2016年2月1日 22:54
写真など投稿されているので、それを見ていただければ
さて、桧原村の報告だが、すでにいろいろ写真など投稿されているので、それを見ていただければいいようなものだが、まず前日からのことを簡単に書いておこう。九時過ぎの新幹線に乗って新横浜から町田の少し八王子寄りの相原というところに行った。ここの業務スーパーで材料を買おうというのだ。 中華街で買った物は、調味料など16の小さなタッパーに入れて、それ以外のものは袋のまま入れて、それだけで小さめのガラガラ一つになってしまった。背中には販売用の本やビデオを入れているから、まあ相当の荷物である。次からは桧原村に送っておこうとか思った。長田君が彼のムーヴで迎えに来てくれた。免許を取りなおしてからしばらくはムーブに乗っていたからなつかしい。その後四万円のオデッセイを手に入れて十年ほど乗り、あとは京都の中心街に居たので車なしで過ごしている。業務スーパーに行った。会員証を見せないと店に入れない、業者だけの業務スーパーだ。長田君は金魚玉珈琲の主人だから当然持っている。野菜、豆腐、肉と買いまわる。肉はキロ単位と言うふうだから、担々麺も麻婆豆腐も全部豚ひきですることに急遽決める。本当は麻婆は牛挽なのだ。私としては発祥の時の羊肉でやりたいが、どうせ辛くて区別がつきにくい。鶏も宮保鶏丁(ゴンバオジーディン)は胸肉だし棒棒鶏(バンバンジー)は腿肉なのだが、胸肉が七枚はいったのが安かった(ブラジル産だろう)ので、勢いに随って節約する。麺も三割引きコーナーで手に入れる。カニが一番迷った。まともに買うと必要な量が四千円、五千円する。800円で20個入っているかに爪を買って、あとはカニカマのそっくりさんですませた。商品名が「かにちゃいまんねん」なのは笑った。こちらもこういう開き直り方を見習いたい。 大体は手に入ったが、あとは前夜や二日目の夜の材料がある。五日市のスーパーにちょっと寄ってもらって、買いそろえる。 この日は和光の道場先生と交流して話し込んだので、料理には七時過ぎにとりかかった。前夜は七人。このくらいなら中華なら30分でできる。明日の材料として買ったものから豆腐を九つ買ったうちの一丁とか青梗菜を10株買ったからひとつとかでそれらしい料理を仕立てる。中華街で買った餃子をスープ餃子に仕立てる。焼きそばに炒飯も作る。11時過ぎまで酒を飲みながらいろいろと話して、それから明日の準備に取り掛かった。 部屋に寝に行ったのが四時半、30分集中して気功をし、五時から七時まで熟睡。起き出して朝粥を作る。ザーサイに胡麻油をかけたのとか、冬菜という白菜の塩漬けを少し戻したものとか、ピーナッツをねぎと炒めた物とか、定番のお粥のおかずを取り急ぎ作ってから、昼の四川料理の準備をさらに進める。 HOMEに返る
2016年2月2日 8:03
ここは12月に借りた。前回の講習は町田
桧原村での気功講習は初めてである。ここは12月に借りた。前回の講習は町田でした。町田は金魚玉珈琲だけ残して、あとはこちらに引っ越してきた。五日市から車で20分くらいのところだから、相当山深い。東京が壊滅しても、ここは残りそうだ。不便は不便だが、こういう山奥に事務所と集会所を持つのはいいかもしれない。 11時から気功の会をもった。三つのことをしますと最初にことわった。一つは自己マッサージ。北戴河気功医院の標準マッサージを伝えます。二つ目は、気功とは何かということをどういう形で伝えようかと思ったが、『健身気功』の今度の号に書いた「気功で脳はどう変わるか」という連載の一回目を中心に紹介することにします。三つめは、フィンランドで紹介してきたガンに対応する気功法を紹介します。こういう三大噺にした。 気功では自己マッサージが重要な位置を占める。といっても全然マッサージをとりあげなかったり、おざなりにやる先生もたくさんいる。現代中国気功の起点ともなった北戴河では、劉貴珍院長が内養功という呼吸法とともに保健功というマッサージを非常に重視してきた。全部指定通りの回数をすると40分ほどかかる。普通の授業の中ではハーフサイズでやっている。それでも、特に後半の大腸のマッサージ、膝そして足裏のマッサージなどは50回だから、始めてやると果てしなく長い気がする。