、母の父親の兄・高瀬真卿が浮上。講釈師を経て新聞記者・作家となり、権力批判の記事を書いたために投獄され、その体験を基に東京感化院設立に奔走したという破天荒な人でもある」
「母の父親は、司法大臣まで務めた謹厳実直な人。一方その傍らには本流や王道に行かず、どこにも属さず、我流で面白い方向へと進む大叔父・真卿がいた。この遺伝子がオレにもあるんだろうなあと妙に納得しましたよ」
「常に本流や王道でないところに自ら身をおき、そのうえこよなく楽しむ傾向」というのは私もそうかも知れない。高瀬から来ていたのかと妙に納得した。
68年、早稲田の闘争が燃え上がる時、山下のコンサートをやろうという事になった。大隈講堂を占領してピアノを運び込んだ。山下を呼んだ。私もピアノを担いだ一人である。「とにかくヘンなことをやっちゃうんだよね。興味があれば身軽に飛びつく、好きな事があれば、ちゃんと声高に言う。此れは完全に小山家のDNA。また小山家の人々が面白がって今回の取材に協力的でね。俺が覚えていない事を生々しく語るもんだから、グサグサ心の刺さりましたけど」
『ドバラダ門』をちゃんと読もう。『ドファララ門』を取り寄せよう。「高瀬の孫です」といったら面白がってくれるだろうか。


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2016年11月マックの大きな画面のを

2016年11月29日 6:56



二年ほど前に買った


 

 

マックの大きな画面のを二年ほど前に買った。ずっとそれを使っていて、外で使う必要のあるときはacerの古いのを使っていた。ここ10年ばかり、ソニーのヴァイオとかacerとか使って来た。有史以来マックで来た人なのだが、お金がない時期が続いて、安い器械に乗り換えた。あんまり次々に壊れて、しかもウィンドウズはひたすら使いにくいので、マックに戻りたいと言っていたら、カンパしてくれる人がいて、わりと大画面のマックが買えたのである。後はacerのぼろぼろの器械をヨーロッパに行くときは持って行ったりしていた。それが、先月マックブックプロをようやく手に入れた。ラップトップで、まあ普通の型だがかなり小さくて、持ち歩きができる。設定しようとしてパスワードを聞いて来られて、できれば大形マックと共通にしたいと思ったのだが、パスワードを忘れてしまった。ただ文書を書いて来ただけなので、パスワードを使う機会がなかったのだ。それで折角買ったマックブックプロをしばらく放っておいた。何日か前にこの大きいマックからパスワードを聞かれる場面があった。当てずっぽうで色々やってみて、四番目のが正解だった。それですぐにマックブックプロにも同じパスワードを入れ、動き出した。どうせなら中身を全部移してしまおうと、コピーした。予想よりだいぶ多くて30731項目ある。1時間17分かかるとか出たが、結局15分ほどで全部コピーした。
ところが,問題が起こった。フェイスブックがもとの大きな器械でも調子が悪くなっている。みんなの書いたものはまったく見られない。ここ四五日の事だ。自分の書く分にはちゃんと書けるし、記事も遡って行ける。これだけでも困ったものだが、マックブックに移した方は、私自身の所まで含めて読めなくなっている。やっぱりウィルスか。
MacBookプロの方は設定し直そう。こちらのほうも、もうじき読み書きができなくなる可能性があるから、昔の記事をコピーしまくって別のところにしまっておくことにする。突然使えなくなったらまたどこかに探してほしい。たぶんメッセージを送る事ができるはずだが。


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2016年11月コンピュータを見てくれた

2016年11月29日 22:48

 

 

二台のマックを相手に

 

 


小原さんがコンピュータを見てくれた。二台のマックを相手に小一時間格闘していた。それで数百の不要ファイルを捨てたらしい。「これで動きが速くなると思いますよ」と言っていたが、あとでいじってみると確かにFacebokの私の欄は早くなったが、ホームの方はまだ少し動くようになっただけで、ずっと閲覧ができない。しかも問題はFacebookだけで、sputonikへ行ってもyahooのメールへ行っても何も問題はない。困ったものだ。もう少し研究してみよう。


