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2016年3月

インターネット接続

2016年3月3日 15:49

インターネット


11月からこじれていて、留守で連絡がつかずキャンセル

 

フレッツ光を引くという話が11月からこじれていて、フィンランドに行って連絡がつかずキャンセルだとか、法人としての書類を揃えろとか、でいまようやく三階に住んでいる人の一人をつかまえれば配線に来る候補日が決まるという段階にさしかかっています。NTTというのかしりませんが、昔のソ連並みの組織であることは間違いありませんね。 いまは近所のセブンイレブンでつないでいます。家でもバス停のKyoto Wifiがときどきつながるのですが、安定して作業をするにはスタバかここに来ないとなりません。世の中には無料でアクセスできるところが数百ある筈ですが、いまのところ二カ所だけです。フレッツ光が通ずるまでは、耐えることにしましょう。 こちらも留守ばかりなのは確かなのです。ここ一週間余り、湖北省の武当山に行っていました。健身気功の世界組織がありまして、その幹部の訓練班というのがあって、行ってきました。私はそこの常務委員になっています。日本からは一人だけで、中国、アメリカ、フランスなど16か国のリーダーが集まっています。訓練班に参加したのは32か国、160人あまりでした。中国政府はこれに力をいれていて、おととしのカナダ大会、去年のパリとポルトガルの大会など世界各地で開催する一方、中国国内でも峨眉山、九華山などの歴史のある名山で大会や訓練班をしてきました。武当山はその一環です。 武当山は太極拳の発祥地として知られています。陳式太極拳の陳家溝が知られていますが、時代的にはずっとあとのことで、元から明に生きた張三丰が太極拳のもとになる内功を開いたとされています。いままでその噂を聞いているだけでしたが、現地で張三丰の著作を手に入れて読んでみると、全編これ内丹の著作です。太極拳がこういうところから生まれたのだということを今にして知りました。また段々に紹介していきます。 中国とのつきあいが深まってくると、やはりもう少し中国語を本格的に勉強しないと、いつまでも「食堂中国語」では困る場面が多くなってきました。常務委員会でも英語と中国語だけが公用語なので、なかなか思うことも言えません。英語より先に中国語の訓練をした方がよさそうだと、まずは昔からため込んだ教科書を読み返し始めています。HOMEに返る

 



月曜社の紹介

2016年3月6日 23:38

横議横行論


横議横行論 津村喬著 酒井隆史解説 航思社

 

月曜社の紹介です。 横議横行論 津村喬著 酒井隆史解説 航思社 2016年2月 本体3,400円 四六判上製344頁 ISBN978-4-906738-16-8 帯文より:「瞬間の前衛」たちによる横断結合を! 抑圧的な権力、支配システムのもとで人々はいかに結集し、蜂起するのか。全共闘、明治維新、おかげまいり、横巾の乱、文化大革命、ロシア革命、ナチズムなど古今東西の事象と資料を渉猟し、群衆、都市文化、組織、情報、戦争、身体、所作/作風などあらゆる側面から考証、「名もなき人々による革命」の論理を極限まで追究する。 ★発売済。シリーズ「革命のアルケオロジー」第五弾です。単行本未収録論考に、書き下ろしを加えた一冊。目次詳細は書名のリンク先でご覧ください。表題作である第一章「横議横行論」は1980年から1981年にかけて工作舎の『遊』に連載されたもの。その続編である第八章「横議横行論(続)」が書き下ろし。第二章から第七章までは70年代に各誌で発表された論考です。巻末の長編解説「一九六八年 持続と転形」(400字詰で約100枚!)は酒井隆史さんによるもの。津村さんの著書をこんにち読み返すことの意義について熱く語られています。 ★「横議横行論(続)」にはこう書かれています。「もはや誰も「左翼」について語らず、考えようともしないが、国家全体がどんどん右傾化していく二度目のプロセスが今進んでいるなかで、「左翼」が踏みとどまって声を上げていくということが何よりも大事だ。しかし、私たちは「戦後左翼」も「新左翼」にももう何事も期待していない。「戦後左翼と「新左翼」に共通した欠点は、「自分の主張だけが正しい」という立場に立ったことである。その背後には、レーニンやトロツキーなど様々な先達の言葉が覆いかぶさり、それぞれが人と違う説を立てて、一党一派を作った。〔・・・〕言葉で自分を定義できる、言葉によって自分は左翼だと思うことが病だったのだ。〔・・・〕私は前衛だ、と思う人は、ただ自分のまなぶことができた知識でそう思っているにすぎなかった。だから人を押しのけて論争し、言い負かすことに自分の存在価値はあった」(277-278頁)。 ★猪俣津南雄を参照しつつ議論は続きます。「縦割りにされている産業別と党派別の組織のそれぞれの中に、左翼的な役割を果たせる「個人」がいる。その個人が縦横につながっていくことで不定形の、絶えず変形する「前衛的なもの」が現前していく。前衛党と称する党派のメンバーであるならば前衛なのではなく、その一人一人が現に果たしている役割によって決まる、と〔猪俣は〕考えた。自称前衛党であってもその局面で反動的な役割を果たすこともあるし、右翼組合や中間政党に籍をおいていても、ある時点ではすばらしい積極的な役割を果たすこともある。その者が次の局面ではまた反動的な役割を持つこともある。前衛制度論ではなく、前衛機能論がこれだった。これを横断左翼と呼んだのだ」(279—280頁)。 ★「いま横議横行論から横断左翼までを振り返ってみる理由というのは、またしても右翼的反動の時代を迎えつつある中で、タテ社会ではないヨコの抵抗組織、そこからくる新しいヨコ社会のあり方を展望してみようという思いからなのである」(281頁)。これに呼応するようにして酒井さんはこう書いています。「かくして誰もが過去を乗り越え、すべての欠点を克服したはてに、歴史の絶頂に位置することになる。現代は、このような自己愛と高慢の情動で充填された日本語で満ちあふれている。本書がなぜいま読まれなければならないか? そのような日本語空間――津村喬たちが「国=語」と名づけた――の外に脱出し、わたしたちのスタイルをあらためて獲得するためにほかならない」(337頁)。HOMEに返る

