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2016年6月



2016年6月母と母の母の写真 (一)

2016年6月1日 2:50



淑徳大学の長沼さんという方から

  淑徳大学の長沼さんという方から何度かお電話を頂戴した。高瀬のことをしらべているということだが、すぐにピンと来なかった。よく考えてみると、なんと私の母方の祖父なのである。祖父が刀剣の鑑定家だと言う話は聞いたことがあったが,それ以上にどんな人かというのは聞いたことがなかった。長沼さんはもう長年にわたって高瀬のことを調べていたらしい。ただの刀剣鑑定でなくさまざまな分野に足跡を残した人らしかった。 長沼さんは私への手紙で描いておられる。 「小生は43年にわたって日記を書き続けた高瀬真卿(1855-1924)の事績を研究している者です。高瀬は明治・大正期にジャーナリスト、新聞経営、政治小説、歴史小説の著者、出版社経営、刀剣鑑定の分野に足跡を残しております」 ジャーナリストで小説家だったなんて、聞いたこともない。それだけでゆさぶられた。その高瀬の子孫が残っている43年分の日記を淑徳大学に寄贈して、長沼さんが調べることになった。その関連資料の中に「その、しづ子、范、たけ」が写っている写真があったので、それはあなたの母おじおばだろうかという問い合わせをして来られたのである。それは大正三年に撮られた写真らしく、志づ子9才、范7才、たけ2才と書いてある。范は模範の範と同じ字で、すすむと読ませていたらしい。たけは洸子でたけこと読ませていた。それに比べれば母はまだわかりやすいが、倭文子と書いて「しづこ」である。高瀬は「志づ子」「志津子」とも書いていたらしい(実は私のペンネームの津村喬は「志津子」と「猪俣津南雄」からとったのである)。長女の倭文子はくりっと大きな眼で見間違えようがない。 母の母は大塚園子といって、1916年8月3日に結核で28才で亡くなっている。母の方は1905年生まれだから,母の母が17才の時の子供である。高瀬の方は50才だった。園は芸者だったらしい。それは母からも聞いていた。小さい時は三味線や琴も親にならった。それを身請けして愛人にした。少し年上の本妻はずっと元気だったから、隠して、ということもできなかったろうが、笹塚に結構大きな家を持って、書斎ということにしてそこに通い、園を住まわせた。翌年に倭文子が生まれた。母から聞いていた話では、園はずっと柳橋で芸者のままかと誤解していた。 高瀬が50の時に園は17才で、親子のように離れていた。そのことは今回はじめて知った。 東京駅前のKitteビルの五階の喫茶店でお会いした。思いつかなかったのでこの辺が分かりやすいかと指定したのだが、なんとなくコーヒーだけではすまないような雰囲気でケーキセットも取った。余計な金を使わせてしまった。さっそくおくっていただいた写真の確認から始めた。 ・・・・HOMEに返る



2016年6月母と母の写真 (二)