これは特に入院患者のために、寝たままでいると便通がつきにくい、足が弱りやすいという所から来たものだ。全身をゆるめてさすっていくとだんだん寝込みそうになる。最後に「機織りのポーズ」といわれる少し腹筋を使う大きな運動をして我に還るようになっている。 私が体験入院をしたときは、このマッサージを一日四回、放送があってみんな自分のベッドでしていた。たいていの病気はこれだけで、完治はしないがかなりよくなってしまう。今まで「自分をケアする」ことが全くなかったので病気になったのだとすれば、それだけで大きな思想の転換、生活の転換である。18の動作をすぐには覚えきれないかもしれないが、できる範囲で思い出してやっていき、そのうちだんだん正確に決まり通りやり、さらに自分に必要なものをつけ加えて「わたし流」を作って行けばいい。 そのあと気功とはどういうものかをわかってもらうために三ページほどの文章を読みながら、解説をした。気功で何が変わるかと言うと、それは脳の使い方が変わるのである。脳の、とくに前頭葉の単位酸素消耗率が低下していく。これは西洋の運動理論が酸素消耗率を上げて行くことを目標にしているのとちょうど逆である。一般にすべての瞑想法は前頭葉の酸素を少なくしていく。気功の場合覚醒時に対して熟睡時は16%酸素の消耗率が低下するが、気功状態では平均で46%まで落ちる。つまり熟睡の三倍脳が休まっている。だが、普通の瞑想は前頭葉を休ませるだけだが、気功はさまざまな動作によって脳のほかの部分を活性化していく。哺乳類の動作の模倣(五禽戯とか)をすると血液は大脳基底核に集中するし、爬虫類の動作(亀蛇気功とか)をすると視床下部が活性化する。鳥の真似(大雁功とか)をすると小脳が元気になるし、魚の真似をして泳ぐと延髄が活発になる。このことは実は発達心理学のピアジェ研究所がたしかめて治療に応用しているのを気功に応用したものだ。 というような話をした。気功は進化の歴史を逆にたどって生きた生命博物館としての身体を、とくに脳に集約される体系を活性化するものだ。視床下部から延髄へと降りて行ってどこまで行くのかと言うと、腔腸動物の時に発生した「始まりの脳」である内臓神経節まで行く。気功ではこれを腹脳と言って来たが、伝統的には丹田と表現してきた。というような話をした。 これで一時間である。全体二時間だから忙しい。後半は郭林のガン気功の紹介をした。郭林さんには会えなかったのだが、ご主人や、有名なお弟子さんたち何人かにならった。動作はとても簡単だが、ガンの部位や急性か慢性かなどによって微妙な違いがある。フィンランドでガン患者の相談を受けて追加の特別講習を二度したら初めての人がずい分来たのでガン患者だったのかも知れない。フィンランドでコンパクトな紹介をしたときのレジュメを使って、さらにコンパクトに呼吸法や歩いていく動作や発声法やを紹介した。頭の按摩は時間切れでできなかったが、足の按摩のやり方だけ伝えた。本格的にやったほうがいいガン患者が居たら紹介してもらいたいし、本人も予防の意味でもっとしたければそういう場を作りましょうと言った。実はこれから関東は放射能を浴び続けて五年目に入り、これからガン患者が激増してくると思っている。 こんな二時間だった。春から気功をやってきた人が6,7人、あとは初めての人である。気功の可能性が伝わればいいが。HOMEに返る
2016年2月2日 9:22
まず前菜で、これは予定通り四種類。
それで四川料理のメニューだが。予定していたのをいくつかできなかった。いくつかは夜食にまわして、翌日の朝食にも使った。白菜一個と大根三分の一、ナス二本だけが残った。腐乳という豆腐の塩辛はみんな気に入っていたのでそのまま残してきた。 まず前菜で、これは予定通り四種類。 《海哲皮/くらげと大根のサラダ》 これは水にもどして千切り大根と和えるだけのさっぱりサラダ。 《棒棒鶏/鶏と胡瓜の胡麻ソースかけ》 名前は棒棒鶏だが棒棒鶏ソースでなく「怪味ソース」を使っている。ゆでた鶏と胡瓜にごまだれソースをかけている。 《峨眉紫瓜/なすのペーストえびせん添え》 なす中心のペーストを作る。なすは八ミリの角切り、ねぎみじん、ひき肉を少々、鶏スープ、片栗粉、甜面醤、老酒、冬菜でペーストにして松の実を散らす。広い皿にどんぶりをおいて、どんぶりになすのペーストを入れ、周りに揚げたてのえびせんを乗せる。 