 



いつもの古本市

2016年3月11日 12:36

マルクス1


マルクス・エンゲルス全集のうち12巻を手に入れた。

 

いつもの古本市でマルクス・エンゲルス全集のうち12巻を手に入れた。消費税のつかない100円である。「朝何冊か買っていった人がいましてね」という。最初の三巻がないのは初期マルクスへの興味からだろうか。18までのうち5冊が売れている。初期マルクスは広松訳のを持っている。全集だから全部あった方がいいが、まあなくても構わない。ひたすらなつかしい。お祖父さんの本に出合った感じだ。国民文庫や岩波文庫ではあれこれ持っているが、全集は親の家にあったのを高校生の頃耽溺して以来である。今は兄の家に有るのか、大船の家に置いたままなのか、知らない。四巻は共産党宣言から始まっている。新しい共産主義者宣言と訳したのも含めて、いろいろな翻訳を持っているが、全集本で前後の細かい文章と共に読むと、もっと書き手の状況が目に浮かんでくる。やはり五十年たっているのだから、ずいぶん読み方も違うだろう。私は小学生からレーニンを読み、高校生から本格的にマルクスや毛沢東を読んだが、「レーニン主義者」でも「マルクス主義者」でもなかった。ただ非常に親しかった。この二人は息遣いが聞き分けられるほど近くにいた。最初に読んだレーニンの「青年同盟の任務」で「きみたちが共産主義者になるということは人類の知的遺産をすべて引き継ぐということなのだ。共産主義以前の文献や共産主義以外の文献に学べなければ意味はない」という意味のことを読んでから、私はどんな「主義者」でもなかった。「人類の知的遺産」をまるごと引き継いでやろう、というある意味で思い上がりだが、実際には非常に謙虚な、私を無にする態度が作られた。まだこの程度の勉強では自分の思想など作れないぞ、という思いだ。マルクスやレーニンを、あるいはトロツキーの「主義者」だった人たちは今頃それらを投げ捨てて顧みないかもしれないが、私は今でもお祖父さんたちの残した仕事として大事に思っている。考えてみたらこれは気功という5600年の歴史に向き合うのとおなじことだ。重いので持ち歩けないのが問題だが(一冊四センチくらいある)空いた時間にじっくり読み直してみよう。HOMEに返る

 



忘れていたことをだんだん思い出してきた

2016年3月12日 2:27

マルクス2


マルクス・エンゲルス全集

 