2016年6月1日 12:50



私の祖父である高瀬真卿については

私の祖父である高瀬真卿については刀剣の鑑定をしていたという話しか聞いていなかった。長沼さんに会って初めて聞く話ばかりだった。ジャーナリストをし、新聞経営もし、いろいろな小説を書いた。これは明治の自由民権運動の頃である。常陸の国、茨城県の出身で、茨城新聞、仙台日々新聞などを主宰した。何度も獄中生活も体験したらしい。その体験から東京集治監の教誨師となり、明治18年(1885)日本で二番目の感化院である東京感化院・錦華学院を創設した。最初の感化院は大阪でできたがすぐつぶれていて、現在まで残っているのは錦華学院のほうだという。非行少年・少女の保護・教化の目的でできたのが感化院だが、現在は児童自立支援施設と呼ばれている。高瀬の人に知られる事業というとこれであるが、晩年はどこで知識と研鑽を積んだものか、刀剣鑑定家として知られるようになった。刀剣鑑定でどんなふうに金が入ってくるものか、未だによくわからない。 その高瀬の43年に及ぶ日記が残っていて、遺族が置いておいても邪魔で処分したいが福祉研究で知られる淑徳大学に引き取ってもらえるならと、無償で提供してくれた。長沼さんは『近代日本の感化事業のさきがけ―高瀬真卿と東京感化院―』という本をまとめ、膨大な日記を六巻に整理して、五巻までがすでに刊行されている。全部で二万程度のものだから、フィンランドから帰ったら注文するつもりでいる。 私の祖母と子供たちについては、高瀬家ではむろん記録には残っていない。  その中に紛れ込んでいたこの写真については、見落としていたのかも知れない。 長沼さんはお会いした時に『素園遺稿』という80ページほどのパンフレットのコピーをくださった。それはまさに驚くべきもので、園が亡くなったときに高瀬が編集して、おそらくごくごく内輪で残したものと思われた。扉には園子の写真がある。むろん和服姿で丸髷に結っている。14才くらいから折りにふれて書き残した千首余りの和歌から自ら百首を選んだ。ということは死を覚悟してこうした形に残そうと思ったか。「わらはが、幼き頃より読出たる、腰折れ歌あまたあれど、みな幼き口ぶりのみにて、ひとに見すべきものにはあらず、そが中に君が見たまひて點加へたまひしもの百首ばかりもあなり、これのみは書きとどめて倭文子に採らせんとて、かくかい記すなり これもまた他に見せんとにあらずあなかしこ」 ここに倭文子が登場してきた。「君」というのが高瀬のことである。 この和歌は基本的にはすべて恋歌だ。

 うつせみの世にふたつなき命をば
   君にまかせて十年へにけり
 世の中は何をうつつと定めはや
   夢とも見えぬ夢もありけり

倭文子にこの物狂おしい恋心のありかを伝えたかったというのだろうか ・・・・HOMEに返る

 

 



2015-16フィンランド明日フィンランドへ出発です

2016年6月02日 7:16

写真


7月4日までぴったり一ヶ月です

明日フィンランドへ出発です。7月4日までぴったり一ヶ月です。もう少し早く帰って来れるのだけど,チケットがこの日だけばかに安かったので(なぜか周囲の日と五六万違う)この日になりました。ミッドサマーの周辺も仕事が入っていないので,ひたすら部屋にこもって郭林の翻訳を進めたりいろいろ翻訳します。中日大辞典も持って行くつもり。大きな小説も何冊か持って行きます。今回は料理企画がなく、あまり食材も持って行きません。パーティ用に半年持つ豆腐とか高野豆腐とか少し持って行くだけです。自分のためにさばかんと梅干しとか、ふりかけくらい。ゆうべは天満橋の授業の後二駅で行けるので空堀商店街の金時鐘さんの店すかんぽに行って一ヶ月会えない朝鮮料理を満喫しました。でもコチジャンくらい持って行こうかな。豆板醤とか。体調は割合いいですが、春に花粉症かと思っていたじんましんがなかなか収まりません。長い風呂に入ればよくなるがフィンランドにはほとんど湯船がありません。三日くらい断食すればいいのでしょうが、なかなか。ま、楽しんで行ってきます。ついたその日にエストニアに移動です。 ・・・・HOMEに返る

 

 



2016年6月母と母の母の写真 (三)