《開洋黄瓜/きゅうりと干し蝦の和え物》 干し蝦を半日水に漬けて戻し、薄く切った胡瓜と和える。これは塩と油だけのさっぱり味。ここの胡瓜は小口からの薄切り、棒棒鶏のほうは叩き胡瓜をぶつ切りにする。 ここまでが前菜。二十人前で足りるかなと心配したが、前菜はもっと食べたいと思わせるのが目的だからこれでよかった。 《宮保鶏丁/鶏とピーナツのピリ辛炒め》 宮保は18世紀の四川の役人の名前。彼が作ったことになっている。宮保腰果というとピーナツの代わりにカシューを使う。鶏むね肉一キロに葱20センチ、しょうが、にんにく、ピーナツ150g、醤油、砂糖(いつも控えめにしている)、紹興酒はいいとして、唐辛子一カップというのがちょっと多い。でも半分くらい使っている。よけて食べるのが当たり前と思っているだろうが四川人は余さず食べる。これでも「ピリ辛」である。 《水煮牛肉/すごく辛い牛肉炒め》 牛肉一キロに白菜、葉にんにく、セロリ(このあたり皆中国野菜で業務スーパーでは手に入らないが似たものを使っている)、豆板醤、山椒、唐辛子25本というのが恐ろしい。豆板醤も四川のもので、唐辛子とそら豆を漬けたものだ。粉の唐辛子と豆板醤とホールスタイルの唐辛子の三重苦である。山椒も粉山椒とつぶ山椒と両方使う。そんなものは食べられまいと思うだろうが、意外にさっぱりしている。これがおいしかったという人は多い。代表的な四川料理だが、日本の四川料理屋ではあまり見かけない。 《麻婆豆腐/もっと辛い豆腐とひき肉炒め》 「ピリ辛」「すごく辛い」「もっと辛い」というのはまあ半ば冗談で、エスカレートしているわけだ。豆腐を八丁使って、牛挽肉のところ豚で節約して500g、ニンニクの茎、片栗粉、鶏スープ、ドウチ、山椒、唐辛子、豆板醤。最初に多めの油に唐辛子15本ほどと丸のままの山椒を20粒くらい入れて油に香りをつける。あまり焦がさないで取り出しておく。そこに肉とニンニクの茎を入れて炒めるが、この時は粉山椒と輪切りの唐辛子がたくさん入る。ドウチは大徳寺納豆と同じものだが、納豆菌ではなく麹菌を作用させたもの。納豆は日本の縄文とネパールとインドネシアにしかないので「納豆の大三角形」という。ほかのアジアはみな「大徳寺」のほうである。豆腐を入れて炒め、スープを入れて煮込み、最初の取り出した唐辛子と山椒を飾る。日本で食べられるのと違って真っ赤なスープの中に豆腐が浮かんでいる。 《姜爆山薬/辛くない山芋の生姜炒め》 ここからリハビリ過程に入る。新生姜のうすピンクのをつかうが、山芋を輪切りにしてこの生姜で和える。砂糖と老酒と油だけ使って、塩味は生姜漬けのものだけ。さっぱりしている。 《干篇四季豆》 普通の隠元炒め。両端をとってハーフカットした隠元豆を豚ひき肉少々と冬菜、生姜、塩、酒、砂糖で炒める。 《蟹黄焼白菜》 白菜を大きいままはがして、一口に食べやすいよう切りはなさないままカットを入れてゆでる。これを皿に敷き詰めて、上から蟹の卵スープをかけまわす。蟹爪とかにちゃいまんねんを使っているが、むろん四川料理屋へ行くと本物の蟹だけを使う。卵が半熟になりかけの微妙なところでかける。 《酸辣湯/酸っぱくて辛いスープ》 といいながら、唐辛子と醋を入れ忘れて出してしまった。鍋ごと出して半分余ったので豆板醤と醋を入れて出し直した。鶏をゆでた汁を使っているからそれだけで十分おいしいが。ベーコンがかなり入り、豆腐と椎茸、たけのこ、青梗菜、片栗粉、胡麻油、老酒、香菜は忘れずに使っているから、一応すでにちゃんとしたスープなのである。醋は鎮江醋を使う。見たところ醤油みたいに黒く、こくがあり、色々な料理に隠し味に使える。 《糖水白木耳/白きくらげとクコの実のシロップ漬け》 ライチの大きな缶詰をシロップごと使い、少し砂糖水を足し、クコとゆでた白木耳を入れる。デザートの感覚である。 一応こんなところを時間までに出した。忘れたというか、時間切れでやらなかったのが青菜炒めと担々麺だ。半分以上の人がその日とまったので、夜食にこれらと残っている材料でいろいろ作って出した。担々麺は汁なしで挽肉と香菜が載っていて辛い味噌がかけてある現地のスタイルである。 HOMEに返る
2016年2月8日 19:30
出る気になり、まず自転車でセブンイレブンに行った