忘れていたことをだんだん思い出してきた。マルクス・エンゲルス全集は43巻か45巻、それに三冊くらいの別巻があった。ネットの古本市場で見てみると、確かに43巻か45巻の版の違うのがあり、私がよく読んでいた父親の蔵書は43巻本だった。横浜の父親の家は天井裏がずっと本棚になっていて、数千冊が入るようになっており、マル・エンとレーニンはその上の本棚に並んでいた。梯子で上がるのが大変だったし、鉄枠の支えはあったが、年寄りには不安定だった。いつだったか父親がいつになく上に上がって労働運動の分厚い資料を苦労して取り出して抱えたが、姿勢が不安定になり、資料を落としてしまった。それがなんと下の台所のテーブルに坐っていた母親の頭を直撃した。危険な書庫でもあった。人に見せられないような雑多な書類は玄関わきから入るちかしつがあって、そこに詰まっていた。私の買いためた全音の膨大な楽譜なども、部屋には入りきらず地下室においてあった。 トイレに佐藤金三郎の『マルクス遺稿物語』(岩波新書)が二章まで読みかけであって、古本屋の全集を手に入れて急に読みたくなり、そのまま風呂で読み続けてほとんど読んでしまった。マルクスの死後エンゲルスが目の病気で一日三時間までと医師に制限されながら資本論の二、三巻を世に送り出していく過程が主として書かれているのだが、その周辺のカウツキ―やマルクスの残された娘たちとの葛藤が書き込まれている。その中でマルクスは大英図書館に通っていたけれど、自分の蔵書にも埋もれていて、亡くなった時に2000冊の蔵書があったという。何度も追放処分にあったりしていて、知り合いの医師にゆだねて行ったり、いろいろな変遷があるのだが、晩年にロンドンで買いためた本がこれだったらしい。しかし2000冊というと今の我が家の気功関連図書室に展示してある分量である。1600冊がトイレに(文庫新書だけだか)、600冊がこのコンピュータの部屋にあるし、寝室にも本棚四つ1400冊があるし、奥の書庫に横積みしてあるのが何冊あるかわからない。雑書の数ではマルクスより多い。テレサ・テンといえば日本語中国語合わせて12冊ほどあるし、台湾料理というと6冊、奄美料理なら5冊という具合。毛沢東関連書で250冊ある。マルクスの蔵書を友だちや親類で分け合って残りをエンゲルスが引き取ったが、自分の家を大改造しなければならなかったらしい。私の死後これらの本をどうするかも大問題である。 佐藤金兵衛の書き残した部分に、佐藤の死後伊藤光晴が終章を書き継いでいる。とてもたやすく要約できないほど、マルクスの遺稿は奪い合いになり、一部はヒトラーの目を逃れてひそかに持ち出され、一部はレーニンのもとに集められ、また一部は売りに出された。そしてエンゲルスが苦労の果てに生み出した資本論三巻と剰余価値学説史そのものが、マルクスにとってエンゲルスの不本意な歪曲を経ているのではないかと再点検が始まっているという。 もう一度資本論をそのような目で読み返す時が来るのだろうかHOMEに返る

 



秀吉が勝てなかった朝鮮武将(一)

2016年3月12日 12:49

秀吉1


貫井正之という東邦高校の先生をしていた人の本

 