2016年6月2日 20:15



園の日記に

園の日記に倭文子(しずこ)の名前が出てくる所を抜き出してみる。
01 素園百首の素園による序文
 これのみは書とどめて倭文子に採らせんとて、かくかい記すなり
02 明治40年6月5日[倭文子二才]
 倭文子が生長して祖父母の事を知らんと思ふ心も出つべし思ふ故
03 7月30日
 母上は倭文子をおさんに背負うて、上野の博覧会に行きたまふ
04 12月14日
 (鎌倉へ)六時半に起出て支度をなす、同行は母上、倭文、銀次郎と妾なり、倭文は銀次郎におん負して。(品川より)透きたれば倭文子を下したるに、ひとりで騒ぎまわるそれを見ながら行くうち…  庭園を散歩しながら倭文子を遊ばせ居るなかに  銀次郎に倭文を背負わせて八時の汽車にて帰りたまふ
05 明治41年2月15日[倭文子三才]
 朝飯しまつて、倭文子に靴はかせて、中通りの邊を散歩しながら遊ばせる、右より左より織るが如く来る車、あぶなければ、なるべく軒下を歩かせるに、気ままにしておけばスタスタと菓子屋へ入り込み出て来ぬ故、余儀なく買ねばならず、下駄屋へ這入りて、小さな下駄持ち出されてまた入もせぬ下駄を買て大笑いした事もあり  夕方倭文子つれて湯にゆく
06 2月21日
 行違いて乳母(ばあや)倭文をおん負して来る
07 明治42年1月10日
 モウ[書道の]お稽古をやめたくなった、いつか倭文子か十三にもなつたら習はせやうと思う
08 大正4年9月24日[倭文子10才]
 十六夜の月を見るつもりとて、…米一升挽て團子十六こしらへ、三宝の上に盛り、…涼臺の上にて子供三人相手に都合五人にて、月を見ながら酒もりをなす
09 4年11月10日[倭文子12才]
 今日は御大禮御執行の當日なり、…子供等をお湯に入れて三時に一同衣服を更む、[大正天皇の即位礼があった]  京都の方へ向て妾が天皇陛下萬歳と唱へたれば、三人の子も同じく萬歳を呼ぶ…三人に御赤飯を祝はせ、五時頃倭文子をつれて日本橋まで買物にゆきたるに
10 4年11月16日
 うちでも小さな園遊会を催さうと、俄に折紙で色々の小旗をこしらへ、庭の松の木より桜と梅へと二枚絲を引わたし、それへ数十枚の小旗を釣し、また小共が学校の旗行列で貰つた小旗や、小提灯をいくつも下て、庭におでん屋と海苔まきすしの店を出し、小共らのお友だちを五六人呼で来て遊ばせる,皆々嬉しがつて飛回る、洸子までが喜ぶこと一通りでなし
11 5年2月6日
 今日倭文つれて小島へ年始に行ふと思ふたるに雨天にて見合せ、倭文は不平だらだらなり[この頃発熱、悪寒、寝汗があるようになり北里の養生園にかかることにする]
12 5年2月8日
 倭文は風邪にて学校を休む
13 5年2月13日
 倭文子に催促されて小島さんへ年始に逝く白木屋で買物してから小島により四時に帰る [連日発熱。一日おきに北里に行くがそれも苦しい。2月24日から5月15日まで日記は中断。17日も「涙のとまらぬ日なり」18日も「同じく」とある。治らないので東大の伝染病研究所に行くが見立ては同じ。自筆の日記は25日で終わっている。以後「二十六日より十日計は倭文子に口授して代筆させたけど、六月に至りては病床に呻吟して口授するすら懶き體なり」8月8日永眠。28才だった] ・・・・HOMEに返る

 

 



2016年6月母と母の母の写真 (四)