三時ころになって出る気になり、まず自転車でセブンイレブンに行った。航思社のゲラを送り返す。まだ全部ではない。少し加筆して明日にはまた送らなければならない。『横議横行論』である。『戦略とスタイル』に続いてこれを出して、二冊合わせてイベントをやろうかという話になっている。ついでに12月の電気料金を払い込む。いなかった時期だから千いくらだ。 区役所に行った。今日はパスポートを取りに行くのでその前に戸籍謄本と住民票をとっておく。パスポートはまだ8年くらいあるが、机に引っかかって二センチくらいの裂け目ができてしまった。普通でいうと再発行になる、とこの前出国した時に言われた。取り直すのか、同じものの再発行になるのか、今月下旬には武当山に行くから、再発行だといまからぎりぎりだし、間に合わなければ「更新中です」という書類をもらはなければならない。 ついでに、国民健康保険料を三月まで一括で払う。介護保険の方へまわってみたら、こちらは二年分たまっているという。一万五千円ずつ四回で払うことにした。介護など切実でないので、もし必要になったらということだ。誰かが心臓にスタント一杯入れて身障者手帳とってないんですかと言っていたので、その書類ももらってくる。バスとかも半額だと言う。 自転車を家の前に置いて、タクシーで法務局に行った。フレッツ光を引くのにNPO法人の書類がいる。だらしのないことで、まだ山端大塚町の住所になっている。今はこれでとって、変更届けに何が必要なのかきいてみようと思ったら、相談したい人があと四人いるから一時間後ですよといわれて、いやになった。予約をすればその時間にできますよというので、明後日予約をした。天満橋に行く前に寄る。府立大学病院前からバスに乗って、京都駅へ。駅ビルの八階にたどり着いて聞いたら、四時半で終わりですという。五時近くなっていた。愛想の無さに「社会主義国みたい」とつぶやく。これも明後日だ。 地下街を歩いていたらリプトンから女の子(?)が飛び出してきて、津村さんと呼び止めた。30年くらい前に東京でいろいろな講座をYさんとかTさんとかと一緒にやったTですと言われたが、覚えていない。いやだ何度も津村さんのホテルに行ったでしょ、この間片づけていたら津村さんのラブレターがでてきてなつかしいと思っていたところ、というが名前は聞いた覚えがあるが顔は申し訳ないが覚えていない。こんな美人を忘れるとは、ぼけが進んだというか、悟りが深まって過去にこだわらなくなったということなのか。 9番のバスに乗りながら辺見庸のベトナム滞在の小説を読み進めた。HOMEに返る
2016年2月10日 10:53
パスポートは朝動かないといろいろ想定外のことが
パスポートは朝動かないといろいろ想定外のことがあって、だめだ。旅券事務所は9時に開くからともかくこの時間までに行こうと8時半のバスに乗った。伊勢丹はまだあいていないが、二階からここに通ずるエレベーターを見つけた。その前に写真撮影である。駅の案内書に聞くと、そのあたりに二カ所ある。写真を撮って上がって行ったときはさすがにほとんど並んでいなかったが、申込書を書くうちに20人ほど並んだ。 いったん書類がそろっているかなど点検して、受付番号をもらうまでに30分、それから小一時間待たされる。辺見庸のベトナム物をずっと読んでいる。年増の美人のお姉さんがたくさんいる。その中の一人に呼ばれて、書類を見てもらった。まず私の古いパスポートが滋賀の住所のままだから、このさい京都に移さないとパスポート上はもう10年滋賀県民で過ごすことになる。それで戸籍謄本と住民票を持っていったのだが、滋賀県から移ってきた記録がないと意味がないという。それでもう一度取りに行けという。北区役所で取れなければ滋賀まで行ってください、と。それは今日は無理ということだ。とにかく区役所に行ってくることにする。 写真が傷がついているということも言われた。斜めに光に透かして見るとかすかに波打ったようになっているが、それで問題になるとは思えない。下の少し小さいサイズのは傷がないが使えないという。しかたないから再度800円を投じて写真を撮り直した。ところが、これはあとのことになるが、別の係官に当たったら下の小さいサイズの方を切っている。「上の二枚でなくていいんですか」と聞いたら「この四枚どれでもいいんですよ。下の方が少しバランスがいいし」と言う。