貫井正之という東邦高校の先生をしていた人の『秀吉が勝てなかった朝鮮武将』〔同時代社〕が面白い。1992年だから、かなり前の古本である。秀吉の朝鮮侵略については、以前耳塚のことをしらべてみただけで、全体像を知らなかった。日本はただの一度も中国や台湾、朝鮮から占領されたことはない。元は攻めてきたが日本上陸はできなかった。だが日本は隣国を機会があれば侵してきた。朝鮮に対しては秀吉の時に二回にわたって一部を占領し、1910年から1945年までは全土にわたって占領した。古い時代の新羅や百済とはまさに一体の歴史があり、徳川期などもいちおう友好の歴史があったのだが、この二回の侵略を通じて朝鮮の人には日本に対する決定的な侵略者としてのイメージができてしまった。それは従軍慰安婦の問題などだけ取り出して解決のつくことではない。 秀吉は1585年にはじめて側近に「日本全土を制圧するだけでなく、唐国までも取る」というとんでもない夢想を語った。関白になった直後だった。その翌年にイエズス会の宣教師を通じて侵略の意図をローマ教皇に伝えている。1591年、弟の秀長と息子の鶴松が死に、千利休を切腹させて殺した。関白を秀次に譲って侵略の事だけに集中した。92年全国の大名を動員し、小西行長、加藤清正らを筆頭に30万5300人の兵を揃えた。 1592年の4月、小西たちがまず700隻余の船で釜山に攻めかかった。小西は当初「仮道入明」つまり明を侵略するために通してほしい、朝鮮とは闘いたくないという要求をつきつけたが、拒絶され、13日未明から半日の間に釜山を落として敗走させた。ほかの軍とも呼応して、5月2日までに漢城(ソウル)を占領した。抑圧された下層民の多くが日本軍を解放軍のように歓迎し、積極的に協力した者もいる。4月26日には秀吉の「一 軍兵乱暴狼藉のこと 一 放火のこと。人取りのこと 一 地下人、百姓に対して臨時の課役、その他無法ことを申し付けること 右のこと堅くこれを禁止する。もし違反す者あらばすぐに厳罰に処する」の布告があった。少なくともこの時点では侵略者・略奪者になりたくなかった。しかしもうこの開戦直後の時期に、縫製、陶磁器の技術者の誘拐を命じている。 6月16日、平壌を占領、朝鮮国王は平安北道の鴨緑江岸にまで逃げ延びた。日本軍は平壌にとどまって全国の大勢を把握しようとした。しかしこの時期既に二つの反撃の動きが出始めていた。ひとつは李舜臣の水軍の動きだ。もうひとつは地主の息子郭再祐が組織した義軍である。 各地の防衛責任者が次々敗走しまた戦わずして逃亡した中で、日本軍にゲリラ的な損害を与え続けたのは郭再祐の民間軍だった。彼のもとには土地を奪われた者が集まった。下層の被差別民も、ある者は日本軍の手先になったが、ある者はこの義兵に結集した。郭は差別をしないで地主も被差別民もひとしく受け入れた。「民衆に迷惑をかけた者は斬る」という規約のもとに民衆の軍隊が成立した。 八月延安城で義兵たちが黒田長政軍をうちやぶったことが転換点になった。義兵は全国にひろがった。九月以降日本軍の破竹の進撃は全線で停滞し始めた。慶尚南道の首都晋州城の攻防がひとつの転換点になった。朝鮮第一の名城と言われ、三方は峻険で一方は大河があった。大阪で指揮する秀吉はこの城を奪うことで戦局を転換しようとした。細川忠興ら二万人が包囲したが、各地の義兵が到着して日本軍を包囲し、日本は初めて徹底的な敗軍を迎える。これをきっかけに政府軍と義兵との結びつきが強まり、日本軍は各地で苦戦するようになる。これが10月のことである。(続く) HOMEに返る

 



秀吉が勝てなかった朝鮮武将 (二)

2016年3月14日 3:27

秀吉2


700余の艦隊を抱えていた

 

秀吉が勝てなかった朝鮮武将 二 日本は先発の小西軍だけで700余の艦隊を抱えていたが、李舜臣が左遷先から呼び返されて急遽艦隊を組織した時、わずか20隻ほどしか軍艦がなかった。李はそれを緊急に訓練しなおして藤堂高虎の50隻余りを加徳島で襲い、ほぼ半数を撃沈した。5月7日のことである。李は新型の亀甲船を作って、次々に日本戦を沈没させた。亀甲船とは、表面を甲羅のうに鉄で覆い、日本軍に乗りうつられないよう針鼠のように尖鉄を植えて、大砲は両舷と先頭に置き、鉄砲隊と水夫を下に配置させた新型船で、当時世界に類をみないものであった。六月の間に日本船67隻が沈められた。92年秋から冬に、日本軍の敗勢は隠しようもなくなった。平壌で敗戦してソウルに全勢力を集めて防衛した。石田光成は前線からの報告を秀吉に送った。「明軍に押され、各地の義勇軍に追い詰められている。釜山にも朝鮮水軍が現れて、補給路を止められ、兵力・兵糧が極端に不足している」小西行長軍、加藤清正軍はいずれも60%人員が減っていた。小西、加藤はそれぞれ講話交渉のルートを探し始めた。明軍はソウル郊外の二か月分の食料貯蔵庫を焼き払った。最初の優勢はどこへやら、一年後の四月地一八日には漢城(ソウル)を撤退した。 六月、日本兵は晋州城に集中して猛攻し、奪い返した。ここから慶尚南道に拠点の城をいくつか築いて講話に有利に持ち込もうとした。船着き場につながる小さな城をいくつか作った。 1594年の12月に、小西、石田らは明の使節を日本に招くことに成功したが、それは日本語と中国語が通じないことをよいことに、明と秀吉が双方まったく誤解したまま話をまとめようとした。つまり秀吉は明の王女を日本に来させるとか人質を出させるとか、北の四道を朝鮮に帰すとか、すっかり占領者気分のままだったが、明のほうは「秀吉を日本国王に任命する」というつもりで来ていたので、交渉は決裂した。 1596年9月、秀吉は再侵略を決意し、97年の2月に加藤清正を一番隊、小西行長を二番隊、黒田長政らを三番隊などとして再び侵略軍を整備した。今度は全羅道をまず取ることを考え、できれば慶尚道・忠清道・江原道の南部四道をとろうという当初に比べれば控えめな計画だった。  98年8月、秀吉死去とともに、日本の侵略軍は撤退の準備に入った。秀吉死去を隠したまま、一方で戦い、他方で撤退するから土産物をよこせなど滅茶苦茶な要求をした。とくにこの時期に目立ったのは秀吉が命じた鼻切りである。老若男女出会うと虐殺して鼻をそぎ、塩漬けにして競って日本に送らせた。秀吉は送られて来た鼻を自ら数え、悪趣味きわまる鼻の塚を作り、なぜか「耳塚」と名付けた。生まれたばかりの幼時からさえ鼻をそいだ。島津は十月の戦闘で三万余の鼻をそぎ、秀吉に送ったが、秀吉はもう八月には絶命していた。11月18日、李舜臣は海戦の中で銃弾に倒れ、絶命してしまうが、海戦は朝鮮軍の大勝利となり、日本軍は二百隻を失って敗走した。11月25日、最後の島津軍、小西軍などが釜山を離れ、七年に及ぶ侵略戦争は完全な失敗に終わった。ただ朝鮮と日本の双方に飢えを生じ、たくさんの朝鮮人民を意味もなく虐殺しただけに終わった。徳川家康は善隣友好の大切さを知り抜いていたので、朝鮮からの捕虜千数百名を何次かにわたって送り返し、講話を求めた。朝鮮も北方の金に悩まされていたので、日本との友好関係を必要としていた。鎖国の時代に、朝鮮通信使はずっと続けられた。  秀吉が北京の支配者の椅子に坐れると妄想したこと自体が、根拠のない病的な誇大妄想だった。それに、とくに西日本の武将たちは諾々としたがって軍を出した。それぞれが「支那のどことどこをほしい」といった勝手な略奪を想像しながら。朝鮮は通路としてしか認識していなかったが、結局その朝鮮の普通の人々に反撃されて、敗北してしまう。太閤記の中でどうしてきっちり描かれてこなかったのだろう。隣国で、戦闘のあったどこの公園や城にも記念碑が立っているのに、日本人はずっと知らぬふりをしてきた。事は従軍慰安婦の問題だけではないのだ。  東郷平八郎はイギリスのネルソン提督とともに李舜臣を尊敬してやまなかった。彼はロシアのバルチック艦隊を破るための演習を李舜臣と同じ海域でしたという。HOMEに返る