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2016年11月講談社の「人類の知的遺産」の78巻の月報に

2016年11月30日 3:22

 

 

ファノンが収められていた

 

 


講談社の「人類の知的遺産」の78巻の月報にファノンが収められていた。鈴木道彦さんが「ファノンとの出会い」という文章を書いていて、私が「人間を解き放つ」というのを書いている。本棚を片づける中から出て来て、放っておくとまたなくなっていきそうだから、ここに書いておく。1981年の6月、33歳の時の文章である。
??
人間を解き放つ

                               津村喬

 だが、肝心なのは人間を解き放つことなのだ
この十年余り文章を書き続ける中で、いったい何度私はファノンのこの一節をいんようしたことだろう。時にはそれは私の貧しい文章の中で、陳腐な決まり文句になってしまったかもしれない。だから、どうするんだね、と聞き返されるかもしれない。たぶん名陪乗私の独りよがりに属することに違いないのだが、この一句を原稿用紙に記すと、最初はそれこそ原稿もなしに原紙に直接切った文章の中でこれを引用したときの変革のエネルギーに満たされた風景が、状況がまざまざとよみがえってくる。
これがどんな抽象的な言葉に見えようと、私にとってはそれは、自分が抽象的観念の沼にはまってしまったり、政治主義的態度をとったり、都合良く売文の体裁を整えてしまったりすることに自分で歯止めをかけ、何のためにお前は仕事をしているのか、「人間、つまり自分自身に絶望しないために」語り,行動しているのではないかと何度でも問い直すための呪文のようなものだった。
ゲバラやマオがそうであると同じように、ファノンは68-69年の大学反乱の中の「われわれ」そのものだった。私だけでなく、仲間たちのたいていがそうであったように思うが、こけら一連の名前は自分の行動の座標軸であるとさえかんがえられていたにもかかわらず、その著作を緻密に読んでわがものとして理解する努力をしなかった。毛沢東にしてからが、「活学活用」の対象であって、自分の実践の文脈に引用して来て、いわば勝手な意味付与をしていた。ファノンにしても、悪く言えばかっこいい言葉だけ振り回しただけで、当時訳出されて著作を本当に読み込んだ者はごくごくわずかだったかもしれず、ファノンの引用語句こだわり続けたわたしにしてもいまだに全著作を読んでさえいない。むろんそのことは恥ずかしい。
だが、大学解体というテーマにとって、知の上昇志向を断ってレールに載せられない自分のありようを探していた私たちに取ってファノンの「精神医療から解放闘争へ」の存在の深まりこそが問題だったので、それで十分だったと一方で言うことも許されよう。レインが精神病患者とされる人たちに「家族の政治学」を読み取ったように、ファノンは彼らに「植民地主義暴力」を読み取った。医師としての専門性の枠内でも当然さまざまな新しい試みをし、「患者たち」が主体をとりもどすのを援助しはした。だが、それだけでは、これらの病は根治しないことがはっきりして来た時に、自分の枠の中にとじこもっていることは犯罪的だった。帝国主義の暴力にさらされる中で人々はヨロイを着、その自らを守るヨロイに押しつぶされ,筋肉はこわばり、心もボロボロになってしまう。このこわばったからだ、ヨロイを着た筋肉が対抗暴力として自分を解き放つ時に、はじめて植民地主義に対決しうる主体が形成されて行く、それが「治癒」の唯一の道だとしたら、精神科医は民族解放の武装闘争に身を投ずるしかない。ファノンが精神を肉体から切り離し、個体を集団から切り離してしまう精神治療の伝統に埋没し得なかったのは当然のことだった。 
全体的人間ということを私たちはともすればーマルクスとエンゲルスの半ば戯れの記述によりかかってー絵も描けば釣りもし、工場で働くかと思えば食後には批判もするという類いのカルチャーセンター族みたいにイメージしてしまいがちだ。毛沢東が農業もやり工業もやり、学問もやれば革命もやり、軍事もする人間というとき、そのラディカリズムにもかかわらず、ここにもあまりに楽天的なひびきがある。
ファノンは「人間を解き放つ」という命題を徹底した否定性の上に置き直した。「地の呪われたる者」というあれである。この世でもっともさげすまれ、疎外され、抑圧され尽くした人々こそが人間の全体性を取り戻す最前衛になるというのだ。「地の呪われたる者」というのはいうまでもなく、インタナショナルの歌詞の「起て、餓えたる者よ」の言語なのだが、それは「プロレタリアート」の再定義でもあった。特権化した先進国の、あるいは第三世界の都市プロレタリアでなく、もっとひどく収奪された農民たち、犯罪者や被差別民たちこそが非植民地化と人間の解放の主体となるだろう。ファノンは非抑圧者たちを理想化した訳ではなく、彼らがいかに深く病み、ゆがめられているか、自分をとざしてしまっているかをつぶさに専門家として観察したからこそ、それを医師として「治す」ことに絶望し、同時に、彼らが自己の身振りを取り戻し、解き放つ以外にどんな希望もないこと、その携帯としての反植民地主義の暴力に自分を合流させることが「人間、つまり自分自身に絶望しない」道だと考えたのだ。
私たちに取って、このことはまず、自分たち自身のヨロイを発見し、それを脱ごうとしはじめることだった。さまざまな「革命派」もヨロイ集団としてしか見えなかった。たとえそこに状況の深部の「暴力」が投影されているにしても、他人に代わって判断してやるという医師の役割を演じようとする「革命派」に私たちは絶望していた。地に呪われた者たちと出会い、彼らとともに互いのヨロイをこわし、身振りの収奪のシステムを断ち切って行くことが、私たちの革命にほかならなかった。
この十年の間に何が変わったのか。この身振りの収奪のシステムこそが増殖して来たのだ。そしてわれわれのほとんどすべてが、白い仮面の下で精神の病が進行しつつあることを薄々自覚し始めている。だから私は差別に着いて語るときも消費社会に着いて語るときも「体育」と身振りの変革について語るときも、おかげまいりにおける性倒錯について語るときも、政治の病の増殖について語るときも、何度でもファのンに立ち返らざるをえないのであるらしいと、この文章を書いてみて私は気づいた。