2016年6月3日 0:20



「妾は五ツの歳に大塚の家に養女として引取られ・・・・」

「妾は五ツの歳に大塚の家に養女として引取られ十五の歳まで実の父母ある事を知らざりしなり」と明治40年6月5日の日に園は書いている。「吾が祖父の君は播州明石藩の用人、家の禄は六百石、潮田范三と云御方なり、砲術の名人にて門人は六百人餘もありて、勝安房守とは親しい間にて、幕府の仰せを受て須磨の砲台を築き、将軍慶喜公に御目見えして、御褒美を頂きたりと云、今の松平家の家令石巻清亮君は祖父の君の門人なりと云、父君は二男にて享吉と称したもふ五十嵐家に養れて、これも砲術にて海軍省に召出され、月給四十圓賜りしが、明治廿二年赤十字社病院にて逝去したまふ」そして父の墓は「澁谷村の吸江寺」にあるという。 吸江寺は今も残っていますので、行ってご覧になったら、と長沼さんは言った。調べてみると渋谷、恵比寿、表参道からいずれも15分という便利な所で、臨済宗、1650年から続いている寺である。七月に東京に来た時にぜひ探してみます、と答えた。園も高瀬がここの墓に収めたようなのです。しかし関東大震災も空襲も経ているわけですから、はたして残っているかどうか。園も吸江寺を訪ねているのである。そのころは渋谷といえども「さびしき山寺」なのであった。でも「さびしく思はぬは、父君の御霊や守りたまもうなるべし」 園は十七の頃は料理が苦手だったらしい。芸者として育ったから芸事はともかく料理などした事がなかったのは当然だ。唐茄子というとカボチャのことである。先日の豚の角煮は失敗して食べられなかったが、やってみようと思った。「小さな唐茄子半分切るのに三十分もかかり、やうやうの事で煮上がる。今日のは大出来なり」。「天下の美味なり」と自賛している。電話をして高瀬を呼ぼうかと思うがあとで叱られるだけとあきらめる。 41年6月1日の欄には『料理獨稽古』という本を買ってちゃんとおいしいものを作ろうと決心するのだが、苦労して鳥のつくね焼、玉子豆腐を作る。そうばかにしたものでもなしと思うが卵豆腐は馬鹿に塩辛いものになった。「ひな子が来て無遠慮にずいぶんまづいわには恐れ入つたり」  月見料理を作ったりのころにはそう時間もかけずあれこれ重箱をそろえていたりしたが、料理得意というほどにはなかなかならなかったようだ。裁縫については「どうやら小供の着物くらいは自分で仕立てるようになりたれど」と書いている。また誰にも内証で刺繍の稽古に行き、「裁縫のお稽古の帰りによつたり、また朝早く行たり、なるたけ人に知れぬ様に習ひ、一年計りで半襟や羽織の紋位はどうやら人並に縫ふ様に」なった。刺繍をしているときに高瀬がやってきて、黙ってみていたかと思うと「いつの間にかくも習ひてささ蟹の/いとのたくみに縫はしめけむ」と手近の団扇に書いてくれた。 ・・・・HOMEに返る

 

 



2016年6月母と母の母の写真 (五)

2016年6月3日2:15



この写真では、

この写真では、母の園と倭文子(しずこ)、范(すすむ)、洸子(たけこ)の三人が写っている。ところが私の記憶には、まだ雪子がいる。それから葉子と八重子がいる。葉子と八重子は会っていないのだが、雪子は洸子同様倭文子の晩年にもいつも会っていた。そのことを長沼さんに伝えた。長沼さんは知らなかった。雪子は范と洸子の間の子のはずだが、子供時代の写真はない。帰って探してみたら、倭文子と雪子の着物姿の写真は何枚かあった。洸子も成人してからはずっと着物である。倭文子はふだん洋装で小唄の会などでは着物を着ていた。 雪子は藤田親昌の妻だった。藤田親昌は戦時中の中央公論事件の被告として知られ反軍部に突出していた中央公論の編集者だった。親昌と雪子の息子が劇団三十人会のふじたあさやである。雪子は倭文子の妹と聞いていたが、私の勝手な思い込みかも知れない。「養子という事も当時はしょっちゅうありましたからね」と長沼さんはいう。園の父も五十嵐の養子であったし、園自身も大塚の養子だった。雪子の事は調べてみなければならない。 范の写真はわが家に残っていたのは軍服姿のものばかりである。結婚式のも、一人で写ったのも皆軍服である。高校までも常に一番だったが、招集されてからも成績抜群で、海軍大学に推薦されて入った。昭和18年に潜水艦に乗っていて撃沈された。倭文子はしばしば思い出していた。私も会ってみたかった。 洸子がどんな育ち方をしたのか、聞いたことがない。私が知っているのは浪々と長唄を歌い、三味線を弾く姿である。私が晩年の倭文子に小唄を習って三味線をいじった時に、それを聞いて洸子は「姉さん、この人を長唄にちょうだい。きっと大成するわ」と言った。リップサービスだとは思ったが、長唄に売られては大変と逃げ出したことがある。 もうひとつ記憶に残っているのは、洸子の亭主が急にボケ始めたことである。長唄で忙しくしていた洸子は家にいた夫とあまり生活をともにしていなかった。あるとき帰ったら「どちら様でしたでしょうか」という。ふざけているかと思ったら、本気なのである。施設に入れてやっと落ち着いた。 葉子と八重子はどうなのか。『素園遺稿』には二人は出て来ない。 古いアルバムには八重子の写真はたくさんあるのだが 葉子の写真は今の所見つからない。まだ写真はありそうな気がしている。ただ、一番古いアルバムの一ページに、「范さんの兵学校入学記念」と倭文子の字である写真がある。といっても写真そのものははがれてしまっている。その下に「しづ20、范18、葉子8、八重子5」と書いてある。その下に残っている写真があり、八才の葉子と五才の八重子の後ろに倭文子が立っている写真がある。しずが20というと大正14年(1926)。葉子は大正6年、八重子は大正9年の生まれということになる。園は大正5年に死んでいる。葉子はその翌年、八重子は4年後に生まれている。葉子と八重子には別の母親がいたのである。もう高瀬は62才だった。元気な人である。母親が誰だったのか。わたしが「おばあちゃん」として記憶している人なのだろうか。 私は小さい頃「おばあちゃん子」でおばあちゃんに負ぶわれて背中で過ごして、その時間はけっこう長かったきがする。しかし小学校4年くらいの時におばあちゃんが死んで、浅草寺に祀った。その時に本当の祖母でない事を知った。彼女が葉子、八重子の母親だったのかも知れない。 葉子と八重子は二人とも二十歳前後で結核で死んだ。 ・・・・HOMEに返る