 

 



航思社のお知らせから

2016年3月19日10:30

秀吉2


『戦略とスタイル 増補改訂新版』『横議横行論』の出版イベント第2弾

 

 

 

 

津村喬さんの近著『戦略とスタイル 増補改訂新版』『横議横行論』の出版イベント第2弾を開きます!
今度は、『横議横行論』解説の酒井隆史さん、NDSの中村葉子さん&佐藤零郎さん&板倉善之さんをお招きしてのトークセッションです。

津村さんと4人の初顔合わせ。どのような展開になるのか、乞うご期待!
さらに、トークの前に、佐藤さん・中村さん・板倉さんが製作した映画『月夜釜合戦』予告編PVを上映します。
ぜひお越しください!
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津村喬『戦略とスタイル 増補改訂新版』『横議横行論』出版イベント
「日常=政治=闘争へ! vol.2」

●日時:2016年4月16日(土)16〜18時(開場15時半)

●会場:ブックカフェ ワイルドバンチ
    (大阪市北区長柄中1-4-7 ロイヤルグレース1F)

●会費:1000円(ワンドリンク付き)

登壇:
津村 喬(評論家、気功家)
酒井隆史(大阪府立大学教授)
中村葉子(大阪府立大学博士課程、『月夜釜合戦』スタッフ)
佐藤零郎(『月夜釜合戦』監督)
板倉善之(映画監督、『月夜釜合戦』スタッフ)

概要:
「日本の68年最大のイデオローグ」といわれる津村喬。
彼は、議会でもなく社会でもなく、身体としての政治/政治としての身体という視点を闘争に導入し、それが現前する場として日常生活と他者性のからみあいを主題化した。
一方、映画『月夜釜合戦』は、現代釜ヶ崎において再開発には包摂しえない人々の生活から生まれる「頓知」に闘争の可能性をみた。
津村の主題と釜ヶ崎の「頓知」をめぐり、津村および映画製作チームとともに議論する。

※『月夜釜合戦』予告編PV(5分)上映
※津村喬『戦略とスタイル 増補改訂新版』『横議横行論』を特価で販売
ワイルドバンチでの写真
オダサク倶楽部さんの写真
「昨日はイベント後テアトル梅田支配人&大阪宣伝ご担当者さんにご挨拶。その後大阪の映画業界人を招き金子監督を囲んでお好み焼きで宴会。最後は大阪一映画業界人が集うというバー、ワイルドバンチへ。百年の時計のポスターの貼りこみをいただき金子監督のサインを贈呈。カンヌ映画祭話で大いに盛り上がりました。」HOMEに返る