1600円を投じて七枚余るのだから、ひどい話である。3.5×4.5でないと使えませんというのは単なるいやがらせだったことになる。 それでもう11時45分になった。食事をしてからバスに乗って北区役所に。30分はかかる。「それなら昔の縦書きのやつを出してきましょう」と出してくれた。これには世田谷で生まれて滋賀から京都に移ってきたと全部書いてある。光フレッツに出す分も使ってしまったから戸籍謄本と住民票ともう一部ずつとりなおす。 また引っ返して京都駅へ。ずっと人は増えていたが、今度は無事に受け付けてもらった。武当山には19日に発つが16日に欲しいと言って間に合わせてくれることになった。それで三時半。ちょっと同じ階のリプトンに入って紅茶を飲む。駅のセブンイレブンでちょっと買い物をして家に着いたのが5時。ところが家の鍵がない。家の近くのセブンイレブンで全部ひっくり返してみたが、ない。携帯を持っていないから、公衆から小原さんを呼び出すと、今日は遅番でまだ仕事している。いつもの翡翠で待つことにする。貯まっているビッグコミックを読む。それから鍵屋に行って小原さんに渡してある鍵をコピーする。小原さんの家まで行ってダビングを頼んでおいたDVDを取ってくる。それでやっと落ち着いた。八時半に出かけて夜の八時になってしまった。 HOMEに返る
2016年2月18日 15:14
私の生まれ故郷下北沢に行ってみた。
月曜日(2月15日)。日曜に健身気功の会議があり、定方昭夫さんの易学講座があって上京したついでに、下北沢に行ってみた。下北沢は私の生まれ故郷であり、18くらいまで過ごした場所である。50年前に大船に父が家を建ててそこに移った。20年ほど前に一度訪ね、その時でさえまったく変わってしまった下北沢の風貌だったが、そのころから変化は本格的になったようだ。父は労働運動の指導者だったので、下北沢の家にいたころは忙しくてほとんど会えなかった。母は戦後には私たち兄弟を産んでからは新村出の辞典の編集をてつだっていた一時期を除いて、もっと家に居られる仕事をしようと、家で英語塾を開いたり、昔柳橋の芸者だった母の母に習った三味線などを教えていた。その合間に私に文章を書いてごらんと勧めて、こうして「書く」人生に導いた。戦前には中央公論や婦人公論の編集者をしていたので、「書かせる」ことはお手の物だった。兄もそういう教育を受けたらしいが、詳しいことは知らない。とにかく下北暮らしはいつも母と一緒だった。
下北沢はまず母の町だった。あそこの路地にもここのパーマやさんにも、隣の家も向かいのおばあちゃんかかりつけの医者さえも皆母の組織した小唄のグループのメンバーがいた。「おさらい」という発表会をすると、6,70人は集まった。小唄だけの会でなく、みんなで漁船の船頭の格好をしてソーラン節をやったりもした。英語の仲間の家も町のあちこちにあった。
20年前の時、井の頭線の駅からの井の頭通りを歩いていたら、汚い格好をした膨らんだ白髪の中に顔が埋もれているようなおばあさんが、へらへらと笑いながら通った。彼女は立ち止まって、私に笑いかけた。白痴なのかな、と思ってすれちがったが、大分歩いてから、母の片腕として小唄を会の世話役をしていたNさんだと突然思い出した。白髪がやたらに丸く広がっている真ん中の顔と丸い眼鏡とは忘れようのない風貌だった。彼女の家はこの井の頭通りを成徳学園のほうへもう少し行ったあたりにあった。戻って探したが会えなかった。もう今はとうにいないだろう。
今の私は堀川に居ても、ほとんどまったく周囲とは没交渉である。隣りの部屋の人と、一階のワインレストランの親爺とは顔が合えば挨拶をするくらいで、ご近所に訪ねていく家とてない。下北沢での生活はまったく違っていた。よその家にもよく遊びに行ったし、私のところへくれば漫画を読めたり平凡社の百科事典からちょっとエッチな写真を探したりできたから、とくに女の子たちはしょっちゅう家に来た。Y子が家の掘りごたつで漫画を読んでいたので、私がこたつの中にはいってフザケたりしたことがあった。そういえば坂道を降りたところにあったレコード店のM子ちゃんには、学校で映画を見せられた時にも同じような体験をしたことがあった。私の幼いころのウィタ・セクスアリス的な事を書きだせば切りがない。それよりも下北沢の町筋のことである。