 



2016年6月私の古いacerが

2016年6月3日  2:30

写真


突然Windows10にどんどん切り替わってしまった。

私の古いacerがOKボタンを押した記憶もないのに突然Windows10にどんどん切り替わってしまった。それだけならばいいかと思っていたのですが,facebookを気楽に開けてみたら、いつものが開かないで、顔のない別のtakashi takanoになってしまいました。 30日以内なら元に戻せるとかいてあるのだが、どうひっくり返してもわからない。tsumuraから入ってもとのtakanoにはいけるのだけど、それは他人のだから書き込みができません。 いまはデスクトップのマッキントッシュで打っているので何も問題はありませんが、フィンランドやエストニアでacaerをどう使えるかはわかりせん。 向こうに行ってからいろいろ試してみるという事で,ひょっとしてfacebookはしないかもしれません。その場合は一ヶ月お休みです。
でなければ別のタカノタケシに一ヶ月だけ書いて、ここを見てくださいとなるかもしれません。それにしても「10」の横暴はひどいものです。 そろそろ持ち歩けるマックがほしいなあ。・・・・HOMEに返る

 



2015-16フィンランド楽しい北欧の仲間

2016年06月26日

写真写真
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素晴らしい!

素晴らしい週末の気功!カウコと津村だけでなく、すべてのコースの仲間に大感謝!津村のおいしい食べ物だけでなく、最高の旅の友人がいるそして素晴らしい滞在場所、それぞれすべてを戴冠。感謝と幸せ!

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2015-16フィンランドリサ ランドールの世界

2016年06月26日


 

5次元の世界への招待 NHK

 

5次元世界理論の確定を得たのは1998年マサチューセッツ工科大学の教授として素粒子の研究をしていました。この研究で『原子核を構成する素粒子の中に、この世界から姿を消す物が有る。』と理論上の疑問にぶつかりました。なくなるはずの素粒子が姿を消すのは何故?私達の世界を取り囲む別の次元があると仮定するとその矛盾が解決される事に気づいた。
【Lisa Randall】物理学のニューヒロインと呼ばれ、最もノーベル賞に近いと注目されているのが、ハーバード大学教授で理論物理学者のリサ・ランドール博士だ。私たちが暮らす3次元世界のすぐそばに、5次元など異次元が存在するという博士の理論は、世界の研究者たちの間で最も引用される論文のひとつとなり、来年行われるスイスでの巨大な加速器を使った実験でその理論が実証されれば、アインシュタイン以来の21世紀最大の発見になるかもしれないと言われている。

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