 



胡麗娟さんをたずね

2016年3月20日10:30

大同1


胡麗娟さんはもう八十代、現役の医師として活動しています。

 

 今日中国の大同に出発です。ちょうど一年ぶり。胡耀貞気功の継承者である胡麗娟さんをたずねます。胡麗娟さんはもう八十代、現役の医師として活動しています。一度日本に来ていただき、その果てしない素養にふれたのですが、もう外国はどこへも行かないということになって、去年、今年と大同まで習いに行っているのです。
大同は山西省の大きな都市で、首都太原市、長治市に次ぐ三番目の都市、人口は330万あまりです。晋という北方の民族が国を作っていたところで、今は99%が漢民族です。「北は万里の長城を挟んで内モンゴル自治区と、東は太行山脈を挟んで河北省と、南は黄河を挟んで河南省と、西は北上した黄河を挟んで陝西省とそれぞれ接している。山西高原は黄土高原の東部に当たる」。北京から北西部に列車で六時間あまりのところです。胡耀貞さんがもともと自分の診療所と武術道場を作っていたところで、北京でも活躍していましたが晩年はここに帰っています。胡麗娟さんもここで医師となり、一時はイタリア、スペイン、ブラジルなどに長期滞在して治療をし気功を教えていましたが、今は医師である息子さんに胡耀貞を継承することに専念しています。
前回は直前にキャンセルが相次ぎ、日本からは私と高知の内川さんだけ、フィンランドからカウコが来るというぜいたくな三人受講になりました。今回も直前まで増えなかったのですが、日本からは新潟の定方昭夫さん、京都の濱野清志さん、大阪の都倉雅代さんと三人の教授が参加し、内川さんと私と五人になり、フィンランドからはカウコが来られなかったのですが、へイッキが参加しました。通訳の許運堂さんと総勢7人です。来たいという人は多いのですが、なかなか実現しません。
六時間ずつ四日間の授業で24時間。何を習うかは一応希望は出していますが、行ってみないとかりません。せっかく大同に行きながらどこへも観光は行きません。たくさんの風情のある寺などがあるのですが、列車の移動に二日かかってしまうし、もう一日、というのがとても難しい。ただ大阪から北京に飛んでその日のうちに大同までたどりつける便はあるのですが、飛行機代が十数万かかってしまうので、前日の今日の夕方の便に六万弱のがあり、今夜から行くことになりました。
私にとっては16歳でであった陳攖寧の道教気功と、80年代に出会って課題のまま残された胡耀貞の内丹功法が生涯の課題となり、50年目にしてようやく形が見えつつあるところです。一般の大部分の気功は「導引」の範疇ですが、それとはまったく異質の内丹領域に踏み込む仲間たちがすこしずつ増えてきているところです。
日曜に発って日曜に帰ります。ホテルでは普通に通じるので、適宜報告ができると思います。HOMEに返る


 



東京講習

2016年3月28日 6:25

大同1


2016年4月2日(土)11時〜17時
@れんげ舎セミナーハウス


·

 

 

◇日時 2016年4月2日(土)11時〜17時

◇場所 @れんげ舎セミナーハウス(東京都西多摩郡檜原村)

◇内容 
・ 11時~13時【気功講習】・背骨ゆらし・スワイショウ・北戴河グルーミング(保健功)・その他の自己マッサージ
・ 13時~15時【お話「古事記・日本書紀と日本民族の形成」】
最新の歴史研究を踏まえて、少なくとも五つの民族からなる日本民族の形成史をたどり、日本人としてのアイデンティティとは何かを語ります。
・ 15時~17時【フィンランド料理で交流会】(メニュー *予定)・焼きサーモン・サーモン団子のスープ・オープンサンド盛り合わせ・ユーストレイパ(チーズ)の煮物・エビとかにかまのサラダ  など
・費用 6000円

申し込みはれんげ舎
190-0211 東京都西多摩郡檜原村三都郷2810-8
TEL:042-598-3045
NPO法人れんげ舎 長田英史090−3901−3610 HOMEに返る

 

 



王子講習

2016年3月28日 6:35

大同1


ガンの進行を止める郭林の気功法を紹介。

 

..