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2016年11月ファノンのこと

2016年11月30日 9:18

 

 

深夜に写したので誤植が多い

 

 

高野 威

11月30日 9:18
ファノンのこと、深夜に写したので誤植が多い。訂正しましたがまだあるかも。
ファノンについての文章は少し気恥ずかしいところもあるが、これが当時の「レーニン風」の文体でもあった。当時はゲバラやカストロや毛沢東やファノンという存在を「仲間、ちょっと先輩」というくらいに感じていた。早く死んだゲバラは別にして、カストロや毛沢東については悪い評判も多々あったが、兄貴分というのは変わらなかったし、今もそうである。当時「第三世界」という言葉があって、アメリカと英仏独を中心とする第一世界とソ連などの第二世界に対して、キューバやアルジェリアや中国やベトナムに代表される、共産党宣言の言葉を使えば新しい「妖怪の徘徊」を私たちは「第三世界」と呼んでいた。
この文章は「第三世界」の側から日本の「革命派」を批判していた。地球の中で「第三世界」と呼ばれるものが「私たち」の内部では身体だった。その次元での課題を「人間を解き放つ」=「互いのヨロイを壊し,身振りの収奪のシステムを断ち切る」ことに置いていた。それこそが最重要課題であるのに、日本の革命派(新左翼を指している)はそこから逃げている。そうした空洞化が進んでいたので、身体革命が正面の課題として据えられなければならなかった。全共闘が負けたから気功をするというような話では全然なかったのである。韓国、台湾、中国、そしてキューバやアルジェリアで同時代的に進行することのまっただ中で「ヨロイからの解放」が掲げられていた。ヨロイとは私の中の帝国主義権力だからだ。その仕事はいまも変わらない。


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