◇4月3日(日)

●11:00-13:00 ガンから身を守る
ガンの進行を止める郭林の気功法を紹介します。 
福島から東京までガン患者が増えていて、これから激増していくことが予想されます。ガン気功の態勢を作っていきましょう。疑いのある方はぜひ参加してください。      


●14:00-16:00 胡麗娟報告
⑴一週間の講習報告
⑵3月14日胡耀貞研究会成立の報告
⑶自然站椿
⑷五禽戯のちょっと紹介
⑸八段筋の研究

一年前に胡耀貞研究会のお誘いをしたまま何もせずに経過してしまい、申し訳ありませんでした。これは同研究会の情報を転送してくれることを頼んでいた方が仕事をしていないで、一年間膨大な情報がすてられていたために起こりました。しかし、その間の研究会の活動はまだ準備活動で、正式の成立はこの3月25日でしたので、これからつなぎ直していくことで、実質的な関係が成立して行きます。日本の胡耀貞研究会は改めて六月に成立する予定です。これまでに会員を申し込んでいた方の会費は成立後初年度分の会費とします。会費は情報提供のための通信費です。活動の拡大に応じてまた提案します。HOMEに返る

 

 



京都講習

2016年3月28日 6:45

大同1


4月8日(土) 4月9日(日)
紫野教室


 

■京都講習

●4月9日(土)

*13:00   背骨ゆらしそのほか
*14:30   胡麗娟訪問の報告⑴
一週間の経過・立つということ・八段筋
*16:00   胡麗娟訪問の報告⑵
胡海牙仙学論集の紹介・簡易動功・鶴、熊のやさしい形
*17:30   簡単な大同精進料理を出します。
*19:00   胡麗娟訪問の報告と胡耀貞研究会成立のための討論
八段筋、五禽戯紹介


●4月10日(日)
*9:00 易筋洗髄経とその周辺
*12:00   いつもの中華粥
*1:00 静功と希望に応じての復習


一日  会員5000円一般6500円
夕飯1000円 昼のお粥500円
会場  気功文化研究所  堀川鞍馬口バス停前 HOMEに返る

 



 


大同報告① 去年から今年へ

2016年3月30日 1:35

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胡耀貞の長女を尋ねた。

大同に住む胡麗娟先生を訪ねた。胡麗娟先生は中国気功に大きな足跡を残した胡耀貞の長女である。もう84歳。少なくとも20歳くらいは若く見える。ひょっとしたらあとでぐったりしているかもと想像するが、教えているときは本当にお元気だった。  私は1964年に初訪中して陳?寧中国道教協会会長に習ったのが気功を習った最初だ。前の年に亡くなった胡耀貞にはむろん習うことができなかった。二人は宗教家と武術家で少しニュアンスが異なったが、気功の内丹領域を継承し発展させた点では、現代の気功家の中で際立っている。陳攖寧師とは1964年に習ったあと、文革時代に入り、宗教も気功も弾圧されて、老師自身とお会いできず、69年に亡くなった。  1988年に胡麗娟さんと妹の胡月仙さんに習っている。この前の年から始まった関西気功協会の10年の観気旅行で二人との出会いは大きな意味を持った。特に直接胡耀貞に習った胡麗娟さんにはじっくり習いたかった。しかしこの姉妹はイタリア、スペイン、ブラジルなどを長期に歴訪していて、なかなか日本に来てもらう機会がなかった。2013年になって胡麗娟さんをとうとう日本に招き、習うことが出来た。  このかんも胡耀貞気功の研究はずっと続けてきた。88年に貰った『胡耀貞静動気功』を翻訳し、その研究会を細々と続けてきた。でもそのときには導引や吐能とこの内丹との本質的な区別がわからなかった。それがはっきりしてきたのは最近のことだ。それでやっと本当の意味で胡耀貞を「読める」ようになった。  胡麗娟さんの授業は面白かったが、内容がありすぎて受け取る方は混乱した。時間をかけて習わねばと思った。しかし胡麗娟さんはもう日本にもイタリアにもどこにも行かない、年取ったし息子を育てなくちゃと宣言した。それで習いに行くしかなくなった。  去年の三月に最初の大同訪問をした。しかし九人の申し込みがあったのに、六人はキャンセルになってしまった。私と四国の内川さん、そしてフィンランドのカウコだけになった。そして通訳の許運堂さん。少ないなりに楽しい旅だったが、私はまったく金がなく、アコムから借金をして旅費や通訳料や受講料を支払った。今もなお返し続けているがまだ借りた分を返すには至っていない。  去年は道家八段錦を主として習った。これはまだ十数人にしか伝えられていない。今年またいろいろとヒントをもらったので、これから本格的に伝えていきたいと思っている。HOMEに返る


大同報告② 大同という場所

2016年3月30日 1:35

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大同市は山西省第二の都市

大同市は山西省第二の都市である。山西省の首都は太原になる。五台山は山西省の西北部にある。私は五台山は二度訪ねた。47の五台山の寺院のひとつには関西気功協会の石碑とわれわれが植樹した木々が残っている。五台山まで行くのが精いっぱいで他の都市を訪ねることはできなかった。大同市は去年、今年と二度目だった。  大同市は山西省の最北端で春秋の時代には晋となり、北魏の首都となった。最近になって昔の城壁を再建し、観光客誘致に力を入れ始めた。石仏で有名な雲崗までは30分の距離である。いくつか北魏の頃(四~五世紀)から残る寺もある。  大同は鉱山で知られており、石炭や鉄鋼の大きな鉱山もある。また明清からは商人の地として知られた。ウィキペディアにはこうある。 山西商人 中国の山西省出身の商人・金融業者の総称。山西は古くから鉄の産地として知られ、五代以降商人の勢力が形成されはじめたが、最も活躍したのは明清時代である。明代には北辺防衛の糧餉を確保するため開中法を施行したが、地の利を得ていた山西商人は米穀商と塩商をかねて巨利を得た。さらにその資金をもとに金融業にも進出し、活動範囲を全国に拡げ、新安商人とともに経済界を支配した。明代には塩商を典型とする政商として利益を得ていたが、清代には票号(為替)・銭舗(両替)・炉房(貨幣銭造)・当舖(質屋)の経営など金融業を主とし、その富で官界に影響力をもち、土地に対しても積極的に投資した。山西商人は徒弟制度を通じて同郷性を固守し、組合組織を固め祭祀や取引を共同にして、各地に山西会館を建てて活動の根拠地とした。19世紀後半には全国の為替業務をほとんど独占するほどであったが、新式銀行の発達や国際経済の中国浸透とともに衰退した。三国志に出てくる同郷の関羽を信仰し始めたのはこの山西商人であり、現在では中国全土はおろか、華僑のいる世界各地に、関帝廟が祭られるようになっている。  胡耀貞はこの土地に生まれて何度も家から脱走し、16歳で結婚させられたが、結婚式の晩に脱出してもう帰らなかった。漢方薬の店にひろってもらい、そこで拳法の師匠に出会って夢中になった。北京でも活躍したが最後は大同で死んだ。長女の胡麗娟はその後を追って医師となり、晩年の父に気功を習った。HOMEに返る


大同報告③ 三人の教授

2016年3月30日 1:36

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今年はやめましょうと消極的だった。

11月から日程も決めていたのだが、確定は濱野清志さん一人だった。ぎりぎりになって定方さんと都倉さんが参加を決めた。改めて許さんを通じて胡先生に連絡すると、今年はやめましょうと消極的だった。しかたなしに、「今回は三人の教授が行きますよ。胡先生の指導力を発揮するチャンスですよ。日本にも大きな影響力をもちますよ」と少しオーバーな口上をした。濱野さんは京都文教大学の心理学部長、定方昭夫さんは元長岡大学の教授、都倉雅代さんは常盤女子短大の教授だからうそではなかった。私も元京都芸術大学の講師と付け加えてもよかったが、ま、とりあえず三人の教授がいる。ぎりぎりになって去年参加した内川裕久さんと、カウコはだめだったがずっと一緒に気功をしているフィンランド人のへイッキが参加した。胡先生は納得してくれて、やりましょうということになった。  今回は一人一時間250元という設定だった。一日六時間で四日間で6000元になる。6000元はさいきんのレートで108000円になる。4日間で10万は高いけれど、教えてくれる内容によっては決して高いものではない。こちらとしてはいつ先生に会えなくなるか、そうなればもう胡耀貞の直系の人から習うこともできなくなってしまう。実際、先生は熱心に教えてくれた。内川さんは用意していたお金をそっくり落としてしまったので、それを伝えると、彼の分を受け取らないどころか5000元をカンパしてくれた。私にも北京での胡耀貞研究会の宴会費にと2000元くれた。北芪という大同特産の薬や名産の粟などをおみやげにくれたり、たくさんのバナナを練習中にくれたりもした。お金がほしいのではなく、こちらにお金を払っても習う意思があるかどうか確かめているふうだった。  来年から北京の胡耀貞研究会で胡耀貞気功を教えるらしい。今回われわれが主に習った五禽戯などは三年目にやっと教わる。「あの人たちには五禽戯をやったと言わないで」と彼女は言った。「八段錦を習ったことにすればいいわ」。その八段錦も実は心もとないのだが。
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